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言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

山寺や石にしみつく蝉の声

2018年05月03日 09時48分42秒 | 日記

 先日、山形の知人を訪ねた。「山寺」とは、その山形にある立石寺といふ寺の俗称である。言はずと知れた芭蕉「奥の細道」中の名吟「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」が詠まれた場所である。

 「奥の細道」によれば、この場所はもともと道程にはなかつたが、人に勧められて訪ねた場所であつた。そして、この名句が生まれたのであるから、その寄り道はとても意義あるものだつた。

 この句の異形が題名に記したものである。

「山寺や石にしみつく蝉の声」

そして「さびしさの岩にしみこむ蝉の声」

さらに「さびしさや岩にしみこむ蝉の声」

を経て、「奥の細道」に見える形になつた。

「山寺」の閑かさに感動したのであるが、早い段階で「山寺」の名は消えてゐる。したがつて、私もこの句が立石寺で詠まれたものであることは今回の旅まで知らなかつた。山寺は、その名の通り山の上にある。岩山を下から一気に登つていく。岩山のあちこちに祠が建てられ、一望する景色はとても美しい。しかし、芭蕉にとつては、何よりその静寂さが大切に感じられたのであらう。「佳景寂寞(じゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ」と記してゐる。

「さびしさ」が「閑かさ」に転調していく姿をこの推敲のあとが教へてくれるやうだ。「さびしさ」も内包しつつ豊かさも含んでゐる「閑かさ」であるやうに感じられる。

 

 

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