1995年11月18日、追悼集会のあと、参加者全員が歩いて、熊野市の漁港まで行きました。そこは観光地となっている鬼が城の裏側で、崖にトンネルが掘られていました。そのトンネルは日本海軍の倉庫で、それをつくるとき朝鮮人学徒兵も働かされたといわれています。
つぎの日、11月19日にはみんなで熊野市民俗資料館を訪ね、館長に「木本事件」にかんする資料を展示するように求めました。そのあと、紀州鉱山に向かいました。晩秋のあたたかい晴れた日でした。
熊野市から紀州鉱山までは、かつては風伝峠をこえて歩いて7~8時間かかったといいますが、いまは峠の下にトンネルが掘られ、自動車で1時間たらずです。
紀和町鉱山資料館
紀州鉱山の中心部は紀和町の町役場のすぐ近くにあります。わたしたちは、まず、紀州鉱山事務所の跡地に建てられた紀和町鉱山資料館にいきました。これは、この年4月に開館したばかりで、紀和町が石原産業から土地を提供されてつくったものでした。そこでは、イギリス軍捕虜にかんする資料はいくつも展示されていましたが、朝鮮人労働者にかんする資料はありませんでした。
石原産業の社長石原広一郎は、日本軍のアジア侵略に密着して中国や東南アジアから鉱物資源を日本に運びこみ、敗戦後にA級戦犯容疑者として3年間拘禁された人物ですが、この資料館の掲示では、「広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、1934年から紀州鉱山の開発に着手し……紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげました」と説明されていました。
紀州鉱山の鉱毒被害の実態はいまも隠されたままです。地元の人は、紀州鉱山は有毒なヘドロを近くの川(北山川の支流)の河川敷に流し込んでいたといっていました。鉱山で長い間はたらき重症の珪肺病で苦しんだ人びとは、1978年の閉山のときまで、石原産業に賠償をもとめる訴訟をおこすことができなかったそうです。石原産業が、紀州鉱山の鉱石を精練するためにつくった四日市の工場は、1980年に公害企業として有罪判決を受けています。
選鉱場、板屋坑口
鉱山資料館から200メートルほどの高台に、選鉱場跡と、坑口跡がありました。階段状の選鉱場の骨格が残っていました。板屋地区のこの坑口から、電動トロッコで、労働者が出入りしていたといいます。その線路も残っていました。
「八・一五」以前に自分が経営していた食堂に朝鮮人労働者が「監視員」につきそわれてキムチなどを食べにきていた、と5年前にキム チョンミさんに話してくれた女性(朝鮮人。選鉱場のすぐ近くに住んでいた)は、数年まえに亡くなられていました。
「史跡 外人墓地」
板屋坑口からひと山越えたところに、「史跡 外人墓地」(紀和町指定文化財)という紀和町教育委員会の説明板のつけられたところがありました。ここは、イギリス人が収容されていた「捕虜収容所」の跡地だということです。
アジア太平洋戦争をマラヤのコタバル奇襲で始めた日本軍は、マラヤやシンガポールで多くのイギリス軍兵士を「捕虜」にしました。かれらは、「泰緬鉄道」などで酷使されました。
生き残った「捕虜」のうち300人が紀州鉱山で働かされ、「八・一五」までに16人が死にました。
石原産業は、社長がA級戦犯容疑で逮捕拘禁されていたとき、12人の「墓」をつくりました(石原産業は死者の数を4人少なくしていたのです)。
それがくずれかかったので、紀和町教育委員会は、1987年に16人の「墓」につくりかえ、その区域を「外人墓地」と名づけ、紀和町は「史跡」に指定しました。
この「墓」のそばに「イルカボーイズ墓参記念碑」がありました。これは、1993年10月9日付で「イルカボーイズ来日墓参実行委員会ジャパン」が建てたもので、「イルカボーイズ」とは、かつての入鹿村(紀和町の旧名)のイギリス軍「捕虜」たちのことです。
わたしたちが行く2週間まえ11月4日に、「イルカボーイズ」21人がきて、紀和町長も出席して追悼式がおこなわれていました。
「外人墓地」の隣に、紀州鉱山の廃坑からいまも湧きだし続けている毒水の処理場がありました。そのため池のいくつかは空になっており、底には茶褐色のヘドロがたまっていました。
板屋の「八紘寮」
紀州鉱山では、1940年ころから多くの朝鮮人が働きはじめ、1944年には約700人が働いていました。
ここで朝鮮人労働者は、「日本臣民にして産業戦士」として「皇国臣民の誓詞」を「奉誦」させられました。
この日わたしたちは、板屋にあった朝鮮人労働者の住んでいた「八紘寮」の跡を尋ねましたが、わかりませんでした。
日本のアジア太平洋侵略のスローガン「八紘一宇」にちなんだ名の「寮」で、日本の敗戦1年まえの7月に朝鮮人労働者は、怒りを行動で示しました。そのとき逮捕された8人は、全員が木本区裁判所で有罪判決をうけています(『特高月報』1944年8月)。石原産業も紀和町も紀和町教育委員会も紀和町民がつくった紀南国際交流会も、イギリス軍「捕虜」のことは問題にしても、紀州鉱山での朝鮮人労働者の労働実態や朝鮮人労働者の死者の問題にはふれようとしていません。
湯ノ口抗口跡
つぎに、朝鮮人労働者の飯場のあとを探しに湯ノ口に向かいました。その途中の小川口にある温泉から湯ノ口にある温泉まで約1000メートルのトンネルをトロッコがはしっていました。このトロッコはかつて労働者や鉱石を運ぶために使われていたもので、1990年から観光客用に運転を始めたそうです。
湯ノ口には坑口は、残っていましたが、朝鮮人労働者の飯場があったという場所は、はっきりしませんでした。
現地調査のおわりに、湯ノ口坑口のそばにあった食堂で、意見交換会をしました。この食堂の敷地かそのふきんに朝鮮人労働者の飯場があったかも知れません。
東京から参加された朴慶植先生は、これまで数多く現地調査や聞きとりをしてこられたかたですが、紀州鉱山の規模は意外に大きいかったといわれ、この鉱山での朝鮮人労働者のことについて、聞きとり調査を急いですべきだと強調されました。
そのあと、北山川(熊野川の上流)の左岸ぞいに南の新宮方向にむかい、途中の薬師寺で解散しました。
この薬師寺からすこし南の和気村の本龍寺(現在、無住)に、朝鮮人の遺骨5体が安置されていますが、この日は時間がなく、訪れることができませんでした。
紀和町の南隣の御浜町が1982年に発行した『御浜町史』には、熊野とは朝鮮語で、熊の住む神聖な地の義を示すものとされている。熊野の代りに室(牟婁)とも呼ばれたがこのムロも朝鮮語で山の義を示すものとされている」
と、書かれています。『御浜町史』で朝鮮人のことが書かれているのはこの部分だけです。かつて、紀州鉱山から御浜町の阿田和まで索道がつくられ、鉱石が運ばれていました。
つぎの日、11月19日にはみんなで熊野市民俗資料館を訪ね、館長に「木本事件」にかんする資料を展示するように求めました。そのあと、紀州鉱山に向かいました。晩秋のあたたかい晴れた日でした。
熊野市から紀州鉱山までは、かつては風伝峠をこえて歩いて7~8時間かかったといいますが、いまは峠の下にトンネルが掘られ、自動車で1時間たらずです。
紀和町鉱山資料館
紀州鉱山の中心部は紀和町の町役場のすぐ近くにあります。わたしたちは、まず、紀州鉱山事務所の跡地に建てられた紀和町鉱山資料館にいきました。これは、この年4月に開館したばかりで、紀和町が石原産業から土地を提供されてつくったものでした。そこでは、イギリス軍捕虜にかんする資料はいくつも展示されていましたが、朝鮮人労働者にかんする資料はありませんでした。
石原産業の社長石原広一郎は、日本軍のアジア侵略に密着して中国や東南アジアから鉱物資源を日本に運びこみ、敗戦後にA級戦犯容疑者として3年間拘禁された人物ですが、この資料館の掲示では、「広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、1934年から紀州鉱山の開発に着手し……紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげました」と説明されていました。
紀州鉱山の鉱毒被害の実態はいまも隠されたままです。地元の人は、紀州鉱山は有毒なヘドロを近くの川(北山川の支流)の河川敷に流し込んでいたといっていました。鉱山で長い間はたらき重症の珪肺病で苦しんだ人びとは、1978年の閉山のときまで、石原産業に賠償をもとめる訴訟をおこすことができなかったそうです。石原産業が、紀州鉱山の鉱石を精練するためにつくった四日市の工場は、1980年に公害企業として有罪判決を受けています。
選鉱場、板屋坑口
鉱山資料館から200メートルほどの高台に、選鉱場跡と、坑口跡がありました。階段状の選鉱場の骨格が残っていました。板屋地区のこの坑口から、電動トロッコで、労働者が出入りしていたといいます。その線路も残っていました。
「八・一五」以前に自分が経営していた食堂に朝鮮人労働者が「監視員」につきそわれてキムチなどを食べにきていた、と5年前にキム チョンミさんに話してくれた女性(朝鮮人。選鉱場のすぐ近くに住んでいた)は、数年まえに亡くなられていました。
「史跡 外人墓地」
板屋坑口からひと山越えたところに、「史跡 外人墓地」(紀和町指定文化財)という紀和町教育委員会の説明板のつけられたところがありました。ここは、イギリス人が収容されていた「捕虜収容所」の跡地だということです。
アジア太平洋戦争をマラヤのコタバル奇襲で始めた日本軍は、マラヤやシンガポールで多くのイギリス軍兵士を「捕虜」にしました。かれらは、「泰緬鉄道」などで酷使されました。
生き残った「捕虜」のうち300人が紀州鉱山で働かされ、「八・一五」までに16人が死にました。
石原産業は、社長がA級戦犯容疑で逮捕拘禁されていたとき、12人の「墓」をつくりました(石原産業は死者の数を4人少なくしていたのです)。
それがくずれかかったので、紀和町教育委員会は、1987年に16人の「墓」につくりかえ、その区域を「外人墓地」と名づけ、紀和町は「史跡」に指定しました。
この「墓」のそばに「イルカボーイズ墓参記念碑」がありました。これは、1993年10月9日付で「イルカボーイズ来日墓参実行委員会ジャパン」が建てたもので、「イルカボーイズ」とは、かつての入鹿村(紀和町の旧名)のイギリス軍「捕虜」たちのことです。
わたしたちが行く2週間まえ11月4日に、「イルカボーイズ」21人がきて、紀和町長も出席して追悼式がおこなわれていました。
「外人墓地」の隣に、紀州鉱山の廃坑からいまも湧きだし続けている毒水の処理場がありました。そのため池のいくつかは空になっており、底には茶褐色のヘドロがたまっていました。
板屋の「八紘寮」
紀州鉱山では、1940年ころから多くの朝鮮人が働きはじめ、1944年には約700人が働いていました。
ここで朝鮮人労働者は、「日本臣民にして産業戦士」として「皇国臣民の誓詞」を「奉誦」させられました。
この日わたしたちは、板屋にあった朝鮮人労働者の住んでいた「八紘寮」の跡を尋ねましたが、わかりませんでした。
日本のアジア太平洋侵略のスローガン「八紘一宇」にちなんだ名の「寮」で、日本の敗戦1年まえの7月に朝鮮人労働者は、怒りを行動で示しました。そのとき逮捕された8人は、全員が木本区裁判所で有罪判決をうけています(『特高月報』1944年8月)。石原産業も紀和町も紀和町教育委員会も紀和町民がつくった紀南国際交流会も、イギリス軍「捕虜」のことは問題にしても、紀州鉱山での朝鮮人労働者の労働実態や朝鮮人労働者の死者の問題にはふれようとしていません。
湯ノ口抗口跡
つぎに、朝鮮人労働者の飯場のあとを探しに湯ノ口に向かいました。その途中の小川口にある温泉から湯ノ口にある温泉まで約1000メートルのトンネルをトロッコがはしっていました。このトロッコはかつて労働者や鉱石を運ぶために使われていたもので、1990年から観光客用に運転を始めたそうです。
湯ノ口には坑口は、残っていましたが、朝鮮人労働者の飯場があったという場所は、はっきりしませんでした。
現地調査のおわりに、湯ノ口坑口のそばにあった食堂で、意見交換会をしました。この食堂の敷地かそのふきんに朝鮮人労働者の飯場があったかも知れません。
東京から参加された朴慶植先生は、これまで数多く現地調査や聞きとりをしてこられたかたですが、紀州鉱山の規模は意外に大きいかったといわれ、この鉱山での朝鮮人労働者のことについて、聞きとり調査を急いですべきだと強調されました。
そのあと、北山川(熊野川の上流)の左岸ぞいに南の新宮方向にむかい、途中の薬師寺で解散しました。
この薬師寺からすこし南の和気村の本龍寺(現在、無住)に、朝鮮人の遺骨5体が安置されていますが、この日は時間がなく、訪れることができませんでした。
紀和町の南隣の御浜町が1982年に発行した『御浜町史』には、熊野とは朝鮮語で、熊の住む神聖な地の義を示すものとされている。熊野の代りに室(牟婁)とも呼ばれたがこのムロも朝鮮語で山の義を示すものとされている」
と、書かれています。『御浜町史』で朝鮮人のことが書かれているのはこの部分だけです。かつて、紀州鉱山から御浜町の阿田和まで索道がつくられ、鉱石が運ばれていました。
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