これまで、わたしたちが知ることができた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名
金仁元 南而福 金鍾云 申應龍 ○光相 千炳台 李白洛 梁四滿 ○炳南
崔俊石 金大成 春木 安勲 ○永植 李碧收 ○正元 趙龍凡 ○天植
河國春 ○泰 薛秉金 梁煕生 ○鐘連 金萬壽 金學錄 梁泰承 梁泰次
安謹奉 安陵晟 吉○進 鄭誠○ ○○姫 ○泰年 車連伊 安威守
きのう(3月20日)、2月25日に続いて、「追悼の場」の「整備」をしました。
追悼碑建立宣言板の土台工事、植樹、碑文版の位置決定、石への名前書き入れ、名前を書いた石の「配置」、芝生造成などをしました。
2月25日に、石に名を記したのは、金仁元さん、 南而福さん、金鍾云さん、 ○光相さん、梁四滿さん、○炳南さん、崔俊石さん、金大成さん、○永植さん、 ○正元さん、趙龍凡さん、○天植さん、河國春さん、梁煕生さん、○鐘連さん、金萬壽さん、金學錄さん、梁泰承さん、安謹奉さん、安陵晟さん、○泰年さん、車連伊さん、安威守さんの23人でした。
きのうは、申應龍さん、千炳台さん、李白洛さん、春木さん、安勲さん、李碧收さん、○泰さん、薛秉金さん、梁泰次さん、吉○進さん、鄭誠○さん、○○姫さんの12人の名を記しました。
1週間後の3月28日に、「追悼の場」で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会を開きますが、「追悼の場」には、その後も、たくさんの樹木や花を植え、その場を「追悼の場」にふさわしいものとしていきたいと思っています。どのようにするのが、「追悼の場」にふさわしいのかを、みんなで考えつつ。
いまは、210平方メートルほどの「追悼の場」には、背のひくいバラ、おおでまり、花水木など10本ほどの樹木があるだけですが、これからすこしずつ増やしていくことにしています。
2月25日と3月20日に名を記した35人のうち、姓名を記すことができた人は、24人で、姓を記すことができなかった人が8人、名の一部を記すことができなかった人が3人でした。
OO姫さんは、名前の一文字しかはっきりさせることができませんでした。「OO姫」さんの遺骨は、いまも、紀和町和気の本龍寺の無縁塔内に置かれており、骨箱を包んでいる白い布にかかれている文字は、「松本恢姫」と読めます。しかし、1980年10月13日に在日大韓民国居留民団三重県本部がおこなった「在日韓国人無縁佛日韓合同慰霊祭」の「無縁佛移葬者名単」には「松本順姫」と書かれています。
35人のうち、故郷の住所がわかっているのは、金仁元さん、 南而福さん、金鍾云さん、 ○光相さん、金學錄さん、申應龍さん、千炳台さん、李白洛さんの8人だけです。住所がわかっている人の石には、住所も記しました。このうち、金學錄さんの住所は、ことし2月1日に、わかったものです。この日、わたしたちは、江原道平昌郡平昌面鳥屯里に行き、申應龍さんの甥の申永洙さんと出会うことができ、それまで紀州鉱山の文書で「海山應龍」と書かれていた人の本名が申應龍さんだということを知ることができました。そのとき、申永洙さんは、
「解放の前だった。ある日、車に乗った人が叔父が死んだといって、遺骨箱をもってきた。その人がどう
いう人かわからない。
叔父といっしに日本に連れて行かれた金學録の遺骨もこのとき戻ってきた。金學録は鳥屯里の隣村の
薬水里の人だ。
わたしは、金學録の弟と同級生だった」
と話しました。申應龍さんと金學録さんの遺骨は、1945年8月以前に、いっしょに日本から故郷に運ばれてきていました。
金學録さんの名は、石原産業の『従業物故者 忌辰録』と慈雲寺の『紀州鉱業所物故者霊名』には書かれていますが、石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には書かれていません。
一週間後の除幕集会の日(3月28日)は、「追悼の場」を「追悼の場」としていく出発の日です。紀州鉱山で亡くなった人たちの名を顔料で記した石は、すこしづつ、名を刻んだ石に変えていきます。そのときまでには、できるだけ姓名を刻むことができるようにしていきます。
佐藤正人
金仁元 南而福 金鍾云 申應龍 ○光相 千炳台 李白洛 梁四滿 ○炳南
崔俊石 金大成 春木 安勲 ○永植 李碧收 ○正元 趙龍凡 ○天植
河國春 ○泰 薛秉金 梁煕生 ○鐘連 金萬壽 金學錄 梁泰承 梁泰次
安謹奉 安陵晟 吉○進 鄭誠○ ○○姫 ○泰年 車連伊 安威守
きのう(3月20日)、2月25日に続いて、「追悼の場」の「整備」をしました。
追悼碑建立宣言板の土台工事、植樹、碑文版の位置決定、石への名前書き入れ、名前を書いた石の「配置」、芝生造成などをしました。
2月25日に、石に名を記したのは、金仁元さん、 南而福さん、金鍾云さん、 ○光相さん、梁四滿さん、○炳南さん、崔俊石さん、金大成さん、○永植さん、 ○正元さん、趙龍凡さん、○天植さん、河國春さん、梁煕生さん、○鐘連さん、金萬壽さん、金學錄さん、梁泰承さん、安謹奉さん、安陵晟さん、○泰年さん、車連伊さん、安威守さんの23人でした。
きのうは、申應龍さん、千炳台さん、李白洛さん、春木さん、安勲さん、李碧收さん、○泰さん、薛秉金さん、梁泰次さん、吉○進さん、鄭誠○さん、○○姫さんの12人の名を記しました。
1週間後の3月28日に、「追悼の場」で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会を開きますが、「追悼の場」には、その後も、たくさんの樹木や花を植え、その場を「追悼の場」にふさわしいものとしていきたいと思っています。どのようにするのが、「追悼の場」にふさわしいのかを、みんなで考えつつ。
いまは、210平方メートルほどの「追悼の場」には、背のひくいバラ、おおでまり、花水木など10本ほどの樹木があるだけですが、これからすこしずつ増やしていくことにしています。
2月25日と3月20日に名を記した35人のうち、姓名を記すことができた人は、24人で、姓を記すことができなかった人が8人、名の一部を記すことができなかった人が3人でした。
OO姫さんは、名前の一文字しかはっきりさせることができませんでした。「OO姫」さんの遺骨は、いまも、紀和町和気の本龍寺の無縁塔内に置かれており、骨箱を包んでいる白い布にかかれている文字は、「松本恢姫」と読めます。しかし、1980年10月13日に在日大韓民国居留民団三重県本部がおこなった「在日韓国人無縁佛日韓合同慰霊祭」の「無縁佛移葬者名単」には「松本順姫」と書かれています。
35人のうち、故郷の住所がわかっているのは、金仁元さん、 南而福さん、金鍾云さん、 ○光相さん、金學錄さん、申應龍さん、千炳台さん、李白洛さんの8人だけです。住所がわかっている人の石には、住所も記しました。このうち、金學錄さんの住所は、ことし2月1日に、わかったものです。この日、わたしたちは、江原道平昌郡平昌面鳥屯里に行き、申應龍さんの甥の申永洙さんと出会うことができ、それまで紀州鉱山の文書で「海山應龍」と書かれていた人の本名が申應龍さんだということを知ることができました。そのとき、申永洙さんは、
「解放の前だった。ある日、車に乗った人が叔父が死んだといって、遺骨箱をもってきた。その人がどう
いう人かわからない。
叔父といっしに日本に連れて行かれた金學録の遺骨もこのとき戻ってきた。金學録は鳥屯里の隣村の
薬水里の人だ。
わたしは、金學録の弟と同級生だった」
と話しました。申應龍さんと金學録さんの遺骨は、1945年8月以前に、いっしょに日本から故郷に運ばれてきていました。
金學録さんの名は、石原産業の『従業物故者 忌辰録』と慈雲寺の『紀州鉱業所物故者霊名』には書かれていますが、石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には書かれていません。
一週間後の除幕集会の日(3月28日)は、「追悼の場」を「追悼の場」としていく出発の日です。紀州鉱山で亡くなった人たちの名を顔料で記した石は、すこしづつ、名を刻んだ石に変えていきます。そのときまでには、できるだけ姓名を刻むことができるようにしていきます。
佐藤正人