三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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植民地の「開発」は侵略の手段である(三) 2

2010年03月09日 | 個人史・地域史・世界史
 しばしば、都市の「開発」は鉄道建設と結びついている。豆満江に面している延辺朝鮮族自治州の都市図們(現人口九万三千人)は、一九三一年当時は、七五〇人はどの村であった。
 日本侵略者が中国東北部を軍事占領したあと、敦化から東に向い朝鮮に達する鉄道の建設が開始され、図們がその鉄道の終点とされた。「満鉄」は、それまで二十数年間にわたりこの鉄道を建設しようとしていたが、地域の民衆を先頭とする反対運動が、それを阻止し続けていた。
 関東軍が「柳条湖事件」をつくりあげ、中国東北部を軍事占領し、「満州国」が偽造されなければ、敦化・図們間の鉄道は「満鉄」によって建設されることはなく、従って、図們市も日本人侵略者によっては建設されなかったであろう。
 一九三三年秋にこの鉄道の官業が開始されたが、翌一九三四年四月当時の図們の人口は一万三千人余で、そのうち日本人は二四〇〇人余であったという(『京図線及背後地経済事情』、鉄路総局、一九三五年)。
 “図們を開発したのは日本人である。人口わずか七五〇人の村は、三年後に一万三千人を越す都市に発展した。日本人は侵略も行なったが開発も行なった……”。「侵略と開発」という松本俊郎の立論に従うならば、このように言うことになるだろう。だが、実際の歴史過程をすこしでもリアルにみるならば、図們の「開発」は、侵略の手段であった(侵略そのものであった、と言ってもよい)。
 敦化・図們間の鉄道建設を請負ったのは、すべて日本の土建会社であった(大成建設、大林組、清水組、吉川組他)。大成建設(当時は大倉組)らは、植民地の労働者を劣悪な条件の下に極端な低賃金で酷使し利益をあげた。日本侵略者は、枕木用の木材を切り出し、原始林を破壊しただけでなく、抗日武装部隊の攻撃から列車を「防衛」するために、沿線の両側の森林を巾五〇〇メートルにわたって切り倒した。

 鉄道も都市もダムも、それがその土地で生きる人びとの生と生活を高めるものでなければ、つくられてはならないものである。中国東北部の鉄道、都市、ダム……は、日本の植民地時代にはどのようにしてつくられたか。まさに、民衆のいのちをけずり、自然を破壊してつくられたのである(いま、日本人は、アジアの熱帯雨林を「開発」し、全地球的規模で自然の体系を破壊している)。
 日本侵略者は、一九三二年三月一日、「満州国」を偽造し、首都を長春とした。彼らは、長春を「新京」と改名し、関東軍特務部と満鉄と「満州国」政府が、新市術地を建設した。 
 新市街地の中心部には、関東軍司令部、偽帝の「宮殿」、「政府」機関、銀行、日本の侵略企業の建物が急造された。「新京」は、中国東北部侵略の中枢拠点として、日本侵略者が「エネルギイ」をつぎこんでつくりあげた都市であり、日本人植民者のための都市であった。
 最近、越沢明は、「東京の現在と未来を問う」という副題をつけた『満州国の首都計画』(日本経済評論社、一九八八年十二月)で、「新京」の政治的・軍事的役割や「新京」建設の具体的過程(建設労働者の労働実態等)には全くふれることなく、植民地都市「新京」の都市計画や侵略諸機関の建築様式に関して一貫して肯定的にのべ、
    「日本は植民地において、日本国内には存在しないような高水準の都市計画を実施し
   たのに対し、アメリカは占領下日本において、都市計画の実施にきわめて冷淡であった」
などと言っている。
 しかし、USA政府・軍は、日本を植民地にしようとはしていなかった。USA軍の日本占領と日本の中国東北部植民地化とは、対応させるべきことではない。日本侵略者は、中国東北部を永遠に植民地にしておこうという「夢」をもって、自分たちに住みよい、水と禄の多い、上下水道をそなえた都市を建設したのである。
 「客観的に事実を掘り起こし、それを冷静評価」しているかのようにみせかけてはいるが、越沢の手法は、松本俊郎の方法と同じである。侵略の拠点であった「新京」の基本性格を無視して、越沢は、ひたすら、「美しい甍」がつくられた「新京」の「開発」を肯定的にのべている。
 後藤新平は、一八九八年から一九〇六年まで、台湾で、総督府民政長官として、総督児玉源太郎と共に、「匪徒刑罰令」、「即決令」、「土匪招降案」等々をくり出し、大虐殺を行なった台湾民衆の敵である。その後藤新平の「功績」のひとつとして、越沢は後藤の台湾における都市計画をあげている。また、越沢は、一九八八年一〇月の日付のある「あとがき」で、後藤新平の東京都市計画を肯定した天皇ヒロヒトのコトバをわざわざ引用して、後藤の計画を肯定している。越沢は、「新京」の都市計画や後藤新平の「功績」を肯定することによって、日本のアジア侵略を肯定しているのである。このような越沢の叙述の本質を分析し、村松伸は、越沢の「客観的歴史研究」の侵略性、暴力性、傲慢さを簡潔に的確に批判している(『朝日ジャーナル』一九八九年三月十日号)。
 松本俊郎や越沢明らの「歴史解釈」や叙述は、彼らだけの「独自」のものではない。それは、日本のアジア侵略を肯定する政治家、官僚、企業家、言論人、小説家などがそれぞれの口調で、異口同音に行なってきたものである。松本は、『侵略と開発』の冒頭で、
    「従来の研究が見落とし、あるいは回避してきた日本の植民地問題の錯綜部分を直裁
   に取り上げて、率直に問題を提起しようとした」
と言っているが、たしかに、これまで、日本人近現代史研究者の多くは、無恥の政治家、イデオローグや松本のようには、日本の「アジア進出」を肯定していない。だが、最近では、アジア侵略日本軍の最高責任者ヒロヒトを四十数年間「象徴」としてきた日本の政治・文化状況のなかで、アジア侵略を肯定する傾向が歴史研究者の間でも強まりつつある。
 その一人として、岡部牧夫がいる。
                                              佐藤正人
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