(承前)
梅棹氏の論は、これまで縷縷述べてゐるやうに言ひがかりに近い。一方では、西洋的文法を日本語にあてはめることを批判し、一方では非西洋的である表記性を持つた日本語を揶揄する、かうした矛楯に全く氣附いてゐないといふことをどう考へるべきか。
氏の論には、このやうな場當り的な表現があちらこちらに見られる。フィールドワークといふものが、思ひつき(試行錯誤)を以て學問の成果を擧げて行く手法であるとは半ば仕方ないことではあらうが、その手法を「言語」に向けるのはまつたく御門違ひである。傳統や規則を無視した試行錯誤は、所詮思ひつきであり、傳統や慣習を重んじる言葉の世界を知る術にはならない。
氏は、こんな愚かしいことを書いて平氣でゐられるのが不思議であるが、言葉とは何であるのかを考へてゐないからである。
「現代文明における日本語の大問題のひとつは、この言語を機械にのせることがひじょうにむつかしいという点であります。文書をかくにしても、ローマ字国でははやくからタイプライターが発達していますから、きわめてかんたんです。印刷技術にしても、日本のように何千という種類の活字を相手にしなければならない国とは、くらべものになりません。大量の文書を作成し、その情報を処理しなければならないという時代に、いま、われわれの社会はさしかかっていますが、そういう実際的な要求に対して、現在の日本語ははなはだ不都合がおおいのであります。」
(『あすの日本語のために』二〇九頁)
ある「言語を機械にのせる」(かういふ言ひ方も洗煉されてゐるとは言へない)ことができないのなら、普通は機械の方を變へようと思ふはずである。ところが、梅棹氏は日本語に文句を言ひ、當時コンピュータで使はれてゐたのが「カナモジかローマ字」なのであるから、國語の表記の方を變へろと言ふ。「わたしどもが国語として教育され、日常もちいている言語体系はいったいなになのでしょうか。現代文明の要求からは、はるかにかけはなれてたものになりつつあるのではないでしょうか。」などと放言する。おまけに、情報をめぐる技術において、大變革が「おこらなければ、日本の運命はあやうい」などと警告し、日本語を「カナモジかローマ字」にするといふ大英斷を迫つたのである。
こんな見通しがまつたくの謬見であつたことは、言ふまでもない。機械がその後改良され、漢字假名交り文の國語が、そのままに表記されるやうになつた。日本の運命はあやういなどといふのは迷ひ言でしかないことは明らかである。思ひつきの言は、またしても信用できないことがはつきりした。
また、同書の二一二頁には、「日本語というのは奇怪な言語である。言語操作をもって業とする最高の知識人が、辭書なしでは手紙もかけない。しかも辭書をひいても、どれがただしいのかわからない場合がいくらでもある。現代の文明語で、これほど基準のたよりない言語がほかにあるだろうか」と書いておきながら、そのすぐ後で「(文章語を)自由にかきこなすには、ちょっとはけいこが必要だけれど、これは教育しだいで、できる。ひとたびかけるようになってからは、さほど妙なことはおこりません。」(『同書』二二二頁)と書いて平氣なのだから、驚きである。
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