三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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千榮基さんの証言

2010年03月24日 | 紀州鉱山
 ことし2月2日に、千炳台さんの墓のまえで聞かせていただいた千榮基さん(千炳台さんのおい)の証言です。

 捕まっていくようにして、連れていかれた。近くに住んでいた叔父(オモニの弟)もいっしょに連れていかれた。面事務所から職員が来て連れていくのを見た。いまの罪人といっしょだ。
 젯뽕(遺骨箱)がきたのは、解放前だった。そのときのことを覚えている。役所の人間か誰かが持ってきたと思う。それを埋めて墓をつくった。そのなかになにが入っていたかは、知らない。その日を命日にして、チェサをしている。
 叔父は結婚していた。おばは、젯뽕(遺骨箱)が戻ってきたあと、再婚して家をでていった。子どもがいなかった。わたしの弟が養子になって、墓を守っている。
 祖母は、31歳のとき祖父が亡くなって、ひとりになっていた。そういうときに、2番目の息子が死んで戻ってきたのだから、想像してみてください。祖母には辛いことだった。
 おじは無口な人だった。ちょっとでっぷりして、がっしりした人だった。アボヂ、おじさん、兄がチェサをして、ここに埋めた。
 젯뽕(遺骨箱)は、木でできていて、正方形だった。木は白かった。持ってきた人がどういう人かは知らない。解放前だった。
 おじは、同じ村に住んでいたオモニの末の弟、金태한といっしょに日本につれていかれた。金태한が解放後戻ってきて、おじの最後を話してくれた。てんねんとうにかかって死んだ。病気になって、まっくらな独房のようなところに入れられ、食事もちいさな穴から入れた。そのままそこから出てくることができず、死んだという。
 穴からメシをいれたんだ。食べられなくて死んだと聞いた。いくら泣いても、心がはれない。
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