三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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第2回紀州鉱山「現地調査」 1996年11月

2006年03月26日 | 紀州鉱山
1996年11月17日、追悼集会の翌日、私たちは一昨年に続く2回目の
「現地調査」のため、紀和町にいきました。曇りの日で、ときどき
小雨が降りました。
はじめて参加した人たちが板屋にある紀和町鉱山資料館と「史跡 外人墓地」
(紀和町指定文化財)を訪れている間、2回目の参加者たちは2班に別れ、
板屋地域でそこに住んでいる方からの聞きとりをしました。
板屋地域では、朝鮮人が働かされていた当時のことを直接知っているかた
と出会うことができませんでしたが、1978年の閉山時まで20年ほど、石原産業
紀州鉱山労働組合の書記長をしていた北畑嘉信氏から、石原産業が40年ほど
前につくった『従業物故者忌辰録』という「会社創業以来の物故者」の名簿を
見せていただくことができました。

『忌辰録』

そこでは1955年10月10日までの石原産業の「従業物故者」は、1269人で、「殉職者」359人、「戦歿者」378人、「一般病没者その他」527人、「被社葬者」5人とされています。「殉職者」は、1924年、1925年、1928年、1931年、1934年の各年に1人、1935年に3人、1936年に1人、1937年に2人でしたが、1938年に13人、1939年に7人、1940年に15人、1941年に15人、1942年に19人、1943年に15人となり、1944年には33人に激増しています。

さらに、1945年には、毎月多くの人が「殉職」し、8月までに165人もの人が犠牲になっています。この年には、3月19日に10人、6月1日に12人、さらにその半月たらず後の 6月14日に24人もの人が犠牲になっています。これらの日には紀州鉱山(あるいは、紀州鉱山の銅鉱石を精練していた石原産業四日市工場)で大事故があったのではないかと思われます。しかし、これらの事故については、石原産業の社史にも、『紀和町史』にもなにも書かれておらず、紀和町が石原産業から土地を提供されて造った紀和町鉱山資料館(1996年4月開館)でもまったく触れられていません(紀和町鉱山資料館内の資料室には『従業物故者忌辰録』はおかれておらず、朝鮮人労働者にかんする資料もありません)。

また、この名簿の中には、イギリス軍の「捕虜」の名はありません。これは、『従業物故者忌辰録』と名付けられてはいても、「従業」した人のうちの死者すべての名を記録したものではないのです。
この名簿の「殉職者関係分」の部分には、梁四満氏(1938年6月27日「殉職」)、安
謹奉氏(1940年10月17日「殉職」)、崔俊石氏(1940年12月31日「殉職」)という3人の朝鮮人の名が記されており、「戦歿者関係分」の部分には趙龍凡氏(1942年11月16日「戦歿」)、曽春木氏(1942年11月24日「戦歿」)、(1942年11月24日「戦歿」)(1942年11月24日「戦歿」)(1942年11月24日「戦歿」)という2人の朝鮮人の名が記されており、「病没関係その他未詳分」の部分には、薜乗金氏(1936年5月15日「病没」)、梁煕生氏(1940年6月1日「病没」)、南而福氏(1945年5月3日「病没」)という3人の朝鮮人の名が記されています。また、その他に創氏改名させられたとおもわれる安田徳勲氏(1944年8月6日「殉職」)、玉川鐘連氏(1942年8月8日「病没」)ら10人ほどの人の名があります。

石原産業の報告書

石原産業紀州鉱山が三重県内務部に、1946年9月に提出した「報告書」のはじめの部分には、1942年以後の紀州鉱山での朝鮮人の「死亡者数」は10人となっていますが、そこに名が記されているのは、5人(「病死」2人、「死亡」3人)だけです。
その5人は、金本仁元氏(京畿道長湍郡郡内面。「公傷死」1945年6月1日)、南而福氏(京畿道長湍郡津西面。「病死」1945年5月3日)、金山鍾□氏(江原道麟蹄郡麒麟面。「病死」。死亡日記載なし)、海山応龍氏(江原道平昌郡平昌面。「病死」1945年2月20日)、玉川光相氏(江原道旌善郡旌善面。「業務上死亡」1944年3月7日)です。このうち、金本仁元氏、南而福氏、玉川光相氏の名は、『従業物故者忌辰録』にありますが、海山応龍氏と金山鍾□氏の名はありません。
紀州鉱山に強制連行された朝鮮人が、何人、どのようにして命を奪われたのか、いまはなにも明らかになっていません。石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行にかんする事実も、ほとんど明らかにされていません。
イギユン氏とぺサンド氏を虐殺した在郷軍人などの行為を「素朴な愛町心の発露」とする意識をかえようとしない熊野市・熊野市教育委員会の姿勢は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実をなかったことにしている紀和町・紀和町教育委員会や石原産業の姿勢とかさなりあっています。

惣房で

朝鮮人労働者の飯場があったのは、板屋、湯の口、惣房の3箇所でした。今回は前回に訪ねられなかった惣房にいきました。惣房では、そこで生まれ育った葛原三千代さんに出会い、朝鮮人の宿舎のあとなどを案内していただくことができました。
 朝鮮人の宿舎は、坑口のある怱房から1キロほど楊枝川ぞいの道をくだった筑後にあったといます。川辺に建てられた朝鮮人の宿舎の建物はすべて流されてなくなっていました。

惣房から歩いて20分ほどの地点に石原産業が、1930年代後半に小学校を建てました。葛原さんが通学していたころ(1940年前後)、朝鮮人の生徒が10人ほど、惣房から通学していたそうです。その三和小学校の校舎はあとかたもなくなって
いました。



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