日本のアジア侵略を肯定する近現代史研究者の妄論が、撤回されずに維持され続けているのはなぜなのか。
それは、①、誤った立論には徹底的に批判を加え、批判する過程で批判者も被批判者も共に学び合うという相互批判の作風が日本の研究者の間で極めて薄いためであり、②、十分な検討もなしに謬論の一部または全部を追認する研究者がいるためである。
たとえば、植民地侵略と植民地「開発」とは別個のものであるとする松本俊郎の謬論を、岡部牧夫は極めて安易に追認している(岡部牧夫「中国吉林の国際学会に参加して」、『日本史研究』一九八九年三月号、参照)。
最近、並木真人は、「植民地期民族運動の近代観――その方法論的考察――」と題する論文で、朝鮮近代史研究の方法を検討し、次のようにのべている。
「金森(襄作)氏の提起においては、従来絶対的に発展・賞賛の面でのみ把握されてきた
民族運動史の見方に対して、その否定的な面をも無視せず総体をとらえるべきであるとし
ている点に学ぶべきところがあるように思う」(『朝鮮史研究会論文集』二六集、一九八九
年三月)。
朝鮮民族運動史がこれまで、「絶対的に発展・賞賛〔誰が、どのような資格で賞賛したというのか?〕の面でのみ把握されてきた」という並木の断定は無責任な謬言だが、金森襄作の提起に学ぶところがあると言う並木の姿勢は、彼の「研究」の方法が根本のところで誤っていることを示している。そして、並木真人のような「研究者」の虚言が、日本のアジア侵略史を総括しうる日本人の近現代史研究の深化を阻害しているのだ、と言わざるをえない。
並木は、「学ぶべきところがある」と言う前に、金森襄作の「歴史研究」の方法を分析すべきであった。日本人金森襄作は、アジアを侵略した日本人の民族的責任を問おうとせず、「朝鮮民族解放闘争の質、民族的責任の問題は厳正に問われなければなるまい」と言っていた。
また、金森は、「官権〔ママ〕資料でなく朝鮮民衆が残した資料に依拠……」と自覚的にウソを言いつつ官憲資料を使って、朝鮮人社会主義者が民族独立を否定していたという虚構を「実証」していた(金森襄作『一九二〇年代朝鮮の社会主義運動史』、未来社、一九八五年八月)。金森は、いまなお、虚言と虚証を維持しつづけている。並木のように「学ぶところが……」という「研究者」の発言に助けられて彼は、これからもしばらくは、ウソを維持し続けることだろう。それは、金森個人にとっても不幸なことであるが、意味のあるアジア近現代史を学ばうとする者にとっては許しえないことである。並木真人は、あらためて、金森襄作の「研究」の方法と、並木自身の「研究」の方法をきちんと検証すべきだろう。
佐藤正人
それは、①、誤った立論には徹底的に批判を加え、批判する過程で批判者も被批判者も共に学び合うという相互批判の作風が日本の研究者の間で極めて薄いためであり、②、十分な検討もなしに謬論の一部または全部を追認する研究者がいるためである。
たとえば、植民地侵略と植民地「開発」とは別個のものであるとする松本俊郎の謬論を、岡部牧夫は極めて安易に追認している(岡部牧夫「中国吉林の国際学会に参加して」、『日本史研究』一九八九年三月号、参照)。
最近、並木真人は、「植民地期民族運動の近代観――その方法論的考察――」と題する論文で、朝鮮近代史研究の方法を検討し、次のようにのべている。
「金森(襄作)氏の提起においては、従来絶対的に発展・賞賛の面でのみ把握されてきた
民族運動史の見方に対して、その否定的な面をも無視せず総体をとらえるべきであるとし
ている点に学ぶべきところがあるように思う」(『朝鮮史研究会論文集』二六集、一九八九
年三月)。
朝鮮民族運動史がこれまで、「絶対的に発展・賞賛〔誰が、どのような資格で賞賛したというのか?〕の面でのみ把握されてきた」という並木の断定は無責任な謬言だが、金森襄作の提起に学ぶところがあると言う並木の姿勢は、彼の「研究」の方法が根本のところで誤っていることを示している。そして、並木真人のような「研究者」の虚言が、日本のアジア侵略史を総括しうる日本人の近現代史研究の深化を阻害しているのだ、と言わざるをえない。
並木は、「学ぶべきところがある」と言う前に、金森襄作の「歴史研究」の方法を分析すべきであった。日本人金森襄作は、アジアを侵略した日本人の民族的責任を問おうとせず、「朝鮮民族解放闘争の質、民族的責任の問題は厳正に問われなければなるまい」と言っていた。
また、金森は、「官権〔ママ〕資料でなく朝鮮民衆が残した資料に依拠……」と自覚的にウソを言いつつ官憲資料を使って、朝鮮人社会主義者が民族独立を否定していたという虚構を「実証」していた(金森襄作『一九二〇年代朝鮮の社会主義運動史』、未来社、一九八五年八月)。金森は、いまなお、虚言と虚証を維持しつづけている。並木のように「学ぶところが……」という「研究者」の発言に助けられて彼は、これからもしばらくは、ウソを維持し続けることだろう。それは、金森個人にとっても不幸なことであるが、意味のあるアジア近現代史を学ばうとする者にとっては許しえないことである。並木真人は、あらためて、金森襄作の「研究」の方法と、並木自身の「研究」の方法をきちんと検証すべきだろう。
佐藤正人