言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

教育セミナー参加で上京す

2019年08月05日 19時31分04秒 | 日記

   二日間東京で教育関連のセミナーに参加した。話題は多岐に渡ってゐて、就職、大学教育、高大接続、探求型学習、進路指導、キャリア教育、図書館活用、地域連繋といふのが大まかな内容。

   SDGs「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」やら、グローバル教育やら、今どきの話題はどの発表からも聴こえて、正直言って食傷気味であつた。発表される先生方はどの方も頑張ってゐるのだが、時々その方がつぶやくぼやきに少し快さがあつた。ひとつだけ例を挙げれば「全てが上手く行つてゐるわけではありません」といふそのつぶやきが謙遜によるエクスキューズなのであれば単なる嫌味だが、さうではないやうに思ふ。学びが変はりました、といふ言葉にどこか嘘があることを生徒も教師も知つてゐるから、ほどほどにやらうといふブレーキが学校といふ組織には働く。それでいいのではないか。「うまく行つてゐない」といふのが学校の本来の姿なのである。

    社会はそんなに変はつてゐないのに、中等教育だけがものすごいプレッシャーを受けて変化を強要されてゐる。まさに脅迫される学校だ。これでいいのだらうか。そんなことを考へながらずつと聞いてゐた。辛い二日間だつた。交通費と宿泊代と会費とを払って忍耐を迫られる、結構ワイルドな時間だつた。友人との夕餉をセッティングしなくて良かった。こんな精神状態で話をしたら荒れてしまつたかもしれないからだ。

  で、結論的に私が考へたのは、今まで通り大学入試に向けて合格できる点数を取れるやうにして行くのが学校の(本校の)使命だと思つた。勉強を通じて我慢することを覚えることは学習にとつて必要条件だし、社会に出て役立つ能力(非認知能力)でもあるからである。

  それでも考へるべきことはある。それがこの夏休みの宿題だ。

  この原稿を東京駅に停車中の新幹線に乗つて書いてゐたら、停電した。その後直ぐに横揺れが。福島県沖を震源とする地震だつた。灯りはホームの照明で問題ないが、エアコンが切れて暑くなつて来た。

    20分後出発。

   大変な二日間の締めくくりは劇的だつた。

   さあやうやく夏休み。

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