今朝の読売新聞一面コラム「編集手帳」がとても良かつた。
話題は、京都大学の「タテカン撤去」についてである。大学がキャンパスの外周にタテかけた看板(カンばん)を「条例違反」として撤去に乗り出し、それに学生が反発し騒動になつてゐるとのことである。
そこで編集手帳子が元総長の西島安則の言を引き、自由とは何かといふことを問うてゐる。
西島は、京都出身で、府立洛北高校を出てゐるらしい。そこの校長は「紳士たれ」と語り、ライバル校にイートンやハローの名を挙げ、戦前だから将校から「ゲートル着用」を命じられると、「我が校は自由を尊重する」とやり返したといふ。生徒には、シャークスピアやノバーリスを教へる傍ら、ズボンの折り目だけはきちんとつけるやうにと指示が出されてゐた。
ここからがいい。その「学校からの指示に、生徒は毎晩、霧吹き、寝押しを欠かさなかった」といふのだ。
今の御時世なら、「ゲートル着用」も「ズボンの折り目」も同じく自由を奪ふものと映るだらう。しかし当時の学生には、その違ひが明確だつた。その命令がどこ(どういふ精神)から出てゐるかがはつきりと理解されてゐたといふことである。
問題はここである。物事の本質が学生と教師たちとに共有されてゐたといふことだ。そのことがあるから、西島をはじめとする洛北生たちは「紳士たる」べく生きようとし、京都大学に入つてからはその自由の学風を守らうとすることが出来たのだ。ところが、今回のタテカンを外す側にもそれに反発する側にも、本質を探らうとする姿勢は見えてゐない。発せられる言葉のすべてを知つてゐるわけではないが、報道されてゐるものからはそのことが感じられない。権力の行使とそれへの反抗といふ構図では、「自由」は表出してこない。
編集手帳子は、西島の次のやうな言葉を引いてゐる。
「結晶は完璧になると成長しない。整い過ぎる時には異質なものが必要だ。」
高分子化学が専門の西島一流の比喩であらうか。その伝に倣へば、「成長」するといふことこそ、自由を考へる上の本質である。「大学改革」(ほとんどすべての「改革」)の今は、それが治療でしかなく成長になつてゐないことが問題であり、それを危惧するのである。