言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『正論』2024年4月号に寄稿

2024年03月05日 12時44分37秒 | 評論・評伝
 
 今、書店に並んでゐる『正論』4月号に、「国語の『混乱』をごまかすな」を寄せた。年末に、「今度、言葉についての特集を組むことになつたから、是非書いてほしい」との依頼を受けて書いたもの。電話口で30分ほど、それについてどんな意図なのか、あるいは私が今何を考へてゐるのかといふことについて編集部の方と話し合つた。国語の混乱といふワードがその時に出てきたかどうかは分からない。ただ、年明け早々にある「全国大学入学共通テスト」については触れてほしいとのことだつたので、それを端緒に書くことを決め、その電話を切つた。
 実はこの年始は、金沢に旅行に行くことにしてゐた。11月に日帰りで金沢に出かけることがあり、今度は家族で来ようと決めてゐたからである。しかし、何だか気が進まないところもあつて、旅行をキャンセルしたところだつたので予定がすつぽりと開いてゐた。そこでこの原稿を書くことに決めて大晦日にはほぼ下書きを完成した。
 担当編集者からは、「暗礁に乗りかけたらいつでも連絡してほしい」と言はれてゐたが、方向性は書くほどに明瞭になり、電話をすることもなかつた。
 ところが、原稿を送つた後に、二転三転あつた。むしろそこからの編集者とのやり取りが私には得難い経験であつた。担当者にはご迷惑をかけることになつてしまつたが、かうして掲載誌を読むと編集者との打ち合はせが原稿をよくしてくれてゐたやうに思ふ。ありがたいことであつた。

 私の論文の前後にある浜崎洋介氏と川久保剛氏の論文には、いづれも福田恆存が引用されてゐた。私も同時期の批評家、中村光夫や河上徹太郎を引用してゐる。また私と浜崎氏とは同じくオルテガ『大衆の反逆』を引用してゐるが、やはり現代の「言葉を考へる」といふ特集を組むのであれば、かうした先人を基準にする以外ないといふことだらうか。さうした共通認識がそこにあるといふことを奇しくも表してゐた。浜崎氏や川久保氏とは面識はあるが、もちろん今回の件で話をしたわけではない。まつたく違ふ文脈で生活し、言論活動をしてゐながらも、共通認識があつたといふ事実が、むしろ今回の特集の意図しない成果ではないかと思つてゐる。
 逆に言へば、先人たちが生きてゐたあの時代にあつたものが、現代においては完全に失はれてゐるといふことであり、それを取り戻すのが現代の課題であるといふことだ。

 テレビでは、今も貴重な時間と費用とを使つて、国会議員たちが参議院で予算委員会を開いてゐる。しかし、その発言のどれからも、今後の日本において、「私がやるべき課題はこれだ」といふ心意気を感じることはできない。相手の発言を添削してゐるばかりで、自分が言ひたいこととはかういふことだといふ提示がない。そこにあるのは「よいことをしてゐる」ポーズだけで、「よいこと」は現前化しない。予算の配分が国会議員の仕事の本質ではある。しかし、その「配分」にこそ思想が現れるはずである。それが感じられない「委員会」とは、おままごとであらう。つまりは「ごつこ」なのである。
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