■추석날 단상 또 다른 삶■ 趙成鳳
부산 가야동 산 47번지. 내가 태어난 곳이다.
오갈데없던 전쟁 피난민들이 주로 살던 곳이다.
북청이 고향인 아버지는 전쟁 때 남으로 내려왔다.
아마도 지금의 가야고등학교 자리쯤일 것이다.
신경림시인의 ‘산 1번지’ 에 이 빈민촌의 스산한 풍경이 담겨있다.
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산 1번지
해가 지기 전에 산1번지에는
바람이 찾아온다
집집마다 지붕으로 덮은 루핑을 날리고
문을 바른 신문지를 찢고
불행한 사람들의 얼굴에
돌모래를 끼어 얹는다
해가 지면 산1번지에는
청솔가지 타는 연기가 깔린다
나라의 은혜를 입지 못한 사내들은
서로 속이고 목을 조르고 마침내는
칼을 들고 피를 흘리는데
정거장을 향해 비탈길을 굴러가는
가난이 싫어진 아낙네의 치맛자락에는
연기가 붙어 흐늘댄다
어둠이 내리기 전에 산1번지에는
통곡이 온다. 모두 함께
죽어 버리자고 복어알을 구해 온
어버이는 술이 취해 뉘우치고
애비 없는 애를 밴 처녀는
산벼랑을 찾아가 몸을 던진다
그리하여 산1번지에 밤이 오면
대밋벌을 거쳐 온 강바람은
뒷산에 와 부딪쳐
모든 사람들의 울음이 되어 쏟아진다
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기억엔 없지만 불이 났다.
타다만 낡은 앨범에 두 분의 결혼사진이 반쯤 남아 있었다.
지금은 그 사진 조차 없다.
그리곤 산을 넘어 신암 산자락에 자리를 잡았다.
지금의 선암초등학교 부근. 그 때도 이 학교는 있었다.
학교 뒷산에서 나무총으로 병정놀이를 하던 기억이 남아있다.
패를 가른 병정놀이가 심해져 날라온 돌에 머리가 터진 적도 있었다.
된장 바르고 마무리, 지금도 상처의 흔적이 새겨져있다.
5-7세 때의 풍경.
태풍이 온 날이었다. 집 뒷쪽으로 산사태가 나,
집 절반을 삼켜버렸다.
덕분에 산자락을 떠나 산아래로 내려왔다.
비포장도로를 따라 집들이 쭈욱 나열했다.
집 뒤론 작은 개천이 있고 개천 둑 위론
부산진역으로 가는 열차가 다녔다.
위성지도로 살펴보니 50년 지난 지금도 그대로다.
이 개천을 따라 난 길을 걸어 건널목을 지나 부산진국민학교를 다녔다.
여름날 골목골목 아이스케키를 팔던 이를 쫒아다녔고
밤엔 동네 만화방에 모여 드라마 ‘여로’ 를 봤다.
TV를 볼 수 있는 유일한 곳이었다.
태풍이 온 날이었다.
산에서 폭포처럼 밀려내려온 물들이 집을 덮쳤다.
까만 밤이었다. 순식간에 목까지 들어찬 물을 헤치고
겨우 빠져나왔다. 또다시 빈털털이로.
이곳에서 아버지가 돌아가셨다. 쉰 둘의 나이에.
의료사였다. 동네 병원장은 장례비만 쥐어주고 애도를 표했다.
자식 여섯에, 뱃속에 하나, 일곱을 세상에 남겨둔 채 그는 가버렸다.
홀로된 그녀의 나이는 서른 여섯이었다.
남은 사람들의 삶은 온통 전쟁터였다.
전쟁통에 내려온 사람,
전쟁터에 내려놓고 혼자 돌아갔다.
조계암지 부도터.
실상사에서 약수암 가는 산길따라 100미터 부근이다.
살아 외로웠던 사람 스님 곁, 전나무 아래에 뿌려주었다.
불자였으니 스님들도 싫어하진 않을듯 했다.
백세주 한 잔에 절을 올렸다.
추석날 단상
■ 秋夕断想 もうひとつの生■ 趙成鳳 金靜美訳
釜山伽倻洞(釜山鎮区)サン47番地。わたしが生まれたところ。
行き場所がなかった戦争の避難民たちがおおく住んでいたところだ。
北靑(プクチョン 註1)が故郷であるアボヂは、戦争のとき、南にやってきた。
たぶん今の伽倻高等学校のあたりだ。
申庚林詩人の“サン1番地”(註2)に、こうした貧民村の荒涼たる風景がえがかれている。
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サン1番地
夕暮れ前のサン1番地には
風がおとずれる
家いえの屋根を葺いたビニールをふきとばし
戸に張り付けた新聞紙をやぶき
不幸な人たちの顔に
砂ぼこりがこびりつく
陽が沈むと サン1番地には
青松の枝が焼ける煙がたちこめる
くにの恩恵を受けられないおとこたちは
たがいに欺き 首を絞め はてには
刃物をもちだし 血を流す
停車場に向かって 坂道を転がるように急ぐ
貧しさにうんざりした女たちのチマのすそは
煙がしみてゆらめく
闇にひたされるまえに サン1番地には
慟哭がやってくる みんないっしょに
死んでしまおうと ふぐの卵を手にいれてきた
父母は 酔って悔やみ
父のいない子を孕んだ 未婚の女性は
崖にたどりつき 身を投げる
そうして サン1番地に夜が来たら
大平原をわたってきた強風は
裏山にぶつかり
すべての人の泣声になって あふれかえる
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覚えてはいないが、火事になった。
焼けてしまった古いアルバムに、ふたりの結婚写真が半分ほど残った。
いまはその写真すらない。
そして山を越え、新岩の山のふもとに落ち着いた。
いまの仙岩小学校付近。そのときも、この学校はあった。
学校の裏山で、木の銃で兵隊ごっこをした記憶が残っている。
組に分かれた兵隊ごっこが激しくなり、飛んできた石で頭をけがしたこともあった。
みそを塗っておわり。いまも傷跡が刻まれている。
5歳ー7歳の時の風景。
台風が来た日だった。家のうらで地すべりが起き、
家の半分を飲み込んでしまった。
おかげで山のふもとを離れ、山の下に降りてきた。
舗装されていない道路に沿って、家がずらっと並んでいた。
家の後ろに小さな川があり、川の土手を
釜山鎮駅に行く列車が通った。
衛星地図でみると、50年すぎたいまも、そのままだ。
この川に沿った道を歩き、渡し木を通り、釜山鎭国民学校に通った。
夏の日、路地路地でアイスキャンデーを売り歩いた人を追いかけ、
夜は街の漫画屋に集まり、ドラマ「女路 ヨロ」(註3)を見た。
テレビを見ることができる唯一の場所だった。
台風が来た日だった。
滝のように山からあふれ出た水が家に襲いかかった。
黒い夜だった。あっという間に首までつかった水をかきわけ、
ようやく抜け出した。またもやなにもかもなくした。
ここでアボヂが亡くなった。 52歳で。
医療事故だった。街の病院長は葬儀費用だけを出し、哀悼の意を表した。
子どもが6人、お腹にひとり、7人をこの世に残し、彼は行ってしまった。
ひとりになった女性の年は、36歳だった。
残された人たちの人生は、すべて、戦場だった。
戦場の渦中に降りてきた人、
戦場におきざりにし、ひとりでもどっていった。
曹渓宗の埋葬地、仏徒たちが埋められている場所。
實上寺(註4)から薬水岩に行く山道に沿って100メートルほどのところだ。
生きて孤独だった人、僧のそば、もみの木の下に撒いた。
仏子だったから僧たちも嫌がりはしないだろうと思った。
百歳酒一献と礼をささげた。
秋夕断想
註1:軍事境界線の北側、咸鏡南道の都市。
註2:申庚林(1936年生まれ)が1973年に発表したはじめての詩集『農舞』に収録されている。
註3:「女路」は、1972年4月~12月にKBSで放映されたド
ラマ。
註4:實相寺は、全羅北道南原にある大韓仏教曹渓宗の寺。
■解説 金靜美■
この文は、趙成鳳さんが、2020年10月3日、ブログ“진달래산천 つつじの山河”に書いたものである。
「秋夕」は、日本では“旧盆”にあたり、韓国では、墓参り、実家への帰省の季節である。
趙成鳳さんは、済州島の4・3烽起を主題にした「레드헌트 RED HUNT」(1997年)、日本軍の性奴隷とされた女性たちを主題にした「보이는 어둠 見える闇」(2003年)、済州島の江丁海軍基地建設反対闘争を記録したシリーズのドキュメンタリー「구럼비 : 바람이분다 クロムビ:風が吹く」(2013年)の監督である。
趙成鳳さんは現在、朝鮮解放後のパルチザンを主題にしたドキュメンタリーを制作中である。
その過程で、“진달래산천 つつじの山河”という会を発足させ、日本による壬辰侵略戦争、甲午農民戦争、朝鮮戦争などの跡地を訪ね、そこに生きた人びとの痕跡を訪ね歩いている。
わたしは、白峨山、智異山、白雲山、大芚山など、5回、山歩きに同行した。山歩きに不慣れなわたしは、いっしょに行った人たちの助けがなければ目的地には辿りつけなかっただろう。感謝している。
2020年6月16日、全羅南道の『順天 広場新聞』のインタビューに答えて、趙成鳳さんは、パルチザンを主題にしたドキュメンタリー制作にかんして、「わたしが扱いたいのは理念ではない。大多数のパルチザンが生きた生きざまをこめたい」、「かれらの声や表情をつうじて、ひとりの個人が負うにはあまりにも荷が重い歴史の一瞬間をえがきたいが、その作業がかんたんではない」、「パルチザンにとって、山は、智異山は、大自然は、……生存の空間であり、オモニのふところだ」、「この地の辛い歴史がかかえた大自然の美しさもありのままえがきたい」と話している。このドキュメンタリーは、来年には完成させたいという(2020年6月24日、『順天 広場新聞』のデジタルニュースから)。2022年秋、ドキュメンタリーの完成はまぢかなようだ。
【写真】「曹渓庵がかつてあった場所(趙成鳳さん撮影)」
【写真】智異山で(2016年6月30日 金靜美撮影)
【写真】智異山で(2016年6月30日 金靜美撮影)