三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の姓名

2010年03月21日 | 紀州鉱山
       これまで、わたしたちが知ることができた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名
       金仁元 南而福 金鍾云 申應龍 ○光相 千炳台 李白洛 梁四滿 ○炳南
       崔俊石 金大成 春木 安勲 ○永植 李碧收 ○正元 趙龍凡 ○天植
       河國春 ○泰 薛秉金 梁煕生 ○鐘連 金萬壽 金學錄 梁泰承 梁泰次
       安謹奉 安陵晟 吉○進 鄭誠○ ○○姫 ○泰年 車連伊 安威守

 きのう(3月20日)、2月25日に続いて、「追悼の場」の「整備」をしました。
 追悼碑建立宣言板の土台工事、植樹、碑文版の位置決定、石への名前書き入れ、名前を書いた石の「配置」、芝生造成などをしました。
 2月25日に、石に名を記したのは、金仁元さん、 南而福さん、金鍾云さん、 ○光相さん、梁四滿さん、○炳南さん、崔俊石さん、金大成さん、○永植さん、 ○正元さん、趙龍凡さん、○天植さん、河國春さん、梁煕生さん、○鐘連さん、金萬壽さん、金學錄さん、梁泰承さん、安謹奉さん、安陵晟さん、○泰年さん、車連伊さん、安威守さんの23人でした。
 きのうは、申應龍さん、千炳台さん、李白洛さん、春木さん、安勲さん、李碧收さん、○泰さん、薛秉金さん、梁泰次さん、吉○進さん、鄭誠○さん、○○姫さんの12人の名を記しました。
 1週間後の3月28日に、「追悼の場」で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会を開きますが、「追悼の場」には、その後も、たくさんの樹木や花を植え、その場を「追悼の場」にふさわしいものとしていきたいと思っています。どのようにするのが、「追悼の場」にふさわしいのかを、みんなで考えつつ。
 いまは、210平方メートルほどの「追悼の場」には、背のひくいバラ、おおでまり、花水木など10本ほどの樹木があるだけですが、これからすこしずつ増やしていくことにしています。
 2月25日と3月20日に名を記した35人のうち、姓名を記すことができた人は、24人で、姓を記すことができなかった人が8人、名の一部を記すことができなかった人が3人でした。
 OO姫さんは、名前の一文字しかはっきりさせることができませんでした。「OO姫」さんの遺骨は、いまも、紀和町和気の本龍寺の無縁塔内に置かれており、骨箱を包んでいる白い布にかかれている文字は、「松本恢姫」と読めます。しかし、1980年10月13日に在日大韓民国居留民団三重県本部がおこなった「在日韓国人無縁佛日韓合同慰霊祭」の「無縁佛移葬者名単」には「松本順姫」と書かれています。
 35人のうち、故郷の住所がわかっているのは、金仁元さん、 南而福さん、金鍾云さん、 ○光相さん、金學錄さん、申應龍さん、千炳台さん、李白洛さんの8人だけです。住所がわかっている人の石には、住所も記しました。このうち、金學錄さんの住所は、ことし2月1日に、わかったものです。この日、わたしたちは、江原道平昌郡平昌面鳥屯里に行き、申應龍さんの甥の申永洙さんと出会うことができ、それまで紀州鉱山の文書で「海山應龍」と書かれていた人の本名が申應龍さんだということを知ることができました。そのとき、申永洙さんは、
    「解放の前だった。ある日、車に乗った人が叔父が死んだといって、遺骨箱をもってきた。その人がどう
   いう人かわからない。
    叔父といっしに日本に連れて行かれた金學録の遺骨もこのとき戻ってきた。金學録は鳥屯里の隣村の
   薬水里の人だ。
    わたしは、金學録の弟と同級生だった」
と話しました。申應龍さんと金學録さんの遺骨は、1945年8月以前に、いっしょに日本から故郷に運ばれてきていました。
 金學録さんの名は、石原産業の『従業物故者 忌辰録』と慈雲寺の『紀州鉱業所物故者霊名』には書かれていますが、石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には書かれていません。
 一週間後の除幕集会の日(3月28日)は、「追悼の場」を「追悼の場」としていく出発の日です。紀州鉱山で亡くなった人たちの名を顔料で記した石は、すこしづつ、名を刻んだ石に変えていきます。そのときまでには、できるだけ姓名を刻むことができるようにしていきます。
                                             佐藤正人
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕までの道程 2

2010年03月20日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会

2008年8月31日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会創立集会(主催:在日本朝鮮人総聯合会
       三重県本部、在日本大韓民国民団三重県地方本部、紀州鉱山の真実を明らかにする会)。
2008年10月16日 熊野市との話合い。熊野市側からは、浜口社会教育課長、松岡社会課長補佐が出席。
              「鉱山資料館の土地に追悼碑を建立することが困難な場合、熊野市の所有地である紀和町
             板屋の旧選鉱山所跡を一望できる場所(すでに熊野市が公園のようにしている土地)に追悼碑
             を建立することを検討してもらいたい」と要請。浜口課長は、「検討する」と回答。
2008年10月25日 聖公会平和学習委員会のメンバーが紀州鉱山「現地調査」。
         この日、紀和町の「英国人墓地」で15回目の追悼集会がおこなわれた。
         事前に、紀州鉱山で朝鮮人の追悼碑を建てようする運動のことを知った聖公会が、これまで
        紀州鉱山で死亡した英国人捕虜の追悼式に参加してきたが、朝鮮人労働者については何もして
        こなかったという反省から、調査に協力してほしいと紀州鉱山の真実を明らかにする会に要請があった。
2008年11月23日 第15回紀州鉱山「現地調査」。
2008年11月24日 「朝鮮人強制連行 紀州鉱山跡を調査」、『毎日新聞』(三重熊野版)。「強制労働の実態調査 熊
       野 鉱山跡や寺など視察」、『中日新聞』(紀州版)。
2009年2月15日 3回目の在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、紀州鉱山の
       真実を明らかにする会の合同会議。紀州鉱山の真実を明らかにする会が、熊野市とも交渉を継続しつつ、
       独自に追悼碑を建てる方針を提起。決定。
2009年3月14日~15日 第16回紀州鉱山「現地調査」。
2009年5月27日 碑建立予定地購入仮契約。7月10日に本契約。
2009年7月5日 竹本昇、在日韓国民主統一連合三重本部主催のセミナーで紀州鉱山への朝鮮人強制連行などにつ
       いて報告。
2009年8月11日 碑建立予定地にムグンファなどを植えるなどして、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場をつくっ
       ていく作業を始める。
2009年8月12日 犠牲者の名を刻む石を碑建立予定地に運ぶ。
2009年9月 紀和町中心部に追悼碑を建立する土地を購入。
2009年9月6日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会、第2回集会。
2009年9月7日 「朝鮮人労働者の追悼碑 来年3月に除幕式 津で建立する会が集会」、『伊勢新聞』。「追悼碑除幕
       来年3月 紀州鉱山」『朝日新聞』(三重版)。
2009年9月11日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会、熊野市市長・熊野市教育長に「史跡 英国
       人墓地」にイギリス兵の遺骨は埋葬されているかなど、9項目の質問。
2009年9月13日 在日韓国民主統一連合三重本部有志、「木本事件」・紀州鉱山「現地調査」。
2009年9月30日 「強制労働の記憶 碑に 紀州鉱山 同胞・市民が来春建立 三重県熊野市」、『民団新聞』。
2009年10月12日 碑建立予定地に植樹。追悼碑原石探索。
2009年10月16日 熊野市から、つぎのような文書回答。
                「現在の英国人墓地は、1981年頃に紀和町の住民の方が個人で移設した史跡であり、1987
               年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて石原産業株式会社から土地の寄贈を受けたものと
               同一のものであります」。
                「第2次世界大戦中に旧紀和町で亡くなられた16名の英国人捕虜の方を埋葬していた場所に
               あったイギリス兵の遺骨は、戦後、横浜市の英連邦墓地に移設されており、現在の英国人墓
               地には埋葬されておりません。また、1981年頃に現在地に移設する際に、元の場所を重機で
               掘り起こしたところ壺が発見され、中に灰が入っていたため、壺を割って現在の英国人墓地に
               灰を埋めたと聞いております」。
2009年11月1日 「朝鮮人犠牲者の追悼碑を 旧紀州鉱山で強制労働 関係者、史実掘り起こす」、『伊勢新聞』。
2009年11月22日 「紀州鉱山の歴史展示 熊野 朝鮮人追悼碑を建立する会」、『読売新聞』(三重版)。
2009年11月23日 第17回紀州鉱山「現地調査」。
            犠牲者の名を刻む石を碑建立予定地に運ぶ。紀和町で追悼碑原石探索。
2009年11月26日 「朝鮮人追悼碑建立へ準備 紀州鉱山で強制労働の末死亡 関係者“英国人との扱いの差は差
        別”」、『紀南新聞』。
2009年12月13日 尾鷲で追悼碑原石探索。
2009年12月22日 紀和町で追悼碑原石探索。
2009年12月26日 「紀州鉱山に朝鮮人の追悼碑設置へ 市民団体、苦節13年」共同通信社配信。
2010年1月25日 追悼碑原石決定。
2010年1月29日~2月5日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、韓国江原道麟蹄郡・平昌郡、慶尚北道安東市へ。
2010年2月1日 熊野市市長および教育長に、「熊野市が、イギリス兵の遺骨が埋葬されていない“現在の英国人墓地”
        を文化財として指定している理由」、あるいは「“現在の英国人墓地”に埋められているという“灰”が、イギリ
        ス兵の遺骨の灰なのか」など、熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」にかかわる重大な疑問に明快に答
        えることを要求する再質問書を、2月15日を回答期限として送る。
2010年2月2日 午後9時過ぎの安東MBCテレビのニュースが、3月28日に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の
        除幕集会が開かれること、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が紀州鉱山に強制連行され死亡した
        千炳台さんの遺族を訪ねたことなどを報道。
2010年2月22日 再質問に速やかに回答することを要求する文書を熊野市長と教育長に送る。
2010年2月25日 追悼碑の石を、「追悼の場」に置き、碑文板の大きさと位置を決定。参加者全員が、紀州鉱山で亡くな
        った朝鮮人の名前を、1人ずつ、石にしるす。「追悼碑建立宣言」を掲示する板の土台設置。
2010年3月1日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の碑文決定。
2010年3月10日 追悼碑建立宣言文決定。
2010年3月20日 「追悼の場」、整備。
2010年3月27日 「追悼の場」、最終整備。
2010年3月28日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑、除幕。
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕までの道程 1

2010年03月19日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の真実を明らかにする会

1993年7月 佐藤正人「侵略・強制連行・公害――紀和町の紀州鉱山と四日市市の石原産業のこと――」、三重県木本で
       虐殺された朝鮮人労働者(李基允、相度)の追悼碑を建立する会『会報』18号。
1994年11月20日 李基允氏と相度氏の追悼碑、除幕。
1995年11月18日 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会編刊『熊野・紀州
       鉱山・新宮「現地調査」資料集』発行。
1995年11月19日 第1回紀州鉱山「現地調査」。
1996年夏 「石原産業紀州鉱山1946年報告書」入手。
1996年10月 江原道麟蹄郡麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面で、紀州鉱山に強制連行された人たちに話を聞かせてもらう。
1996年11月14日 許圭氏から話しを聞く。
1996年11月16日 『紀州鉱山「現地調査』資料Ⅱ』発行。
1996年11月17日 第2回紀州鉱山「現地調査」。
1996年12月15日 「戦時中の紀州鉱山 朝鮮人労働者延べ875人」、『中日新聞』朝刊(三重版)。
1996年12月18日~21日 江原道旌善郡(旌善邑、新東邑、舎北邑、古汗邑、東面、北面、臨渓面、南面、北坪面)に。
1996年11月22日 「旧紀州鉱山で聞き取りや資料集め強制連行の実態旧鉱山に尋ねる」、『朝日新聞』朝刊(三重版)。
1997年1月 佐藤正人「三重県紀和町の紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたずねて “支払われなかった退職
       手当” 明らかになった紀州鉱山の嘘」、『パトローネ』28号。
1997年1月20日 「紀州鉱山“陰の歴史”に光 来月9日、調査会設立」、『中日新聞』(三重版)。
1997年2月5日 「旧石原産業紀州鉱山の朝鮮人連行 実態解明へ」、『朝日新聞』(三重版)。
1997年2月9日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、創立。
1997年3月1日 韓国『東亜日報』に、紀州鉱山の真実を明らかにする会結成の記事。
1997年3月 佐藤正人「麟蹄で」、キム チョンミ「旌善で」、竹内康人「紀州鉱山への朝鮮人強制連行状況」、『会報』25号。
1997年4月 斉藤日出治「発足 紀州鉱山の真実を明らかにする会  紀州鉱山の強制連行の実態を調査!」『パトローネ』
       29号。
1997年5月1日~5月5日 江原道麟蹄郡各地へ。
1997年5月18日 許圭氏から話しを聞く。
1997年6月 佐藤正人「熊野市の木本トンネルと紀和町の紀州鉱山」、『キョレ通信』5号、梅軒研究会。
1997年7月下旬 第8回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会(松江)。佐藤正人報告(「紀州鉱山に強制連
       行された朝鮮人の故郷をたずねて」)。
1997年8月3日~8月16日 江原道平昌郡(平昌邑、美灘面、芳林面、大和面、珍富面、龍坪面、道岩面)、江原道堤川へ。
       8月9日 『江原道民日報』、8月15日『ソウル新聞』で報道。
1997年9月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明し
      てどうするのか――」、『在日朝鮮人史研究』27号。
1997年10月 キム チョンミ「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させられた地域を結ぶ民衆のきずなを!」、
       『パトローネ』31号。
        佐藤正人「麟蹄と平昌で」、斉藤日出治「江原道平昌を訪れて」、崔文子「紀州鉱山に連行された人々の聞き
       取り調査に参加して」、『会報』26号。
1997年11月16日 第3回紀州鉱山「現地調査」。
1997年11月17日 韓国からの参加者とともに、紀和町に抗議・要請。
1997年11月22日 橋本市に住む朴斗萬氏(紀州鉱山で働いていた)を訪ねる。
1997年12月 竹内康人「紀州鉱山への朝鮮人強制連行について」、『熊野誌』第43号。
1998年2月 斉藤日出治「木本トンネルと紀州鉱山 日本の地域史における国家と企業の役割について」、『大阪産業大学
      論集 社会科学編』108号。
1998年4月1日 中浦敏夫紀和町長、久保幸一紀和町教育長に、はじめての文書要請。
     一、紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴史的事実を積極的に急いで調査し、『紀
      和町史』にその事実を明記すること。
     二、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実を示す展示がない鉱山資料館の展示内容を変更し、解説を書きかえる
      こと。
     三、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料を探索し開示すること。
     四、紀州鉱山に強制連行され、強制労働させられて亡くなった朝鮮人の追悼碑を建て、定期的に追悼式をおこな
      い、また追悼碑の維持・管理に責任をもつこと。追悼式に、遺族および紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の参
      加を保証すること。
1998年6月 石原産業が鉄鋼資源を略奪していた海南島の田独鉱山で最初の「現地調査」。
1998年8月12日 韓国KBS『紀州鉱山への朝鮮人強制連行』、韓国で放映。
1998年8月18日~22日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、第3回韓国「現地調査(慶尚北道安東郡・軍威郡)」。韓国安東
      MBC、同行取材。
1998年8月29日~9月3日 安東MBC、『紀伊半島に隠された真実』制作のため、三重県、和歌山県、および大阪市内石原
      産業で取材。
1998年9月20日 「戦時中の紀州鉱山で“逃亡”の男性  韓国の戸籍で“死亡”の記述  市民団体の調査で判明」、『中日
      新聞』朝刊(牟婁版)。
1998年10月 「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安東・軍威と紀和町で」、『パトローネ』35号。
1998年10月15日 韓国安東MBC制作『紀伊半島に隠された真実』、韓国で放映。
1998年11月15日 熊野市極楽寺で、『紀伊半島に隠された真実』上映。
1998年11月16日 第4回紀州鉱山「現地調査」。
            紀和町教育委員会、鉱山資料館での紀州鉱山の真実を明らかにする会の資料展示合意。紀和町の
       助役と教育長に口頭で、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める。
1999年3月25日 鉱山資料館展示用として「紀州鉱山関係資料」(13種)を紀和町教育委員会に送る。
1999年11月21日 第5回紀州鉱山「現地調査」。
2002年11月1日 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南
       島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」』。
2003年7月21日 紀和町役場で再度口頭で、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める。
2003年11月22日 紀和町に、公文書公開条例にもとづき、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める文書を送る。
2005年7月9日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、韓国の日帝強占下強制動員被害真相究明委員会に真相究明を申請。
2006年1月16日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人について、熊野市に、埋火葬許認可書の閲覧を求める文
      書を送る。
2006年2月15日 「紀州鉱山 石原産業60年前の“暗部” 記録にない朝鮮人殉職 市民団体が調査要請」、『中日新聞』
      夕刊。
2007年11月24日 第13回紀州鉱山「現地調査」。
2008年2月29日~3月5日 約10年ぶりに江原郡麟蹄郡・平昌郡、慶尚北道安東を訪問。紀州鉱山に強制連行されていた
      平昌郡珍富面の尹東顕さんと平昌郡龍坪面の金炯燮さんに再会、新たに話を聞く。
2008年3月4日 午後9時過ぎ、安東MBCテレビのニュースで、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、陶山面温恵洞の林
      聖煕さんをたずねているときのこと、紀州鉱山の真実を明らかにする会がはじめての追悼集会を開こうとしている
      ことなどを報道(3月5日朝、韓国全国で放映)。
2008年3月8日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、ドキュメンタリー『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で 麟蹄・
      平昌・安東・軍威』制作。
2008年3月8日 第14回紀州鉱山「現地調査」。
2008年3月9日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するはじめての集会。
        「紀州鉱山強制連行の朝鮮人犠牲者 きょう初の追悼集会」、『読売新聞』(三重版)。
2008年3月12日 安東MBC制作「紀州鉱山の真実 その後10年……」、韓国で放映。
2008年3月14日 「朝鮮人労働者を追悼 紀州鉱山の選鉱所跡などで」、『紀南新聞』。
2008年4月 キムチョンミ「紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する集会」、『パトローネ』73号。
2008年4月26日(農暦3月21日) 海南島月塘村で、「月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式」。
2008年6月5日 熊野市に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立への協力などを要請。
2008年6月19日 石原産業に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立への協力などを要請。
2008年6月27日 在日本朝鮮人総聯合会三重県本部・在日本大韓民国民団三重県地方本部・紀州鉱山の真実を明らか
       にする会の連名で、熊野市長と熊野市教育長に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立する用地の提
       供などを求める「紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼碑建立にかんする要望書」を提出。
2008年7月18日 熊野市長と熊野市教育長、「市として墓碑や追悼碑を建立する用地として提供はしません」と文書回答。
2008年7月31日 石原産業から、以下の文書回答。
      1 建立用地の提供に関して。鉱山資料館の土地は石原産業の所有となってはいるが、実質的には熊野市に無
       償で使用貸借しており、実質的には所有者としての権利を放棄している。
      2 建立基金の援助について。「寄附ではなく、異国の地で亡くなられた方の霊をお祀りするため、若干の供養を
       させていただきたい」。
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植民地の「開発」は侵略の手段である(七)

2010年03月18日 | 個人史・地域史・世界史
 江口朴郎や竹内好らのような戦中派日本ナショナリストがかつて主導し、いま森山茂徳や松本俊郎らのような戦後派日本ナショナリストがアジア近現代史研究の領域で示している無惨な思想状況を変革しうる芽は、専門的な研究者の狭い枠内においてではなく、日本のアジア侵略史に責任をとろうとする民衆運動のなかで成長していくのだと思う。
 札幌では、約四年前から、北海道電力藻岩発電所工事(一九三四~三六年。元請は鹿島組と伊藤組)で犠牲となった朝鮮人・日本人労働者の「顕彰碑」をたてる運動がすすめられている。この運動の過程で、「朴幌郷土を掘る会」の人びとは、民衆史の方法(聞き取り、証言の複数化、裏づけ、体系化、証言の現地検証)を鍛えあげ、科学的に地域の歴史を記録していこうとしている(『今も聞こえる藻岩の叫び――札幌の水と電気の礎となったタコ部屋労働者・朝鮮人労働者に光を――』、札幌郷土を掘る会、一九八八年十一月)。
 新潟県では、一九二二年の新潟県津南町の信越電力株式会社の水力発電所建設工事現場における朝鮮人労働者虐殺事件の調査が昨年八月から地域の住民を中心として本格的に始められている。昨年(一九八八年)十一月五日、津南町で現地集会がもたれ、続いて、新潟市、長岡市、上越市、佐渡畑野町で連続的に集会が開かれたが、集会のよびかけ文の冒頭には、「日本近代の歴史は、「富国強兵」と「アジア侵略」の歴史でありました」と書かれている。「中津川朝鮮人虐殺事件」の真相追求は、日本のアジア侵略を総括する作業の一環であると運動のにない手は考えているのである。
 関西では、昨年秋から、一九二六年一月三日に三重県木本町(現熊野市)で朝鮮人労働者が在郷軍人と消防手を先頭とする地域住民に虐殺された事件の真相を追求し、追悼碑をたてる運動が、朝鮮民衆と日本民衆のほんとうの連帯を目指してすすめられている。
 今年(一九八九年)四月二四日、杉山正和は、裵敬洪氏や「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、裵相度)の追悼碑を建立する会」の仲間とともに熊野市に行った。そのときのことを杉山は次のように報告している。裵敬洪氏は、六三年前に木本町で殺害された裵相度氏の次男である。
   「熊野の町を、裵さんが自動車や車イスで回るときも裵さんは、表情を変えない。……だけど僕の見た風景と裵さんの見る風景は確実に違うのだ。小雨が終始降っていて結構寒い」(『「連帯する会」ニュース』一九八九年五月二六日号、指紋押捺拒否に連帯する三重の会)。
 そうなのだ、同じ風景でも見る人の歴史的な経験によって、違ってみえるのだ。豊満ダム建設現場で殺害された同胞をおもう中国東北部の民衆の見る松花湖の風景は、岡部牧夫の見る松花湖の風景とは確実に違うのだ。たいせつなことは、この違うということを自覚することなのではないか。そして、違うということを自覚しつつ、なお、犠牲となった人びとの心に近づこうと私たちはつとめなければならないのではないか。
 日本人は中国東北部でどれほど残虐非道なことをやったのか。その実体を総体として把握しようとしないで、「侵略と開発」などと言っている日本人研究者は、杉山正和が直感した違いを感じる力を喪失している。なぜか。自らの歴史的なあり方を自覚せず、自らの歴史的な責任をとろうとしていないからである。
 杉山正和は、「学生である僕、朝鮮語の分からない僕、そして日本人である僕が裵相度さんの遺族に会うことがめちゃくちや怖かった」とも書いている。このとき、若い杉山は、日本の朝鮮植民地化に直接の責任がないにもかかわらず、はっきりと日本人としての自己の歴史的あり方、歴史的責任を直覚していたに違いない。

附記
  「再び在日朝鮮人の日本国籍取得について考える二」」(『ウリイルム』十三号、民族名をとりもどす会、一九八九年二月一日)で、山本冬彦は、「私の主張に対して、たとえどういう形であれ、在日朝鮮人が日本国籍を取得することは、日本が朝鮮に対する責任を果たしていない現状からすれば、その責任をうやむやにしてしまうことになるという批判がある」と言い、そのような批判として、私が本誌前号で行なった山本冬彦の言説に対する批判を例示している。
 だが、私は、在日朝鮮人が日本国籍を取ることに関して、批判を行なったことはない。私は、私自身が、在日朝鮮人に対し、そのような批判をなしうる者ではない、ということを自覚している。本誌前号で、私は、“より日本社会に貢献すること”、“日本社会の発展のために励むこと”……を帰化朝鮮人に期待する山本冬彦が日本ナショナリストと共通する姿勢をもっていることを批判したのである。山本冬彦は、自分への批判を在日朝鮮人に対する批判であるかのように曲解しているが、このような曲解は、山本冬彦が、在日朝鮮人と日本人である自分との間の歴史的あり方の差異を厳密に考えようとしていないことを示すものであろう。
 山本冬彦は、いまなお、「定住外国人が日本国籍を取得するということは、その取得によってその者が自らの可能性をよりよく発揮し、より日本社会に貢献することを保障する ことに他ならない」という自分の発言の悪質さを理解していない。在日朝鮮人が「自らの可能性をよりよく発揮」するか否かということは、日本国籍を取るか否かということとは全く次元のことなることである。帰化することによって在日朝鮮人は帰化する以前より、「自らの可能性をよりよく発揮」するのだ、という主張は、日本国家の国籍をもたない在日朝鮮人は自らの可能性を豊かにきりひらいていくことができないという暴言につながるものであり、「より日本社会に貢献……」、「日本社会の発展のために励んで下さい」という発言は、帰化した朝鮮人は日本社会に貢献し日本社会の発展に「励む」のが当然であるという日本ナショナリストの国家と社会を同一視する偽論と同一である。
 批判に対してまともに答えようとしない作風が一般化しているなかで、山本冬彦の反批判しようとする姿勢は貴重なものではあるが、反論するまえに、まず批判をできるだけ正確に理解してほしい。
                                             佐藤正人
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植民地の「開発」は侵略の手段である(六)

2010年03月17日 | 個人史・地域史・世界史
 日本のアジア侵略を肯定する近現代史研究者の妄論が、撤回されずに維持され続けているのはなぜなのか。
 それは、①、誤った立論には徹底的に批判を加え、批判する過程で批判者も被批判者も共に学び合うという相互批判の作風が日本の研究者の間で極めて薄いためであり、②、十分な検討もなしに謬論の一部または全部を追認する研究者がいるためである。
 たとえば、植民地侵略と植民地「開発」とは別個のものであるとする松本俊郎の謬論を、岡部牧夫は極めて安易に追認している(岡部牧夫「中国吉林の国際学会に参加して」、『日本史研究』一九八九年三月号、参照)。
 最近、並木真人は、「植民地期民族運動の近代観――その方法論的考察――」と題する論文で、朝鮮近代史研究の方法を検討し、次のようにのべている。
    「金森(襄作)氏の提起においては、従来絶対的に発展・賞賛の面でのみ把握されてきた
   民族運動史の見方に対して、その否定的な面をも無視せず総体をとらえるべきであるとし
   ている点に学ぶべきところがあるように思う」(『朝鮮史研究会論文集』二六集、一九八九
   年三月)。

 朝鮮民族運動史がこれまで、「絶対的に発展・賞賛〔誰が、どのような資格で賞賛したというのか?〕の面でのみ把握されてきた」という並木の断定は無責任な謬言だが、金森襄作の提起に学ぶところがあると言う並木の姿勢は、彼の「研究」の方法が根本のところで誤っていることを示している。そして、並木真人のような「研究者」の虚言が、日本のアジア侵略史を総括しうる日本人の近現代史研究の深化を阻害しているのだ、と言わざるをえない。
 並木は、「学ぶべきところがある」と言う前に、金森襄作の「歴史研究」の方法を分析すべきであった。日本人金森襄作は、アジアを侵略した日本人の民族的責任を問おうとせず、「朝鮮民族解放闘争の質、民族的責任の問題は厳正に問われなければなるまい」と言っていた。
 また、金森は、「官権〔ママ〕資料でなく朝鮮民衆が残した資料に依拠……」と自覚的にウソを言いつつ官憲資料を使って、朝鮮人社会主義者が民族独立を否定していたという虚構を「実証」していた(金森襄作『一九二〇年代朝鮮の社会主義運動史』、未来社、一九八五年八月)。金森は、いまなお、虚言と虚証を維持しつづけている。並木のように「学ぶところが……」という「研究者」の発言に助けられて彼は、これからもしばらくは、ウソを維持し続けることだろう。それは、金森個人にとっても不幸なことであるが、意味のあるアジア近現代史を学ばうとする者にとっては許しえないことである。並木真人は、あらためて、金森襄作の「研究」の方法と、並木自身の「研究」の方法をきちんと検証すべきだろう。
                                              佐藤正人
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植民地の「開発」は侵略の手段である(五)

2010年03月16日 | 個人史・地域史・世界史
 かつて、金芝河は、詩人とは時代の悪しき傾向を感じとり、社会に危機を知らせるカナリアである、という意味のことを言っていた。日本では、「詩人」とは、時代の悪しき傾向を反映する鏡の役割を果すもののようである。自らを「詩人」と称している茨木のり子は、「お隣りの言葉がおもしろい」といって朝鮮語の学習をはじめた。茨木は、三・一独立運動を「万歳事件」と呼び、外国を「外地」と呼び、天皇の死を「崩御」と呼ぶ歴史感覚(言語感覚)の所有者であるが、朝鮮人が朝鮮語をまもりぬいてきたことと対比させて満族と満語に関して次のように書いている。
    「苛烈な歴史のなかで今日まで、自分の言葉を守り抜いたというのはなんといってもす
   ばらしい。誇っていいことであろう。たとえば満州族はいまや無いに等しいが、それは満
   州語が消えてしまったからである。清をつくった満州族は、漢文化、漢語を積極的に採り
   入れ同化し、満州語もすっかりその中に吸収されて消えた」(『ハングルへの旅』、朝日新
   聞社、一九八六年六月)。
 中国政府の発表によるならば、満族の人口は、一九六四年に二七〇万人余、一九八二年に四三〇万人である。茨木が、「いまや無いに等しい」と断定する前年、一九八五年六月に遼寧省に、柚岩、新賓、鳳城の三つの満族自治県が設立されている(その後さらに河北省に、一九八七年五月、青竜、豊寧の二つの満族自治県が設立された)。
 茨木は、「満州語が消えてしまった」とのべ、その原因は満族が積極的に同化したからであるとまことしやかに断言しているが、満族からその民族語を奪ったのは、日本人だった。
 日本侵略者は、中国東北部を植民地としたあと、満族に日本語(あるいは漢語)を話すことを強制した。それにもかかわらず、一九四〇年代までは、黒竜江岸などでは満語が日常的に使われていたという。一九二六年生れの茨木は、「満州帝国」に関してまったく無知ではありえないであろう。茨木は、満族に関して文章を公表するのであれば、しっかりと事実を調べてから公表すべきであった。
 『ハングルヘの旅』は、今年三月に「朝日文庫」に改版されて出版された。だが、この新版で、茨木は、「お隣の言葉がおもしろい」という文句は消しているが、満族に関するでたらめは、一言一句変えていない。茨木のり子には、自らのコトバに責任をもって発言しようとする姿勢はいまや無いに等しいようである。
 
 茨木のり子は、「詩人」の想像力で、満族を世界から消し去ってしまったが、長い間「研究」をつみ重ねたうえで、茨木をのりこえるでたらめをのべている「研究者」がいる。
 平野健一郎は、日本文部省から研究費を与えられて「アジアを中心とする第三世界の政治統合問題――国民国家を挟む三重階層構造の連繋分析――」をテーマとする共同研究を数年間行なったうえで、実証的・科学的に叙述しているかのようなスタイルをとりつつ、次のように書いている。
    「満州国の建国と支配のために日本側が満州族を利用したように、満州族側もまた満
   州国と日本側を利用した。
     日本側の満州族利用がはるかに強力であったことはいうまでもないが、後年の否定
   にかかわらず、当時満州族側が日本の満州国建国を利用したことも否定できない。両者
   間には満州国に関して共犯関係があったといわざるをえない」(「中国における統一国
   家の形成と少数民族――満州族を例として――」、『アジアにおける国民統合』、東京大学
   出版会、一九八八年四月)。
 日本軍と日本政府は、「満州国」を偽造し、満族、漢族、朝鮮族、エべンキ族、オロチョン族、ナナイ(ホジェン族)、ダフール族、モンゴル族の民衆を抑圧した。これらの民族のなかに、民族として、「満州国」を利用した民族はない。これらの民族の民衆は、日本侵略者に対してたたかい続けた。傅顕明(一九〇〇~三六年)、張蘭生(一九〇九~四〇年)、陳翰章(一九一三~四〇年)ら多くの満族の戦士がそのたたかいのなかでいのちを失った。
 「満州国」偽造の半年後、一九三二年九月一六日、関東軍独立守備隊歩兵第二大隊第二中隊(中隊長、川上精一)は、撫順の平頂山の村を襲撃し、無差別に住民を虐殺した(川上精一を義父とする田辺敏雄は、『追跡 平頂山事件』(図書出版社、一九八八年十二月)で、「匪族」「匪襲」「討伐」という侵略者の用語を何十回となく使っている。田辺にとって、いまでも抗日武装部隊は敵なのである)。このとき殺された八百人とも三千人ともいわれる犠牲者のほとんどは満族であった。
 それにもかかわらず、平野健一郎という日本人学者は、「日本側」(国家)と「満州族側」(民族)との間に「満州国に関して共犯関係」があった、と言うのである。形式論理からいっても、日本という国家と満族という民族が、カテゴリーの違いをのりこえて「共犯関係」を結ぶことは不可能なのだが、「当時満州族側が日本の満州国建国を利用した」というのは、いったい、どんなことを具体的に指しているのだろうか。
 平野は、こう言っている。
    「満州族による満州国利用の最も顕著な例は、いうまでもなく、清朝の廃帝溥儀の満
   州国執政就任と、二年後の帝制移行にともなう皇帝即位である」。
 だが、溥儀は、満族の民族としての総意に従って、「満州国執政」や「満州帝国皇帝」になったのだろうか。そうではない。溥儀は、満族民衆を含む中国東北部のすべての民衆に敵対して、関東軍と日本政府が設定した地位に、個人的についたのである。「満州国」を「利用」したのは、溥儀個人であって、満族総体ではない。「満州国」、「満州帝国」の名目上の閣僚や省長のほとんどは漢族の漢奸であった。「満州族側」は「日本側」による中国東北部侵略の被害者であった。
 平野は、被害者と加害者の間に「共犯関係」があったと言っているのである。一九四〇年、フランスに侵入した「ドイツ側」の意志に従い、フランス民衆に敵対してフランス人ぺタンは、ヴィシー政府をつくった。平野健一郎の「論理」に従うならば、「ドイツ側とフランス人側には、ヴィシー政府に関して共犯関係があった」と、言うことになるだろう。実際には、フランス民衆は、ドイツ占領下のフランスで、ドイツの支配に抗してたたかい続けていた。実際には、諸民族の民衆は共同して、日本占領下の中国東北部で、日本の支配に抗してたたかい続けていた。平野は、一九八八年の時点で、日本占領下の中国東北部で満族は日本侵略者と共犯関係にあった(つまり、他の民族と絶対的な敵対関係にあった)という悪質なデマをふりまき始めたのである。
 また、平野は、一九八〇年代の満族に関して、「最近の満州族は中国の対外的な「ショーウインド・ケース」にもされているように思われる」と言い、「満州族の民族自治は……少数民族問題が香港、台湾をも含む中国国家統一の重要な要素であることを示すケースでもある」という「論理的な推測」なるものをのべている。民族が窓枠(ウインドケース)にされているというたぐいの推測を「論理的」に行なったと自称する平野は、“最近の日本人”に関しても同じように「論理的」な推測を行なうのだろうか。「満州族を主要な素材として考察」したという平野の文章には、満族に対する日本人研究者平野の傲慢な姿勢が示されている。このような姿勢は、中国東北部に侵入していたかつての日本人植民者の姿勢と共通するものである。
 満族に対する暴言、妄論がくりひろげられている平野の「論文」は、平野と山影進、岡部達味、土屋健治、恒川恵市の五人の共同研究を経て書かれたものであるという。平野の妄論はけして許しておくことのできないものである。まず、共同研究者が平野に対してきちんとした批判を行なうべきである。そうでなければ、岡部達味らは、満族に対する平野の妄論に関して、いつまでも「共犯関係」を結び続けていることになる。共同研究者間の相互批判の過程で、平野が自分の研究のあり方を自己批判し、妄論を撤回し、なすべき謝罪をなすべき人びとに対して行なうことを期待したい。
                                             佐藤正人
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植民地の「開発」は侵略の手段である(四)

2010年03月15日 | 個人史・地域史・世界史
 岡部牧夫は、「一四年におよぶ日本ファシズムの東北支配」を「全体的」にとらえようとして、十年前に『満州国』三省堂、一九七八年八月)を書いた研究者である。同書で岡部は、歴史の断片を切りとって安易に歴史を解釈するという方法を拒否しており、多面的に「日本の東北侵略」の実体を追求している。同書の末部で岡部は、「新興中国のたくましい建設と発展には、満州すなわち現在の東北地区が開発の原動力となり基地となったとされている……」というもと満州中央銀行参事永島勝介の発言(国際善隣協会編『満州建国の夢と現実』、一九七五年)を批判し、「満州囲の残した「近代的な経済基盤」は、新中国にとってはしばしばマイナスの基盤でしかなかった」とのべている。
 その十年後、岡部は、中国東北部に入り、その旅行記を公表した(「中国東北の暑い夏」1、2。『みすず』一九八八年十一月号、十二月号)。
    「一向に異国に来た気がしない」、
    「〔長春駅で〕海千山千といった感じの連中が待ってましたとばかりぐるりをとり囲むの
   である。……まず逃れようがない」、
    「日露戦争の戦蹟遼陽」、
    「ゆったりとした軟座席の客は身だしなみがよく、禁煙の規則もちゃんと守られている」、
    「思いがけず与えられた旧ヤマトホテルの由緒あり気な特別室。かつてはさぞ高位高
   官連が愛用したのだろう」、
    「東北の鈍重な純朴さ」、
    「日本時代」
等々というコトバを並べて岡部は旅行記を綴っている。岡部の感覚は植民者のようである。
 この旅行記で、岡部は吉林から長春に向う汽車の中で会った吉林製紙工場のホワイトカラーの一人が、“中国東北では南方より比較的鉄道網が発達しているが、その基礎は日本人がつくった”とのべたというエピソードを紹介し、「これには私も驚いた。今までは歴史家でも、たてまえ上こんなことは言えなかった。……帝国主義侵略下の開発の問題が、こんな形でインテリ大衆にも意識されているとは」と書いている。
 このエピソードは、中国東北部の「インテリ大衆」が日本の「開発」を肯定していることを証明するものではない。岡部は、中国語での意志疎通も十分でないにもかかわらず、乗客の一人の発言を、自分の考えに合せて解釈している。
 また、岡部は、豊満ダムによってつくられた松花湖で遊覧船に乗った話、湖岸の招待所での「盛大な宴会」の話などを書いたあと、豊満ダム建設の際に重労働で死亡した「単純労働者」は、「文献上七千人、実際には一万人をこすと見られている」とのべ、さらに、豊満ダム建設で酷使された人々が、当時、「日常的な労働条件」で労働していたかのように想像し、「軍隊の虐殺とか、何々事件とかを言う前に、私たちは植民地民衆のもっと日常的な労働条件の苛烈さを念頭におくべきである」と主張している。岡本は、豊満ダムで遊覧はしたが、豊満ダム建設の際に殺された労働者が埋められている万人坑や「豊満労工記念館」 には行こうとしなかったらしい。この記念館には、「日常的な労働条件」とはかけ離れた条件の下で、日本の土建会社飛島組、熊谷組、上組などが請負った工事現場で中国人が強制労働させられていた事実をなまなましく示す証拠が展示されているという(高橋正博「豊満ダム万人坑」、『中国の大地は忘れない――侵略・語られなかった戦争――」、社会評論社、一九八六年九月』。
 豊満ダム建設の際の労働条件に関してなにごとかを公言するのであれば、「満州国」の歴史を専門的に研究している者の一人として、岡部は、豊満ダム建設の実際の過程や「満州労工協会」や「大東公司」の実体について、なにほどかの追求を行なうべきであったろう。
専門的な研究者としてなすべきあたりまえの作業も行なわず、岡部は、「軍隊の虐殺とか、何々事件とかを言う前に……」という提言を無責任に行なっている。中国東北部で、日本人侵略者が何をやったのか。その全容は、いまなお明らかにされていない。「軍隊の虐殺」も、「事件」のかずかずも、ほとんどその実体が解明されておらず、まだ表面化していない「事件」も少くない、と考えられる。
 中国東北部の近現代史を解明し、歴史から教訓を学ぼうとする日本人は、「軍隊の虐殺」 「事件」の実体を徹底して追跡しなければならないのではないか。
 岡部は、豊満江の万人坑から遠くないところにある招待所における宴会の料理についてくだくだしく報告している。岡部は、「白魚をムニエルふうに……」などと言う前に、もっと言うべきことがあったのではないか。
 十年の間に、岡部の書くことは変った(岡部の思想性が変ったのかどうかはわからないが)。十年前、岡部は、「日本時代」という用語を使ったり、「高位高官連が愛用」などという表現を行なったりはしなかっただろう。岡部は、これまで、「たてまえ上は」抑えてきた植民者としての自己の感覚の表出にブレーキがかからなくなってしまったようである。このような岡部の変化は、岡部個人の問題ではない。十年の間に、やはり、日本の思想状況は、いちだんと悪化したのだ。「君が代」と「日の丸」が公教育の場で徹底的に強制されつつある現状と岡部の変化とは無関係ではない。
                                             佐藤正人
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2009年イギユン氏・ペサンド氏の追悼式を行ないました

2010年03月14日 | 木本事件
 今回で16回目となるイギユン氏とペサンド氏の追悼集会を2009年11月21日、
熊野市のお二人の追悼碑前で行ないました。

 参加者数は十数名で多くはないですが、はじめて参加していただいた方もおり、
新しい出合いもあったと思います。また参加者一同、この集会で一年間の活動の
総括や反省を行ないつつ、次の一年に向けて思いを新たにしたと思います。

 「木本事件」のフィ-ルドワークとして木本トンネルや木本神社を通り、その後で
極楽寺にて足立住職に最近の状況についてお話をお聞きしたところ、今年も学校
関係にて、追悼碑などを見学されたとのことであった。このように追悼碑が地域に
根付いて、「木本事件」があったことを風化させないために、役立っていると
思えます。
 また、今年も追悼集会に合わせて熊野市民会館の1階ロビーで「木本事件」、
「紀州鉱山」、「海南島」、「大逆事件」に関するパネル展示を行ないました。
 このパネル展は毎年行なっていますが、「木本事件」のことを知らない熊野市民も
まだまだいるようで、当日熊野市民会館に来館した方たちに「木本事件」や紀州
鉱山における朝鮮人労働の歴史的事実を知ってもらうのに大切な場になってい
ます。
 このような活動を通じて熊野市民に直接、「熊野市史」の問題点や熊野市の
対応の不誠実さを伝えることで、少しづつでも現状を打破する力にできればと
思います。
                                  嶋田実
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朴仁祚さんのこと

2010年03月13日 | 個人史・地域史・世界史
 2009年10月9日、朴仁祚さんが亡くなられた。
 ご家族は、
    「犬を連れて散歩に出たまま暗くなっても帰らないので、探しにいったら倒れていた。
    すぐに救急車で病院に運んだが、意識を取り戻さなかった。診断は急性心筋梗塞だ
    った」
と話された。
 わたしは、その半月前の9月23日に、金沢市の野田霊園内にある「尹奉吉義士」の碑を世話しておられる姿に接したばかりだった。
 そのときは、お元気だったので、信じられなかった。

■尹奉吉・李基允・裵相度
 朴仁祚さんとはじめてお会いしたのは、名古屋で1990年8月に開かれた「第一回 朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会」でだった。
 のちに、朴仁祚さんは、尹奉吉氏が暗葬された跡に碑を建てたいのだが、それに苦慮していたとき交流集会に参加し、同じく碑を建てようとしている同胞たちがいることを知って心強かった、と話しておられた。
 わたしたちこそ、このときの朴仁祚さんとの出会いが、李基允氏と裵相度氏の追悼碑建立におおきな支えになった。
 朴仁祚さんのお力で、「尹奉吉義士暗葬の跡」に碑が建てられたのは、1992年12月であった。
 このころ、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、熊野市と協力して碑を建立するという方向を、熊野市が一方的に提示してきた碑文案が悪質であったために、再考していた。
 その後、会が独自に追悼碑を建立することになったとき、朴仁祚さんは、金沢から遠くはなれ、行ったこともない熊野に建てられる碑に、こころを砕いてくれた。
 李基允氏と裵相度氏の名前を刻んだ碑の土台石は、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑と同じ、岐阜県神岡の石である。
 1994年6月9日の夜、朴仁祚さんの家で泊めていただき、よく10日、朴仁祚さんが運転する車で、神岡の朴仁祚さんの知り合い金相基さんを訪ね、朴仁祚さんといっしょに選んだ石を譲っていただいた(キム チョンミ「尹奉吉・李基允・裵相度  神岡の石を熊野に」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』20号〈1994年7月3日〉を見てください)。
 前日の夜と、この神岡行きの車中で、朴仁祚さんから話を聞かせていただいた。「尹奉吉義士暗葬の跡」に碑を建立するまで、朴仁祚さんが体験してきた朝鮮と日本の近代史。
 5歳のときに、先に日本の金沢に来ていたアボヂのもとに、オモニ、姉兄とともに朝鮮から日本に来た朴仁祚さん。
 特攻隊に配属され、絶対に生き残ってやると思ったという朴仁祚さん。
 解放直後、金沢に住む同胞として在日本朝鮮人連盟の「尹奉吉義士暗葬の跡」の捜索に立ち会った朴仁祚さん。このことがのちのちまで、こころをとらえて離さなかったという朴仁祚さん。

 朴仁祚さんは、石を置く現場を見たいとおっしゃって、1994年5月に熊野に来られ、熊野市との交渉にも参加してくださった。
 その後、石を、岐阜から熊野までじぶんで運んでくださった。ステンレスの碑文板は、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑文板を作った金沢の業者を紹介してくださった。わたしたちは設置方法まで教わった。近くだったら、自分が行って設置するのに、と残念がっておられた。
 いろんな技術を持ち、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑をじぶんで建ててしまわれた朴仁祚さんは、わたしたちのことが心配だったのだろう。朴仁祚さんは古風な人であった。年長者として、若い同胞のわたしをさまざまな面で、気遣ってくださった。
 1994年11月20日の李基允氏・裵相度氏の追悼碑除幕集会にも遠い金沢から来てくださった。
 1998年8月、金沢で開かれた「第九回 朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会」でお会いしたあと、しばしば電話で話をしていたが、その後、去年の9月までお会いすることはなかった。

■特攻隊員だった朴仁祚さん
 昨年はじめころから、なぜか、朴仁祚さんにお会いしたい気持ちが強くなり、ようやく8月になって、金沢に行きますと、電話をした。「なぜか」。わたしも説明はできない。
 9月23日、11年の歳月が刻まれたお互いを見合って、わたしは嬉しく、朴仁祚さんも喜び懐かしがってくださった。翌日、9月24日、尹奉吉義士が銃殺された場所に案内していただいたあと、自宅で話をお聞きした。
 朴仁祚さんは、1927年、慶尚北道永川で生まれた。
 金沢で、アボヂは、朝鮮人の親方のもとで犀川の砂利上げをしていて、朴仁祚さんも学校が終わったら手伝いにいったという。
   「勉強が好きで、小学校卒業間近に担任の先生が2、3回家に訪ねてきて、進学させた
   らどうかとアボヂに言って、高等小学校に行くことになった。勉強できるなら、どこでもよ
   かった。
    高等小学校卒業のとき、家に(お金のことで)迷惑をかけない学校を考えて、師範学校
   (今の金沢大学教育学部)に願書を出したら、返されて、国鉄に入った。機関手になりたか
   ったが、朝鮮人はなれないといわれた。それで、陸軍少年飛行学校を受験したら、1943
   年10月、合格通知がきた」。
 その後、東京や熊本での訓練をへて中国東北部白城子の飛行場に配属されていた1944年10月、
   「上官から“特攻編成をする。強制ではない。行きたい者は○、行きたくない者は×をつけ
   ろ”と紙をわたされた。
    ×をつけたのは、80人くらいのなかで、わたしと日本人のふたりだけだった。×をつけ
   たといって、仲間と班長から制裁され、謝罪しにいってまた殴られた。このとき、ぜった
   いに死なない、日本の特攻隊員にされても最後に死んでやる、と思った」
という。その後、ピョンヤン、ソウルをへて、大田の飛行場にいたとき、空からでも故郷を見たいと思い、無断で飛行機に乗って基地を出た。当時は兵器だった地図を持ち出すことができず、勘で飛んだが、そのために何回も朝鮮半島を縦横断し、燃料が切れて故郷近くの川原に不時着をしたという。
 その後大邱に行き、翌日が特攻隊員として「出撃」のとき、整備兵が、
   「“あんた、朝鮮人やろ。わたしもだ。行くな。わたしにまかせとけ”。翌日、飛行機に乗っ
   てエンジンをかけると、車輪がパンク。車輪止めもはずれない。上官が、“なおせ”。整備
   兵、“部品がありません”。上官、“ほかのをはずせ”。整備兵、“合うかどうかわかりませ
   ん”」。
 こうして、朴仁祚さんは、さいしょの「出撃」には行かなかった。このとき、30人が飛んでいったという。このあとも何回か「出撃」を命令されたが、そのたびに、のがれた。
 大邱にいた整備兵の名前を覚えていないことを残念がっていた。何年か前、韓国に行ったとき、テレビ、新聞を通じてこの人を探したが、出会えなかったという。

 朴仁祚さん、まだまだ話をお聞きしたかったのに……。
                                               キム チョンミ
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木本・紀州鉱山・「朝鮮村」・月塘村  死者のネットワークとわたしたちの運動

2010年03月12日 | 紀州鉱山
■木本トンネル前の追悼碑
 2010年3月28日、わたしたちは熊野市紀和町で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の建立除幕式を迎えます。
 この追悼碑は、熊野市の木本トンネル前に立つ朝鮮人李基允氏・相度氏の追悼碑の建立を引き継ぐわたしたちの運動の集約としての意味を持ちます。
 1926年1月3日に木本町現熊野市の住民によって惨殺された李基允氏・相度氏は、日本の植民地支配と朝鮮における土地の収奪によって日本に来ることを余儀なくされた多くの朝鮮人のひとりでした。

 1989年6月、わたしたちは「木本事件」の犠牲者であるおふたりの追悼碑を建立する運動を始め、5年後の1994年11月に碑を建立しました。
 そしてそれ以降、毎年追悼集会を開催すると同時に、熊野市近郊の紀和町でアジア太平洋戦争以前から日本の敗戦にいたるまで紀州鉱山で多くの朝鮮人が労働を強いられていたことを知り、その犠牲者の調査に取りかかりました。
 韓国に行き、石原産業が作成した「朝鮮人就労者名簿」を手がかりにして、紀州鉱山に強制連行された人たちや遺族に出会い、話を聞かせてもらってきました。その結果、今日までの調査で、35名の朝鮮人が紀和町で命を断たれたことを確認しました。

■海南島  田独鉱山・「朝鮮村」・月塘村
 熊野地域における日本のアジア侵略と植民地責任を追究する運動は、日本国外のアジアの地のネットワークをもつくりだしました。紀州鉱山を経営していた石原産業は、紀州鉱山を開発するよりも早くすでに1920年代にアジアの南方に進出し、鉱山事業・海運事業を進めていました。
 1939年に日本軍とともに海南島に侵入した石原産業は、現地の住民およびアジア各地の民衆を駆り出し、海南島で田独鉱山の鉄鉱石の採掘に着手して、多くの労働者の命を奪いました。
 わたしたちはこの調査のために海南島を訪れ、そこで日本軍および日本企業が海南島の軍事占領中の1939年2月―1945年8月に海南島の各地で行った資源の略奪や虐殺行為を知ることになったのです。
 日本海軍と朝鮮総督府と日本政府は1942年から海南島の労働力不足を補うために、朝鮮の刑務所から服役中の朝鮮人を海南島に送り込み、道路、飛行場、トンネル工事に酷使しました。
 飢えと疲労で、あるいは軍の虐待により、未来のあるかけがえのない命が異郷の地で奪われました。
 その遺骨はいまだに海南島の「朝鮮村」に放置されたままです。
 
 さらに海南島東部の万寧県にある月塘村では、日本が敗北するわずか3か月前の1945年5月2日(農暦3月21日)に日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊がこの村を襲撃し、赤ん坊、女性、老人をふくむ190名の村民を殺害しました。
 月塘村の村民委員会は、この殺害について自力で死者の家族を訪ね、犠牲者の数と氏名を確認して、殺された村民の実態を調査し、犠牲者の追悼碑を2008年4月26日(農暦3月21日)に建立しました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が多く参加している海南島近現代史研究会がこの追悼碑の建立に協力しましたが、建立された碑の右側面には、殺害された村民190名の名が刻まれ、碑の左側面には、謝罪と賠償を求める日本政府への要求書が刻まれました。
 中国の地方行政は村民が提出したこの要求書を10年以上にわたって放置してきましたが、海南島近現代史研究会は2008年の追悼集会に参加した際に、この要求書を預かり、村民の委託を受けて、この要求書を日本政府に提出しました。しかし日本政府はこの要求を「事実関係を承知しない」といって拒否しています。

■死者とのきずな
 熊野で地元住民に命を奪われた李基允、相度の両氏、紀州鉱山で家族から引き離され故郷に帰ることなく命を失った35名の朝鮮人、海南島の地中に名前もわからないまま遺骨が放置されている1000名を超えると思われる朝鮮人、そして月塘村で殺害された乳幼児、女性、高齢者の方々。
 私たちは1989年から20年間の活動を通して、日本の植民地支配と侵略戦争によって命を奪われたアジアの民衆の死者に出会い、そのネットワークを築き上げてきました。
 この死者とのきずなを確認し、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立を通して、死者と生者を結ぶネットワークをアジア全域に広げ、植民地支配と侵略戦争の責任の所在を明らかにし、責任をとらせていきたいと思います。
                                           斉藤 日出治
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