言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語20

2005年06月05日 10時45分43秒 | 日記・エッセイ・コラム
 國語學といふ學問はあるが、國語はその國語學者のものではない。當り前のことだ。ましてや假名遣ひは國語學といふ學問の對象ですらない。言葉の使ひ手たる一人ひとりの私のものである。それだから、國語學者が内閣訓令などによつて政府の文書を統制することもをかしいし、それをあたかも國民への義務であるかのやうに、新聞社や出版社が自己規制したといふ經緯はきはめて由々しき事態である。
 昭和二十八年小泉信三が文藝春秋に書いた「日本語」を發端に、金田一京助と福田恆存との間で論爭が行はれたが、その底流にあるのは、國語を愛すると言ひながら、じつは自己保身に過ぎなかつた一國語學者への批判である。
 もちろん、金田一は福田の敵ではなかつた。慇懃無禮な書き樣は異臭を放つてゐるが、その詳細は別の機會に述べる。福田は、おためごかしの知識人の、鼻持ちならない自惚れがどうにもたまらなく、なんとかこれを處斷しようとしてゐたのではと私は想像する。それはちょうど手ぐすね引いて餌食を求めてゐたところに、ひ弱な蝶々が飛んで來たといふ印象である。
 昭和二十五年に書かれた喜劇一幕物に『堅壘奪取』がある。ある宗教家のもとに一人の狂人が表はれ、意味不明の議論を繰り廣げるうちに常識とはなにか、論理とはなにかが分からなくなる一種ドタバタ劇であるが、その制作意圖を福田はかう記してゐる。

 人間はいつも自分の本當の姿を見まいとしてゐる。それも、まだそのことを意識して、人間とは自己欺瞞なしでは生きられないものだといふことを多少でも自覺してゐるのならいいけれども、例へば理想と現實の關係と同じで、理想通りいけばいいけれど、そんなことをやつてゐたら飢ゑ死にしなきやならない、ま、背に腹は代へられない、ここは一つ自己欺瞞をやる、現實主義で行かうと後めたい思ひでそれをやる、それからまた理想に立ち戻るといふことがあればいいのだけれど、自己欺瞞をしてゐる意識すらないといふのがおほかたの人間の姿で、それをぼくはやつつけてゐるんです。
           (劇團昴「福田恆存囘顧パンフレット」より)

 現實の國語改革論者の姿勢が、その通りであると結論を出しても、事情を知らない讀者には通じないかもしれない。しかし、いささかも惡びれることもなく、母國語の學習に歐米の子供達の何倍も時間がかかるのは、「損」であると言つてはばからない言説は、學者の自己欺瞞であらう。言葉はそれ自體が文化である。その修得に時間がかかるから漢字を少なくし、表記を發音どほりにしようとするのは、文化が生き方であることを知らない、きはめて平板な合理主義のなせる技である。そして、國語改革は日本の近代化を進める上で最重要課題だと輕信できるのは、言葉が文化であることを知らないからである。
 近代化は確かに合理主義に貫かれてゐるが、言葉は文化であるといふこともまた普遍的な眞理である。言葉を合理化すれば近代化が成立すると考へるのは思考怠惰であり、近代化を進めるのが知識人の使命だとするのは自己過信である。したがつて、怠惰にも過信にも氣附かない知識人は自己欺瞞に陷つてゐるのである。


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