言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『ひらく』第二号出来

2019年11月26日 21時39分54秒 | 告知

 先日、京都で佐伯啓思先生と友人と共にお会ひした。三時間ほどの歓談であつたが、じつに豊かな時間であつた。その折に発売日よりも少しだけ早く本を拝見することができた。

 今回も中身は充実してゐて、本の厚みも前号より厚い。建築家、俳優、作家、科学者、若き研究者などなど、執筆者の幅は広い。

 その折の話題にも出たが、最近の月刊誌はあまりにも政策論議や、現状へのコメントが多くて面白くない。かつての月刊誌が果たしてゐた、本質論や文明論の極めて高質な文章による「啓蒙」の側面がすつかり抜け落ちてゐる。そんな時に、飢えた読者が求めてゐるものは何かとの思ひから創刊されたのがこの『ひらく』である。当初は「啓く」も「HIRAKU」も題字としては考へられてゐたとのことだが、この『ひらく』に落ち着いたらしい。知られざる藝術家(今号は彫刻家)の紹介も前号に引き続き載つてゐる。まさに深くて広くて、私たちの目を「啓く」総合雑誌である。

 佐伯先生との話題には、教育問題も取り上げられた。良き習慣が(理屈ではなく、先に意味を伝へるのではなく)、学校教育の中に広がることを期待するとの発言があつた。そして「身体性」といふ言葉でその必要性も語られた。今号のインタビューや鼎談では俳優が数人登場してゐる。「台詞と動き」とはまさに身体性の藝術である。演劇こそ教育の場で必要なことであるが、その実現はなかなか難しい。だが、どこかで始めるべき課題ではある。

 秋の夜長に少しづつ読み始めたところである。

 

ひらく (2)
佐伯 啓思,佐伯 啓思,田中 達也
エイアンドエフ
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