言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

今年の卒業生に書いたもの

2018年03月15日 15時26分21秒 | 日記
 今月の4日は、私の勤めてゐる学校の卒業式だつた。2年生から教へてゐたので、丸5年。最後の一年は担任も務めた。さうした生徒に、伝へるべきことは伝へたか。あるいは伝へられたかと言へば、心許ない。私の意識は、あまりさういふところに向かはなくなつてしまつた。これが年齢によるものなのか別のものなのかは分からないが、事実として記録しておかうと思ふ。ただ、書き物としては書いておいた。
 以下は、『卒業文集』に載せたものである。


「感想と意見」
                        教員 前田嘉則

担任の特権で、君たちの文章を読ませてもらつた。到底想像もつかない君たちの六年間の歩みを知ることができる貴重な機会だつた。九月の尋常でない忙しさのなかでそれらを読んだが、読んだ感想はとても気持ちのよいものだつた。礼を失するやうな語句もあつたが、その言葉を発するときのその君(くん)の口調や表情がよく分かるから、「困つたな」と思ひを呑み込んで読み進めることができた。
「六年間を大事にしてきたな」
 それが私の感想である。卒業おめでたう。元気でやれよ。
 ただ、私は国語の教師である。そしてこの国に生まれ育つた先輩である。なので一言だけ言ひ添へる。それは言葉を大事にしてほしいといふことだ。言葉は道具である。それなら、その道具を大切にするに如くはない。料理人が包丁をゾンザイに扱はないやうに、野球選手がグラブの手入れを入念にするやうにである。いい加減に言葉を使ふ者は、いい加減に人を扱ふし、いい加減に仕事をする危険性がある。「通じればいい」といふのでは、言葉はどんどん劣化する。
 明治以来、日本人は国語を大事にしないことを近代化だと思つてきた。「小説の神様」志賀直哉は「国語をフランス語にしてしまへ」などと真顔で書いてゐる。さういふ風潮が仮名遣ひを改変し、国語の正統を溶解させた。じつに悲惨な状況である。しかも、そのことが深刻なのは、この事態が惨めなものであるといふ意識も失はせたといふことである。言葉は、意識を変へてしまふからである。いい加減に言葉を使ひ、「通じればいい」といふことが「正常」になれば、言葉の正統を意識することの方が「異常」なこととなつてしまふ。
どうやら「悪貨は良貨を駆逐する」といふ法則は、単なる経済学だけのことではないやうだ。
 もちろん君たちに、歴史的仮名遣ひを使ひませんかとは言はない。ただ、「現代仮名遣い」つて変だなといふ意識は持つてゐてほしいと思ふ。
 一つ例を挙げよう。
「東京へ行く」の「へ」を「え」と発音してゐるのに、どうして「え」と書かないのか。
このことを説明するには、どうしたつて歴史的仮名遣ひといふことを知らなければならない。
「へ」は方向を表す言葉で、私の苗字である「前田」は、歴史的仮名遣ひでは「まへた」である。「ま」は「目」のことで、「へ」は方向を表す言葉である(ちなみに「行方(ゆくへ)」とは「行く方向」といふ意味)。したがつて「目の向いてゐる方向」が「前(まへ)」である。「東京へ行く」の「へ」は、東京の方向を示してゐるのだから、発音が「東京え」であつても「東京へ」と書かなければならない。
writeと rightとが同じ発音であるのにspellingが違ふことに何の疑問を持たない人が、どうして「重い」と「思ひ」は同じ発音なのだから、両方とも「おもい」と書けなどと無茶苦茶なことを強弁するのだらうか(現代仮名遣いとはさういふ無茶な理屈なのだ。「地面」は「じめん」、土地は「とち」と書けといふものも可笑しなことだと思ひませんか)。

二年生から教へて来て丸五年。あともう一年教へてゐれば、きつと君たちの国語愛も深まつたかもしれない。それが出来なかつたのが心残りである。
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