言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

椿原泰夫先生を偲ぶ

2016年11月13日 09時36分18秒 | 日記

 熱い方であつた。私が出会つた時には、すでにご高齢ではあつたが、自ら京都で読書会を開かれてをり、国語問題協議会の関西講演会にも来ていただいた。その後の懇親会でも楽しげにしてをられ、最後までゐていただいた。

 歌も詠まれる方で、主宰されてゐた会報誌に奥様と共に歌を寄せてゐられた。

 国語についての考へは先生はほとんど同じであつただらうが、社会のありやう、皇室について、歴史観については、微妙に違つてゐたと感じてゐる。議論を好まれる様子はなく、小異を捨てて大同に着くといつたお姿であつた。手紙でお伝へしたこともあつたが、お返事は一度しか来なかつた。私には、それが先生との間の壁のやうに感じてしまふところがあつて、京都の読書会にも、愛知県への移動に伴なひ行かなくなつてしまつた。

 会報誌は、昨年までは出されてゐたやうな気がする。今手元にそれがないので確かめられないが、最後はきちんと「終刊」の宣言をされてお辞めになられたと思ふ。

 防衛大臣の稲田朋美さんの御尊父と言つたら、多くの人が椿原先生がどなたなのかはお分かりになるだらう。しかし、椿原先生を知つて稲田さんを見ると、なるほど稲田さんとはどういふ方なのかといふのが分かるのである。筋を通すといふことを大事にされた方である。

 私はそれほど交流を深くした訳ではない。しかし、それでも会ふ度ごとに楔を打ち込まれてゐたやうな気がして、かういふ追悼の言葉を書きたくなつたのである。

 昨日、名古屋で浪人生を激励し、6年前の卒業生と再会し、帰宅すると机の上に椿原先生の奥様からの偲ぶ会の案内状が置いてあつた。

 亡くなられたのは10月8日であつた。そして偲ぶ会は今月27日(日)である。場所は福井県繊協ビルとある。詳しくは、稲田事務所へとあつた。

 御冥福をお祈りする。

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