小林秀雄全作品〈20〉ゴッホの手紙 | |
小林 秀雄 | |
新潮社 |
小林秀雄に『ゴッホの手紙』といふ評論がある。
そのはじめの方に「悪条件」について書かれた節がある。私たちの近代が、どういふ状況の中にあるかといふことだらうと思ふ。やや唐突な感じで書かれたのが次のやうな文章である。
悪条件とは何か。
文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聞き、絵は複製で見る。誰も彼もが、さうして来たのだ、少くとも、凡そ近代藝術に関する僕等の最初の開眼は、さういふ経験に頼つてなされたのである。翻訳文化といふ軽蔑的な言葉が屡々人の口に上る。尤もな言ひ分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるといふ事と、僕らの喜びも悲しみもその中にしかあり得なかつたし、現在も未だあいといふ事とは違ふのである。どの様な事態であれ、文化の現実の事態といふものは、僕等にとつて問題であり課題であるより先きに、僕等が生きる為に、あれこれの退却つ引きならぬ形で与へられた食糧である。誰も、或る一種名状し難いものを糧として生きて来たのであつて、翻訳文化といふ様な一観念を食つて生きて来たわけではない。当たり前なことだが、
文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聞き、絵は複製で見る。誰も彼もが、さうして来たのだ。少くとも、凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は、さういふ経験に頼つてなされたのである。翻訳文化といふ軽蔑的な言葉が屡々人の口に上る。尤もな言ひ分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるといふ事と、僕らの喜びも悲しみもその中にしかあり得なかつたし、現在も未だないといふ事とは違ふのである。どの様な事態であれ、文化の現実の事態といふものは、僕等にとつて問題であり課題であるより先きに、僕らが生きる為に、あれこれの退つ引きならぬ形で与へられた食糧である。誰も、或る一種名伏し難いものを糧として生きて来たのであつて、翻訳文化といふ様な一観念を食つて生きて来たわけではない。当たり前な事だが、この方は当たり前過ぎて嘘になる様な事は決してないのである。この当たり前な事を当たり前に考へれば考へる程、翻訳文化などといふ脆弱な言葉は、凡庸な文明批評家の脆弱な精神のなかに、うまく納まつてゐればそれでよいとさへ思はれて来る。愛情のない批判者ほど間違ふ者はない。現に食べてゐる食物を何故ひたすらまづいと考へるのか。まづいと思へば消化不良になるだらう
「悪条件」の中に生きてゐるのが私たちである。理想的な好条件の中に生きてゐるといふ人がゐるかもしれないが、それは多分勘違ひか、独裁者かであらう。その悪条件を食つてでしか生きて来られなかつたといふ自覚なしに、批判者よろしく悪条件を論つても、「消化不良」を起こして栄養失調になるしかない。かと言つて、今の悪条件を素直に受け入れろ、と言ふのでもない。「僕らの喜びも悲しみもその中にしかあり得なかつた」といふ自覚こそが必要なのである。
かういふ宿命論は小林秀雄らしい。しかし、かういふ考へを平成30年の文藝誌や新聞に載せたとして、果たしてどういふ事態になるだらうか。もちろん、喝采を浴びることも、目が醒める思ひがしたとも言はれまい。かと言つて出版社や新聞社に「どうしてこんなアナクロニズムを載せるのか」といふ抗議も来ることはないだらう。一言で言へば黙殺である。讀まれもしないし、否定もされない。これが書かれた1948年とは大きく日本人が変化してゐるからである。
だから、「悪条件」をもう一つ加へなければならない。「現に食べてゐる食物を何故ひたすらまづいと言つてはいけないのか。まづい物を我慢して食ふことほど馬鹿なことはない。まづい物を食べるから消化不良になるのだし、健康にもよくないのである。さう言つてゐながら一向に働かず、食物を自ら求めようともしない、長袖者流を相手にしなければならないのである。愛情のない批判者ほど間違ふ者はない」と。
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