矢内原忠雄を読み続けてゐる。
今は「ヒューマニズムとニヒリズム」である。畏友で藤井武を語る講演である。
一般にヒューマニズムとは、人間の間から神を放逐することであると思はれてゐるが、それは甚だ唯物論的であるといふのが矢内原の考へである。人間こそ最高の価値をもつ最高の存在であるのに、神などを考へたりすることが束縛が生まれ、自由を喪失すると考へてゐる。しかし、それは本当か。
たとへば生活が苦しい人がゐる。しかし、その生活苦が必ず人を不幸にするだらうか。たとへば病気の人がゐる。では、その人は必ず希望を失ひ捨て鉢になるだらうか。
自由とは、「境遇に拘らない精神のもち方」ではないだらうか。束縛からの解放を自由と定義することは、唯物的な発想である。何かを取り除けば自由になると考へるからである。しかし、それで得られる自由は、相当に次元の低いものである。
歴史的に見て、ヒューマニズムの起源はエラスムスだと矢内原は見てゐる。オランダのロッテルダムの神学者であつたエラスムスはカトリック教会に対して深刻な皮肉を言つた。彼は決して神を否定したのではない。カトリックの伝統を批評し、教会の固定した教義を嘲つただけである。しかし、彼は最終的に破門されることを怖れ、教会に屈服した。しかし、同じ批判をしながらついに屈服しなかつたのがルッターである。
ルッターとエラスムスの違ひを矢内原はかう述べてゐる。
「エラスムスには罪の意識、罪の観念がなかつた。彼は人間の自由を文化的に考へた。今日の言葉で言へば、基本的人権の線に止まつてゐたのです。ルッターは基本的人権の基底にあるものとして罪からの自由を必要となし、それを人間解放の基本的問題として考へたのです。」
いづれにせよ、不幸や絶望の原因を環境や境遇のせいにするやうな「ヒューマニズム」とはまつたく違ふところに立つてゐる人が二人ゐたといふことは事実である。
エラスムス――人文主義の王者 (岩波現代全書) | |
沓掛 良彦 | |
岩波書店 |
痴愚神礼讃 - ラテン語原典訳 (中公文庫) | |
沓掛 良彦 | |
中央公論新社 |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます