三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

朴仁祚さんのこと

2010年03月13日 | 個人史・地域史・世界史
 2009年10月9日、朴仁祚さんが亡くなられた。
 ご家族は、
    「犬を連れて散歩に出たまま暗くなっても帰らないので、探しにいったら倒れていた。
    すぐに救急車で病院に運んだが、意識を取り戻さなかった。診断は急性心筋梗塞だ
    った」
と話された。
 わたしは、その半月前の9月23日に、金沢市の野田霊園内にある「尹奉吉義士」の碑を世話しておられる姿に接したばかりだった。
 そのときは、お元気だったので、信じられなかった。

■尹奉吉・李基允・裵相度
 朴仁祚さんとはじめてお会いしたのは、名古屋で1990年8月に開かれた「第一回 朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会」でだった。
 のちに、朴仁祚さんは、尹奉吉氏が暗葬された跡に碑を建てたいのだが、それに苦慮していたとき交流集会に参加し、同じく碑を建てようとしている同胞たちがいることを知って心強かった、と話しておられた。
 わたしたちこそ、このときの朴仁祚さんとの出会いが、李基允氏と裵相度氏の追悼碑建立におおきな支えになった。
 朴仁祚さんのお力で、「尹奉吉義士暗葬の跡」に碑が建てられたのは、1992年12月であった。
 このころ、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、熊野市と協力して碑を建立するという方向を、熊野市が一方的に提示してきた碑文案が悪質であったために、再考していた。
 その後、会が独自に追悼碑を建立することになったとき、朴仁祚さんは、金沢から遠くはなれ、行ったこともない熊野に建てられる碑に、こころを砕いてくれた。
 李基允氏と裵相度氏の名前を刻んだ碑の土台石は、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑と同じ、岐阜県神岡の石である。
 1994年6月9日の夜、朴仁祚さんの家で泊めていただき、よく10日、朴仁祚さんが運転する車で、神岡の朴仁祚さんの知り合い金相基さんを訪ね、朴仁祚さんといっしょに選んだ石を譲っていただいた(キム チョンミ「尹奉吉・李基允・裵相度  神岡の石を熊野に」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』20号〈1994年7月3日〉を見てください)。
 前日の夜と、この神岡行きの車中で、朴仁祚さんから話を聞かせていただいた。「尹奉吉義士暗葬の跡」に碑を建立するまで、朴仁祚さんが体験してきた朝鮮と日本の近代史。
 5歳のときに、先に日本の金沢に来ていたアボヂのもとに、オモニ、姉兄とともに朝鮮から日本に来た朴仁祚さん。
 特攻隊に配属され、絶対に生き残ってやると思ったという朴仁祚さん。
 解放直後、金沢に住む同胞として在日本朝鮮人連盟の「尹奉吉義士暗葬の跡」の捜索に立ち会った朴仁祚さん。このことがのちのちまで、こころをとらえて離さなかったという朴仁祚さん。

 朴仁祚さんは、石を置く現場を見たいとおっしゃって、1994年5月に熊野に来られ、熊野市との交渉にも参加してくださった。
 その後、石を、岐阜から熊野までじぶんで運んでくださった。ステンレスの碑文板は、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑文板を作った金沢の業者を紹介してくださった。わたしたちは設置方法まで教わった。近くだったら、自分が行って設置するのに、と残念がっておられた。
 いろんな技術を持ち、「尹奉吉義士暗葬の跡」の碑をじぶんで建ててしまわれた朴仁祚さんは、わたしたちのことが心配だったのだろう。朴仁祚さんは古風な人であった。年長者として、若い同胞のわたしをさまざまな面で、気遣ってくださった。
 1994年11月20日の李基允氏・裵相度氏の追悼碑除幕集会にも遠い金沢から来てくださった。
 1998年8月、金沢で開かれた「第九回 朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会」でお会いしたあと、しばしば電話で話をしていたが、その後、去年の9月までお会いすることはなかった。

■特攻隊員だった朴仁祚さん
 昨年はじめころから、なぜか、朴仁祚さんにお会いしたい気持ちが強くなり、ようやく8月になって、金沢に行きますと、電話をした。「なぜか」。わたしも説明はできない。
 9月23日、11年の歳月が刻まれたお互いを見合って、わたしは嬉しく、朴仁祚さんも喜び懐かしがってくださった。翌日、9月24日、尹奉吉義士が銃殺された場所に案内していただいたあと、自宅で話をお聞きした。
 朴仁祚さんは、1927年、慶尚北道永川で生まれた。
 金沢で、アボヂは、朝鮮人の親方のもとで犀川の砂利上げをしていて、朴仁祚さんも学校が終わったら手伝いにいったという。
   「勉強が好きで、小学校卒業間近に担任の先生が2、3回家に訪ねてきて、進学させた
   らどうかとアボヂに言って、高等小学校に行くことになった。勉強できるなら、どこでもよ
   かった。
    高等小学校卒業のとき、家に(お金のことで)迷惑をかけない学校を考えて、師範学校
   (今の金沢大学教育学部)に願書を出したら、返されて、国鉄に入った。機関手になりたか
   ったが、朝鮮人はなれないといわれた。それで、陸軍少年飛行学校を受験したら、1943
   年10月、合格通知がきた」。
 その後、東京や熊本での訓練をへて中国東北部白城子の飛行場に配属されていた1944年10月、
   「上官から“特攻編成をする。強制ではない。行きたい者は○、行きたくない者は×をつけ
   ろ”と紙をわたされた。
    ×をつけたのは、80人くらいのなかで、わたしと日本人のふたりだけだった。×をつけ
   たといって、仲間と班長から制裁され、謝罪しにいってまた殴られた。このとき、ぜった
   いに死なない、日本の特攻隊員にされても最後に死んでやる、と思った」
という。その後、ピョンヤン、ソウルをへて、大田の飛行場にいたとき、空からでも故郷を見たいと思い、無断で飛行機に乗って基地を出た。当時は兵器だった地図を持ち出すことができず、勘で飛んだが、そのために何回も朝鮮半島を縦横断し、燃料が切れて故郷近くの川原に不時着をしたという。
 その後大邱に行き、翌日が特攻隊員として「出撃」のとき、整備兵が、
   「“あんた、朝鮮人やろ。わたしもだ。行くな。わたしにまかせとけ”。翌日、飛行機に乗っ
   てエンジンをかけると、車輪がパンク。車輪止めもはずれない。上官が、“なおせ”。整備
   兵、“部品がありません”。上官、“ほかのをはずせ”。整備兵、“合うかどうかわかりませ
   ん”」。
 こうして、朴仁祚さんは、さいしょの「出撃」には行かなかった。このとき、30人が飛んでいったという。このあとも何回か「出撃」を命令されたが、そのたびに、のがれた。
 大邱にいた整備兵の名前を覚えていないことを残念がっていた。何年か前、韓国に行ったとき、テレビ、新聞を通じてこの人を探したが、出会えなかったという。

 朴仁祚さん、まだまだ話をお聞きしたかったのに……。
                                               キム チョンミ
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