三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

韓国で  2010年1月末~2月初め

2010年03月11日 | 紀州鉱山
 3月28日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会のことを、紀州鉱山に強制連行された人たち、遺族、そして、これまでの韓国での「調査」に協力していただいた人たち、および日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会などに直接伝えるため、ことし1月末から2月初めにかけて、韓国江原道の麟蹄郡と平昌郡、慶尚北道安東市、ソウルに行きました。

■江原道麟蹄郡で
 1月31日に、江原道麟蹄郡に行って安浩烈さんに会いました。
 安浩烈さんは麟蹄郡自治行政課長ですが、5年前まで麟蹄郡麒麟面の面事務所にいました。
 1996年10月にはじめて麒麟面に行ったとき、安浩烈さんは、親身になって麒麟面から紀州鉱山に強制連行された人を、何人も探し、麒麟面事務所のすぐ近くに住んでいた丁榮さんの家にも連れていってくれました。
 安浩烈さんに、3月28日に、ようやく除幕集会を開くことになった、と伝えると、できるだけ参加するようにしたい、とのことでした(参加するとの電話が3月9日にありました)。
 2月1日に、丁榮さんの息子さんの丁炳碩さんに話を聞かせてもらいました。

■「金本仁元」さん、南而福さん、「金山鍾云」さん、「海山應龍」さん、「玉川光相」さん
 紀州鉱山の朝鮮人について石原産業が三重県内務部に提出した報告書(「紀州鉱山1946年報告書」)には、738人の朝鮮人の名とその本籍地・「入所経路」・「入所年月日」・「退所年月日」・「退所理由」などが書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされています。
 この報告書は、うたがわしい記述が多いものです。冒頭部に、「死亡者数」10人と書かれていますが、名簿部分に記載されている人は、「金本仁元」さん(1923年6月12日生。本籍:京畿道長湍郡郡内面芳木里)、南而福さん(1,911年4月12日生。本籍:京畿道長湍郡津西面金陵里)、「金山鍾云」さん(1921年4月6日生。本籍:江原道麟蹄郡麒麟面北里)、「海山應龍」さん(1920年2月13日生。江原道平昌郡平昌面鳥屯里)、「玉川光相」さん(1923年4月15日生。江原道旌善郡旌善面住水里)ら、5人だけです。ここでは、4人の姓が日本式に創氏されており、本名がわかるのは南而福さんだけです。
 「金本仁元」さんと南而福さんは、同じ日(1942年2月28日)に、「官斡旋」という形式で強制連行されていました。「運転工」として働かされていた「金本仁元」さんは、1945年6月1日に「公傷死」し、「鑿岩夫」として働かされていた南而福さんは、1945年5月3日に「病死」したと書かれています。
 1944年11月9日に「徴用」という形式で強制連行され「運搬夫」として働かされていた「金山鍾云」さんは、「病死」したと書かれていますが、死亡年月日は記載されていません。
 1945年1月21日に「徴用」という形式で強制連行され「運搬夫」として働かされていた「海山應竜」さんは、1945年2月20日に「病死」したと書かれています。強制連行されてから、わずか1か月後でした。
 1943年12月1日にから「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行され、「選鉱夫」として働かされていた「玉川光相」さんは、1944年3月7日に「業務死亡」したと書かれています。
 このうち、「金本仁元」さんと南而福さんの故郷は、休戦ラインの北側なので、簡単には行くことができません。
 1月31日に、「金山鍾云」さんの本籍地を管轄している麒麟面事務所に行って調べてもらいましたが、遺族の消息はわかりませんでした。

■平昌郡珍富面で
 わたしは、2年前に11年ぶりに尹東顕さんに会いましたが、こんかいも訪ねました。
 尹東顕さんは、紀州鉱山から戻るとき、知人の遺骨をソウルに運んだそうです。

■平昌郡龍坪面で
 金炯燮さんにも、2年前に11年ぶりで再会しましたが、こんかいも訪ねました。金炯燮さんは、イタヤとユノクチの宿所にいれられていました。金炯燮さんは、解放後戻ってくるとき、ふたりの遺骨をもってきたといいます。 「いっしょに行き、いっしょに苦労したのに、いっしょに生きて戻ってくることができなかったのが辛い」、と話されました。

■平昌邑鳥屯里で
 2月1日に、「海山應竜」さんの本籍地を管轄している平昌郡庁と平昌邑事務所に行きましたが、遺族の消息がわからなかったので、「海山應竜」さんの故郷の村である鳥屯里を訪ねました。
 そこで、偶然、「海山應竜」さんの甥の申永洙さんに出会うことができました。「海山應竜」さんの本名が申應竜さんだということが、わかりました(紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』8号の12頁をみてください)。
 こんかいは、江原道旌善郡旌善面住水里から強制連行された「玉川光相」さんの遺族を探しに旌善に行くことはできませんでした。

■慶尚北道安東市で
 2月2日に、林在鳳さん(紀州鉱山に強制連行された林聖煕さんの息子さん)に会いました。
 午後、鄭粉元さん(紀州鉱山で亡くなった千炳台さんの甥千相基さんの妻)と千相基さんの子の千ソギュンさんに会うことができました。千ソギュンさんに千榮基さん(千炳台さんの甥。千相基さんの弟)を紹介してもらい、千炳台さんが紀州鉱山に強制連行されるときに住んでいた家があった場所と千炳台さんの墓の前で、千榮基さんの話を聞かせてもらいました。
 この日午後9時過ぎ、MBCのテレビの慶尚北道ニュースで、わたしたちが、千炳台さんの遺族をたずねているときのこと、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が3月28日に追悼碑を建立しようとしていることなどが報道されました
 2月3日朝、千鳳基さん(千炳台さんの息子さん)に、自宅で話を聞かせてもらいました(紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』8号の9頁~11頁をみてください)。

■ソウルで
 2月4日に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会事務所で、朴聖圭事務局長、呉日煥専門委員に会い、3月28日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会をおこなうことを伝えました(紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年7月9日に、日帝強占下強制動員被害真相究明委員会に紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする真相究明を申請しています)。
 その後、韓国挺身隊研究所事務所、太平洋戦争被害者補償推進協議会、民族問題研究所の事務所に行き、李聖順さん、李煕子さん、金敏さん、朴漢龍さんらと話し合いました。                   
                                             佐藤正人     
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