三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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申永洙さんの証言

2010年03月25日 | 紀州鉱山
 ことし2月1日に、韓国江原道平昌郡平昌面烏屯里の自宅で聞かせていただいた申永洙さんの証言です。このブログの2月8日の書きこみ(申應龍さん)を見てください。
 申永洙さん(1936年5月5日生)は、申應龍(1920年2月13日生)さんのおいです。
 石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には、申應龍さんの「入所日」は1945年1月21日で、「死亡日」はわずかその1か月後の1945年2月20日と書かれています。

 初等学校2年のとき、おじが行った。ここからいっしょに行った智仁喚さんらが戻ってきたが、おじさんひとりが戻ってこなかった。戻ってきた智仁喚さんらから、働かされていたのは、日本の三重県だと聞いた。
 遺骨箱は見た。そのとき、村の里長が先頭に立って、村で葬式をした。墓をこしらえて、埋めた。その墓は邑の共同墓地のなかにある。いまは、その共同墓地は使っていない。
 おじは、結婚していたが、子どもはいなかった。妻は、解放前後のころ、天然痘が流行して、かかって死んだ。
 智仁喚さんから聞いたが、おじさんは病気で亡くなったらしい。
 金學録さんは、隣りの薬水里の人だ。同じ日に、遺骨箱が来た。
 学校にいるとき、先生が、遺骨が来るから迎えに出ろといった。どういう遺骨か、説明はなかった。道の両側に生徒たちが並んで、しばらくして、車が通り、みんなが手をたたいて迎えた。それから、先生がわたしと金學録さんの弟に、家に帰れという。家に戻ったら、遺骨箱があった。車に乗ったひとはどういう人かわからない。遺骨箱がきたのは、解放前だった。学校には日本の教師がまだいた。
 おじは、通知が来て、歩いて平昌邑までいった。そのころは、平昌邑に出るのに峠を越えていった。おじが日本に連れていかれたのは冬だった。そのとき、祖母はいたが、祖父は亡くなっていた。
 おじが日本で亡くなったのに、いままで、その状況を知らなかった。いま、その内容を少しでも知ることができた。いまの気持ちは、ことばではあらわせない。
コメント
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