言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇7

2009年02月01日 11時14分06秒 | 福田恆存

   先日、ある人と會話して、じつに參考になることがあつた。言葉を曖昧に使つてゐる人は、まつたく意味をなしてゐない言葉を使つてゐてもまつたく疑問を持たないでゐられるのだといふことである。至極當り前の話なのであるが、御本人はいつかうに氣附かないといふのがまた實に滑稽で(もちろん見てゐて腹が立つのではあるが)、かういふ人が現にゐるといふことを知る事が出來て收穫であつた。少少大仰だが、福田恆存が平和論爭の折に、論爭が一亙りした後で、論敵には「人間論がない」ことを氣附き、自らの人間論を書く必要を感じて名著『人間・この劇的なるもの』を著したことの意味はかういふことなのだらうと想像された。もちろん勝手な共感ではある。學歴社會になつて、知が大衆化すると「知識人」問題は大衆の問題になるといふことである。言つてみれば、常識がなくなるといふことである。明治の批評家齋藤緑雨の言葉にあるやうに、まさに「教育の普及は浮薄の普及也」である。

  さて、そのときどんな話をしてゐたかと言ふと、これから起業をしようと考へてゐる友人と、私と、二人の共通の知人との三人で話してゐたときのことである。起業する友人が「最近、いろいろなコンサルタントの人と話すが、彼らの話す『經營理念がある會社が發展する』といふ言葉には違和感があるのだ。何だか嘘っぽく感じられてしかたない」と語つた。どうしてかと尋ねると、「彼らの言つてゐる理念、例へば『社會貢獻』などといふ言葉を聞くと、それが果して『理念』なのだらうかと思ふのだ」と言ふのである。私は驚いた。まつたくその通りだと思つてゐたからである。「理念」といふ言葉は、本來實現するはずのないもののことを言ふのであつて、言つてみれば、「經營目標」ぐらゐにしておけば良いものを、本來次元の違ふはずの「理念」と言つてゐるところに問題がある(彼等の考へてゐる「社會貢獻」といふのが本當に理念であるなら、不況の今こそそれを現實の經營の在り方に逆照射して意地を見せるはずであるが、所詮同次元のものだから、經營陣の刷新ではなく、リストラといふ名の從業員の馘首、節約といふ名の士氣奪取といふことになる。もちろん、理念も安易に實現をはからうとすると現實は破壞されてしまふからかぢ取りは難しい。が、それこそが經營である。經濟一流と胸を張つてゐた經營者たちが不況に當たつて一番目にするのが首切りや給料のカットといふのは、自分自身のプライドを捨ててゐることを意味するのにそれに氣附いてゐないといふことであり、「一流」や「自信」も結局は棚からボタモチ式の僥倖が生み出してくれたものなのであつて、自分で造り出したものではないといふことだらう。それなのに「經營理念」だなんていふ言葉を使ふ神經を私は心底嫌惡する)。

私とその友人とは、それで納得しあつた。そんな言葉より、私なら「いいものを作れ」と言はれた方がよほどやる氣が起きる。職人の心意氣といつてはアナクロニズムかもしれないが、それだけが私の心を打つのであるから仕方ない。

  ところが、知人は「それは違ふ。經營においては理念こそ大事なのであつて、それなしに企業が成立つはずはない」と言つた。斷つておけば、私たち三人はいづれも經營者ではない。素人談義である。しかし、知人の發言は、明らかに「理念」といふ言葉について考へたこともないゆゑの發言だといふことを瞬時に感じた。だから、かう言つた。

「理念といふのは、明治時代に出來たネオ漢語です。ですから、その本來の意味は英語で理解するしかありません。理想という言葉と同じ意味ですが、英語ではidea、つまりプラトンのイデアに由來するもので、現實には實現しようもなく、現實の樣樣な問題を解決する絲口として使ふのには有效なものです。たとへば、ある人が山道を歩いてゐるとする。方位磁石もなければ北極星でその位置を知るしかない。このとき、目的地を目指すのが經營方針、北極星が理念です。北極星に向つて歩いて行く人はゐないのと同じで、理念に向つて經營をする人はゐないのではないでせうか。どうして、素直に經營目標とか經營方針とかと言はないのでせうか。」

  さらに私は附け足したが、それは次囘に囘す。

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