http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/12/06/2019120680104.html
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http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/12/06/2019120680104_3.html
「朝鮮日報日本語版」 2019/12/08 06:05
■「北朝鮮の港に近づいたら先に北送された先輩が『降りるな、帰れ』と叫び声」
朝鮮学校の学生たちは絶対に降りてはならない。その船でもう一度日本へ帰るんだ」。
川崎栄子さん(77)は59年前、北送船が清津港の波止場に接岸した際に船着き場で大声で叫んでいた学校の先輩をいまだに覚えている。自分よりも先に北送船に乗って北朝鮮に到着したその先輩は、船に乗ってきた朝鮮学校の学生たちに向かって北朝鮮の軍人たちが聞き取れないように日本語で「降りるな」と叫んでいた。
北送された在日韓国人の川崎さんは高校3年生だった1960年、北送船に乗って清津入りし、2000年代初めに脱北。日本に定着した。「在日韓国人帰還事業」が始まって以来、今年の12月14日で60年を迎える。11月29日に新潟港を訪れた川崎さんは、まるで悪夢のように脳裏に焼き付いて離れない過去について回想した。
川崎さんは、北送船が清津港に近づいてきたあたりから何だか状況がおかしいと感じ始めたという。清津港一帯が一面灰色で、高いビルには見えなかったためだ。歓迎するために集まった人々は、肌寒い季節であるにもかかわらず着込んでいる様子もなく、靴下を履いている人も少なかった。「地上天国」という宣伝文句とはまるで掛け離れていた。船から降りた在日韓国人たちの間からは「だまされたのではないか」というざわめき声が上がった。集団合宿所に入った川崎さんと在日韓国人たちは、初日の夕飯から食べる物がなく、しっかりと食事を取ることがままならなかった。生き地獄の始まりだった。
川崎さんはもともと自分が生まれた日本を後にして北朝鮮入りすることに消極的だった。しかし、4・19革命(4月革命、故・李承晩〈イ・スンマン〉大統領を退陣に追い込んだ民主化デモ)が勃発したことで思いが変わった。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が「韓国は李承晩体制が近く崩壊し、社会主義によって統一されるだろう。よってあらかじめ北朝鮮に渡り、これに備えよう」と扇動するのを聞いたのだ。川崎さんの父は涙を流しながら北朝鮮行きに反対したが、川崎さんの思いを変えることはできなかった。
「59年前に北送船が出発した時は、ものすごい雰囲気だった。朝鮮総連系列の朝鮮学校から吹奏楽団がやって来て引き続き演奏した。それこそ地上の楽園に向かうという浮足立った雰囲気だった。在日韓国人だけではなく、日本人たちも通りに出てきて盛大に歓送した」。川崎さんなどを乗せた北送船は、日本海上保安庁艦艇に率いられて出航した。船が日本の領海を抜ける時、日本艦艇から「今後は公海に入ります。さようなら」というあいさつのアナウンスが流された。
2泊3日にわたる船旅で北朝鮮の役人たちから最初に言われたことは、日本から持ってきた食べ物を全て海に捨てろという命令だった。北朝鮮の人々は日本の食べ物が好きではない、と説明された。その時、川崎さんは言いようもない不安に襲われたという。「食べ物なのに、なぜ日本食だけを捨てろと言うのか。だとすれば『メイド・イン・ジャパン』であるわれわれ在日韓国人も好きではないのではないか」
北朝鮮にだまされたということを悟った川崎さんが清津に着いて真っ先にしたことは、日本の家族たちが北朝鮮に来ることができないようにすることだった。「こんな非人道的な生活は私一人で十分だと思った。それで家族たちに手紙を書いた。小学4年の弟が大学を卒業して結婚した後に会おうという内容だけをひたすらにつづって送った。絶対に来てはならないという内容だった」。川崎さんの親は、娘が「地獄から送ってきた手紙」の意味を悟って北朝鮮行きを諦めた。
川崎さんは、自分が下した誤った判断を変えることができる最後のチャンスを逃してしまったことを今も悔しがっている。「北送船に乗る前日、国際赤十字社のスイス出身の美しい女性が私を審査した。『自分の意思で行くのか』という形式的な質問だけだった。1分もかからなかった。あの時まともに審査が行われていたら、多くの人の運命が変わっていたはずだ」。
新潟港から東海を眺めながら思いにふけっていた川崎さんが言った。「北送船に乗った9万人の在日韓国人に対し、過去に戻って再び質問するとすれば、北朝鮮へ行くなどと答える人は誰一人としていないでしょう」
川崎さんは1987年に北朝鮮で結婚して1男4女を出産した。夫が死亡し、1990年代に餓死者が続出したことで北朝鮮からの脱出を決め、2000年代初めに娘一人を連れて死線を越えた。家族たちがまだ北朝鮮に残っているため、自分の韓国名とプライベートな情報を公開することができないという。
2004年に日本に定着した川崎さんは、2007年に「日本人」になった。日本国籍を取得したのは、北送事業の被害者を支援する活動を行うためだ。「私は日本国籍を所持しているため、北朝鮮から脅迫されたり被害を被ったりして私の身に万が一の事が起こったとしても、日本政府が動かざるを得ない。帰還事業に責任がある日本政府にこの問題の解決に向けて腰を上げてほしいとの意味合いもある」
川崎さんは12月13日、北朝鮮を脱出して日本に帰国した十数人の在日韓国人と共に再び新潟港を訪れる。同日、約9万人を死地へと送り込んだ北朝鮮政権を糾弾し、日本政府には責任ある解決を要求する計画だ。
新潟=李河遠(イ・ハウォン)特派員
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「朝鮮日報日本語版」 2019/12/08 06:05
■「北朝鮮の港に近づいたら先に北送された先輩が『降りるな、帰れ』と叫び声」
朝鮮学校の学生たちは絶対に降りてはならない。その船でもう一度日本へ帰るんだ」。
川崎栄子さん(77)は59年前、北送船が清津港の波止場に接岸した際に船着き場で大声で叫んでいた学校の先輩をいまだに覚えている。自分よりも先に北送船に乗って北朝鮮に到着したその先輩は、船に乗ってきた朝鮮学校の学生たちに向かって北朝鮮の軍人たちが聞き取れないように日本語で「降りるな」と叫んでいた。
北送された在日韓国人の川崎さんは高校3年生だった1960年、北送船に乗って清津入りし、2000年代初めに脱北。日本に定着した。「在日韓国人帰還事業」が始まって以来、今年の12月14日で60年を迎える。11月29日に新潟港を訪れた川崎さんは、まるで悪夢のように脳裏に焼き付いて離れない過去について回想した。
川崎さんは、北送船が清津港に近づいてきたあたりから何だか状況がおかしいと感じ始めたという。清津港一帯が一面灰色で、高いビルには見えなかったためだ。歓迎するために集まった人々は、肌寒い季節であるにもかかわらず着込んでいる様子もなく、靴下を履いている人も少なかった。「地上天国」という宣伝文句とはまるで掛け離れていた。船から降りた在日韓国人たちの間からは「だまされたのではないか」というざわめき声が上がった。集団合宿所に入った川崎さんと在日韓国人たちは、初日の夕飯から食べる物がなく、しっかりと食事を取ることがままならなかった。生き地獄の始まりだった。
川崎さんはもともと自分が生まれた日本を後にして北朝鮮入りすることに消極的だった。しかし、4・19革命(4月革命、故・李承晩〈イ・スンマン〉大統領を退陣に追い込んだ民主化デモ)が勃発したことで思いが変わった。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が「韓国は李承晩体制が近く崩壊し、社会主義によって統一されるだろう。よってあらかじめ北朝鮮に渡り、これに備えよう」と扇動するのを聞いたのだ。川崎さんの父は涙を流しながら北朝鮮行きに反対したが、川崎さんの思いを変えることはできなかった。
「59年前に北送船が出発した時は、ものすごい雰囲気だった。朝鮮総連系列の朝鮮学校から吹奏楽団がやって来て引き続き演奏した。それこそ地上の楽園に向かうという浮足立った雰囲気だった。在日韓国人だけではなく、日本人たちも通りに出てきて盛大に歓送した」。川崎さんなどを乗せた北送船は、日本海上保安庁艦艇に率いられて出航した。船が日本の領海を抜ける時、日本艦艇から「今後は公海に入ります。さようなら」というあいさつのアナウンスが流された。
2泊3日にわたる船旅で北朝鮮の役人たちから最初に言われたことは、日本から持ってきた食べ物を全て海に捨てろという命令だった。北朝鮮の人々は日本の食べ物が好きではない、と説明された。その時、川崎さんは言いようもない不安に襲われたという。「食べ物なのに、なぜ日本食だけを捨てろと言うのか。だとすれば『メイド・イン・ジャパン』であるわれわれ在日韓国人も好きではないのではないか」
北朝鮮にだまされたということを悟った川崎さんが清津に着いて真っ先にしたことは、日本の家族たちが北朝鮮に来ることができないようにすることだった。「こんな非人道的な生活は私一人で十分だと思った。それで家族たちに手紙を書いた。小学4年の弟が大学を卒業して結婚した後に会おうという内容だけをひたすらにつづって送った。絶対に来てはならないという内容だった」。川崎さんの親は、娘が「地獄から送ってきた手紙」の意味を悟って北朝鮮行きを諦めた。
川崎さんは、自分が下した誤った判断を変えることができる最後のチャンスを逃してしまったことを今も悔しがっている。「北送船に乗る前日、国際赤十字社のスイス出身の美しい女性が私を審査した。『自分の意思で行くのか』という形式的な質問だけだった。1分もかからなかった。あの時まともに審査が行われていたら、多くの人の運命が変わっていたはずだ」。
新潟港から東海を眺めながら思いにふけっていた川崎さんが言った。「北送船に乗った9万人の在日韓国人に対し、過去に戻って再び質問するとすれば、北朝鮮へ行くなどと答える人は誰一人としていないでしょう」
川崎さんは1987年に北朝鮮で結婚して1男4女を出産した。夫が死亡し、1990年代に餓死者が続出したことで北朝鮮からの脱出を決め、2000年代初めに娘一人を連れて死線を越えた。家族たちがまだ北朝鮮に残っているため、自分の韓国名とプライベートな情報を公開することができないという。
2004年に日本に定着した川崎さんは、2007年に「日本人」になった。日本国籍を取得したのは、北送事業の被害者を支援する活動を行うためだ。「私は日本国籍を所持しているため、北朝鮮から脅迫されたり被害を被ったりして私の身に万が一の事が起こったとしても、日本政府が動かざるを得ない。帰還事業に責任がある日本政府にこの問題の解決に向けて腰を上げてほしいとの意味合いもある」
川崎さんは12月13日、北朝鮮を脱出して日本に帰国した十数人の在日韓国人と共に再び新潟港を訪れる。同日、約9万人を死地へと送り込んだ北朝鮮政権を糾弾し、日本政府には責任ある解決を要求する計画だ。
新潟=李河遠(イ・ハウォン)特派員