かつて、金芝河は、詩人とは時代の悪しき傾向を感じとり、社会に危機を知らせるカナリアである、という意味のことを言っていた。日本では、「詩人」とは、時代の悪しき傾向を反映する鏡の役割を果すもののようである。自らを「詩人」と称している茨木のり子は、「お隣りの言葉がおもしろい」といって朝鮮語の学習をはじめた。茨木は、三・一独立運動を「万歳事件」と呼び、外国を「外地」と呼び、天皇の死を「崩御」と呼ぶ歴史感覚(言語感覚)の所有者であるが、朝鮮人が朝鮮語をまもりぬいてきたことと対比させて満族と満語に関して次のように書いている。
「苛烈な歴史のなかで今日まで、自分の言葉を守り抜いたというのはなんといってもす
ばらしい。誇っていいことであろう。たとえば満州族はいまや無いに等しいが、それは満
州語が消えてしまったからである。清をつくった満州族は、漢文化、漢語を積極的に採り
入れ同化し、満州語もすっかりその中に吸収されて消えた」(『ハングルへの旅』、朝日新
聞社、一九八六年六月)。
中国政府の発表によるならば、満族の人口は、一九六四年に二七〇万人余、一九八二年に四三〇万人である。茨木が、「いまや無いに等しい」と断定する前年、一九八五年六月に遼寧省に、柚岩、新賓、鳳城の三つの満族自治県が設立されている(その後さらに河北省に、一九八七年五月、青竜、豊寧の二つの満族自治県が設立された)。
茨木は、「満州語が消えてしまった」とのべ、その原因は満族が積極的に同化したからであるとまことしやかに断言しているが、満族からその民族語を奪ったのは、日本人だった。
日本侵略者は、中国東北部を植民地としたあと、満族に日本語(あるいは漢語)を話すことを強制した。それにもかかわらず、一九四〇年代までは、黒竜江岸などでは満語が日常的に使われていたという。一九二六年生れの茨木は、「満州帝国」に関してまったく無知ではありえないであろう。茨木は、満族に関して文章を公表するのであれば、しっかりと事実を調べてから公表すべきであった。
『ハングルヘの旅』は、今年三月に「朝日文庫」に改版されて出版された。だが、この新版で、茨木は、「お隣の言葉がおもしろい」という文句は消しているが、満族に関するでたらめは、一言一句変えていない。茨木のり子には、自らのコトバに責任をもって発言しようとする姿勢はいまや無いに等しいようである。
茨木のり子は、「詩人」の想像力で、満族を世界から消し去ってしまったが、長い間「研究」をつみ重ねたうえで、茨木をのりこえるでたらめをのべている「研究者」がいる。
平野健一郎は、日本文部省から研究費を与えられて「アジアを中心とする第三世界の政治統合問題――国民国家を挟む三重階層構造の連繋分析――」をテーマとする共同研究を数年間行なったうえで、実証的・科学的に叙述しているかのようなスタイルをとりつつ、次のように書いている。
「満州国の建国と支配のために日本側が満州族を利用したように、満州族側もまた満
州国と日本側を利用した。
日本側の満州族利用がはるかに強力であったことはいうまでもないが、後年の否定
にかかわらず、当時満州族側が日本の満州国建国を利用したことも否定できない。両者
間には満州国に関して共犯関係があったといわざるをえない」(「中国における統一国
家の形成と少数民族――満州族を例として――」、『アジアにおける国民統合』、東京大学
出版会、一九八八年四月)。
日本軍と日本政府は、「満州国」を偽造し、満族、漢族、朝鮮族、エべンキ族、オロチョン族、ナナイ(ホジェン族)、ダフール族、モンゴル族の民衆を抑圧した。これらの民族のなかに、民族として、「満州国」を利用した民族はない。これらの民族の民衆は、日本侵略者に対してたたかい続けた。傅顕明(一九〇〇~三六年)、張蘭生(一九〇九~四〇年)、陳翰章(一九一三~四〇年)ら多くの満族の戦士がそのたたかいのなかでいのちを失った。
「満州国」偽造の半年後、一九三二年九月一六日、関東軍独立守備隊歩兵第二大隊第二中隊(中隊長、川上精一)は、撫順の平頂山の村を襲撃し、無差別に住民を虐殺した(川上精一を義父とする田辺敏雄は、『追跡 平頂山事件』(図書出版社、一九八八年十二月)で、「匪族」「匪襲」「討伐」という侵略者の用語を何十回となく使っている。田辺にとって、いまでも抗日武装部隊は敵なのである)。このとき殺された八百人とも三千人ともいわれる犠牲者のほとんどは満族であった。
それにもかかわらず、平野健一郎という日本人学者は、「日本側」(国家)と「満州族側」(民族)との間に「満州国に関して共犯関係」があった、と言うのである。形式論理からいっても、日本という国家と満族という民族が、カテゴリーの違いをのりこえて「共犯関係」を結ぶことは不可能なのだが、「当時満州族側が日本の満州国建国を利用した」というのは、いったい、どんなことを具体的に指しているのだろうか。
平野は、こう言っている。
「満州族による満州国利用の最も顕著な例は、いうまでもなく、清朝の廃帝溥儀の満
州国執政就任と、二年後の帝制移行にともなう皇帝即位である」。
だが、溥儀は、満族の民族としての総意に従って、「満州国執政」や「満州帝国皇帝」になったのだろうか。そうではない。溥儀は、満族民衆を含む中国東北部のすべての民衆に敵対して、関東軍と日本政府が設定した地位に、個人的についたのである。「満州国」を「利用」したのは、溥儀個人であって、満族総体ではない。「満州国」、「満州帝国」の名目上の閣僚や省長のほとんどは漢族の漢奸であった。「満州族側」は「日本側」による中国東北部侵略の被害者であった。
平野は、被害者と加害者の間に「共犯関係」があったと言っているのである。一九四〇年、フランスに侵入した「ドイツ側」の意志に従い、フランス民衆に敵対してフランス人ぺタンは、ヴィシー政府をつくった。平野健一郎の「論理」に従うならば、「ドイツ側とフランス人側には、ヴィシー政府に関して共犯関係があった」と、言うことになるだろう。実際には、フランス民衆は、ドイツ占領下のフランスで、ドイツの支配に抗してたたかい続けていた。実際には、諸民族の民衆は共同して、日本占領下の中国東北部で、日本の支配に抗してたたかい続けていた。平野は、一九八八年の時点で、日本占領下の中国東北部で満族は日本侵略者と共犯関係にあった(つまり、他の民族と絶対的な敵対関係にあった)という悪質なデマをふりまき始めたのである。
また、平野は、一九八〇年代の満族に関して、「最近の満州族は中国の対外的な「ショーウインド・ケース」にもされているように思われる」と言い、「満州族の民族自治は……少数民族問題が香港、台湾をも含む中国国家統一の重要な要素であることを示すケースでもある」という「論理的な推測」なるものをのべている。民族が窓枠(ウインドケース)にされているというたぐいの推測を「論理的」に行なったと自称する平野は、“最近の日本人”に関しても同じように「論理的」な推測を行なうのだろうか。「満州族を主要な素材として考察」したという平野の文章には、満族に対する日本人研究者平野の傲慢な姿勢が示されている。このような姿勢は、中国東北部に侵入していたかつての日本人植民者の姿勢と共通するものである。
満族に対する暴言、妄論がくりひろげられている平野の「論文」は、平野と山影進、岡部達味、土屋健治、恒川恵市の五人の共同研究を経て書かれたものであるという。平野の妄論はけして許しておくことのできないものである。まず、共同研究者が平野に対してきちんとした批判を行なうべきである。そうでなければ、岡部達味らは、満族に対する平野の妄論に関して、いつまでも「共犯関係」を結び続けていることになる。共同研究者間の相互批判の過程で、平野が自分の研究のあり方を自己批判し、妄論を撤回し、なすべき謝罪をなすべき人びとに対して行なうことを期待したい。
佐藤正人
「苛烈な歴史のなかで今日まで、自分の言葉を守り抜いたというのはなんといってもす
ばらしい。誇っていいことであろう。たとえば満州族はいまや無いに等しいが、それは満
州語が消えてしまったからである。清をつくった満州族は、漢文化、漢語を積極的に採り
入れ同化し、満州語もすっかりその中に吸収されて消えた」(『ハングルへの旅』、朝日新
聞社、一九八六年六月)。
中国政府の発表によるならば、満族の人口は、一九六四年に二七〇万人余、一九八二年に四三〇万人である。茨木が、「いまや無いに等しい」と断定する前年、一九八五年六月に遼寧省に、柚岩、新賓、鳳城の三つの満族自治県が設立されている(その後さらに河北省に、一九八七年五月、青竜、豊寧の二つの満族自治県が設立された)。
茨木は、「満州語が消えてしまった」とのべ、その原因は満族が積極的に同化したからであるとまことしやかに断言しているが、満族からその民族語を奪ったのは、日本人だった。
日本侵略者は、中国東北部を植民地としたあと、満族に日本語(あるいは漢語)を話すことを強制した。それにもかかわらず、一九四〇年代までは、黒竜江岸などでは満語が日常的に使われていたという。一九二六年生れの茨木は、「満州帝国」に関してまったく無知ではありえないであろう。茨木は、満族に関して文章を公表するのであれば、しっかりと事実を調べてから公表すべきであった。
『ハングルヘの旅』は、今年三月に「朝日文庫」に改版されて出版された。だが、この新版で、茨木は、「お隣の言葉がおもしろい」という文句は消しているが、満族に関するでたらめは、一言一句変えていない。茨木のり子には、自らのコトバに責任をもって発言しようとする姿勢はいまや無いに等しいようである。
茨木のり子は、「詩人」の想像力で、満族を世界から消し去ってしまったが、長い間「研究」をつみ重ねたうえで、茨木をのりこえるでたらめをのべている「研究者」がいる。
平野健一郎は、日本文部省から研究費を与えられて「アジアを中心とする第三世界の政治統合問題――国民国家を挟む三重階層構造の連繋分析――」をテーマとする共同研究を数年間行なったうえで、実証的・科学的に叙述しているかのようなスタイルをとりつつ、次のように書いている。
「満州国の建国と支配のために日本側が満州族を利用したように、満州族側もまた満
州国と日本側を利用した。
日本側の満州族利用がはるかに強力であったことはいうまでもないが、後年の否定
にかかわらず、当時満州族側が日本の満州国建国を利用したことも否定できない。両者
間には満州国に関して共犯関係があったといわざるをえない」(「中国における統一国
家の形成と少数民族――満州族を例として――」、『アジアにおける国民統合』、東京大学
出版会、一九八八年四月)。
日本軍と日本政府は、「満州国」を偽造し、満族、漢族、朝鮮族、エべンキ族、オロチョン族、ナナイ(ホジェン族)、ダフール族、モンゴル族の民衆を抑圧した。これらの民族のなかに、民族として、「満州国」を利用した民族はない。これらの民族の民衆は、日本侵略者に対してたたかい続けた。傅顕明(一九〇〇~三六年)、張蘭生(一九〇九~四〇年)、陳翰章(一九一三~四〇年)ら多くの満族の戦士がそのたたかいのなかでいのちを失った。
「満州国」偽造の半年後、一九三二年九月一六日、関東軍独立守備隊歩兵第二大隊第二中隊(中隊長、川上精一)は、撫順の平頂山の村を襲撃し、無差別に住民を虐殺した(川上精一を義父とする田辺敏雄は、『追跡 平頂山事件』(図書出版社、一九八八年十二月)で、「匪族」「匪襲」「討伐」という侵略者の用語を何十回となく使っている。田辺にとって、いまでも抗日武装部隊は敵なのである)。このとき殺された八百人とも三千人ともいわれる犠牲者のほとんどは満族であった。
それにもかかわらず、平野健一郎という日本人学者は、「日本側」(国家)と「満州族側」(民族)との間に「満州国に関して共犯関係」があった、と言うのである。形式論理からいっても、日本という国家と満族という民族が、カテゴリーの違いをのりこえて「共犯関係」を結ぶことは不可能なのだが、「当時満州族側が日本の満州国建国を利用した」というのは、いったい、どんなことを具体的に指しているのだろうか。
平野は、こう言っている。
「満州族による満州国利用の最も顕著な例は、いうまでもなく、清朝の廃帝溥儀の満
州国執政就任と、二年後の帝制移行にともなう皇帝即位である」。
だが、溥儀は、満族の民族としての総意に従って、「満州国執政」や「満州帝国皇帝」になったのだろうか。そうではない。溥儀は、満族民衆を含む中国東北部のすべての民衆に敵対して、関東軍と日本政府が設定した地位に、個人的についたのである。「満州国」を「利用」したのは、溥儀個人であって、満族総体ではない。「満州国」、「満州帝国」の名目上の閣僚や省長のほとんどは漢族の漢奸であった。「満州族側」は「日本側」による中国東北部侵略の被害者であった。
平野は、被害者と加害者の間に「共犯関係」があったと言っているのである。一九四〇年、フランスに侵入した「ドイツ側」の意志に従い、フランス民衆に敵対してフランス人ぺタンは、ヴィシー政府をつくった。平野健一郎の「論理」に従うならば、「ドイツ側とフランス人側には、ヴィシー政府に関して共犯関係があった」と、言うことになるだろう。実際には、フランス民衆は、ドイツ占領下のフランスで、ドイツの支配に抗してたたかい続けていた。実際には、諸民族の民衆は共同して、日本占領下の中国東北部で、日本の支配に抗してたたかい続けていた。平野は、一九八八年の時点で、日本占領下の中国東北部で満族は日本侵略者と共犯関係にあった(つまり、他の民族と絶対的な敵対関係にあった)という悪質なデマをふりまき始めたのである。
また、平野は、一九八〇年代の満族に関して、「最近の満州族は中国の対外的な「ショーウインド・ケース」にもされているように思われる」と言い、「満州族の民族自治は……少数民族問題が香港、台湾をも含む中国国家統一の重要な要素であることを示すケースでもある」という「論理的な推測」なるものをのべている。民族が窓枠(ウインドケース)にされているというたぐいの推測を「論理的」に行なったと自称する平野は、“最近の日本人”に関しても同じように「論理的」な推測を行なうのだろうか。「満州族を主要な素材として考察」したという平野の文章には、満族に対する日本人研究者平野の傲慢な姿勢が示されている。このような姿勢は、中国東北部に侵入していたかつての日本人植民者の姿勢と共通するものである。
満族に対する暴言、妄論がくりひろげられている平野の「論文」は、平野と山影進、岡部達味、土屋健治、恒川恵市の五人の共同研究を経て書かれたものであるという。平野の妄論はけして許しておくことのできないものである。まず、共同研究者が平野に対してきちんとした批判を行なうべきである。そうでなければ、岡部達味らは、満族に対する平野の妄論に関して、いつまでも「共犯関係」を結び続けていることになる。共同研究者間の相互批判の過程で、平野が自分の研究のあり方を自己批判し、妄論を撤回し、なすべき謝罪をなすべき人びとに対して行なうことを期待したい。
佐藤正人