ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(177):細工所⑩・細工所あたりの風景(5)

2011-12-13 08:40:28 |  ・加古川市東志方

007『志方町誌』は法華山谷川の流路変更に慎重ながら川筋の変更を認めておられるようです。

 それを確かめたいために、きのう東志方行常(ゆきつね)から志方町の八幡神社の東の大池まで法華山谷川の堤を歩いてみました。

やはり、法華山谷川の左岸(細工所)の方向が若干低くなっています。

流れは不自然です。

  法華山谷川は大池(志方村)へ

      そして、志方村の水瓶に

もうひとつ考えさせられることがありました。

大藤山から東の天神山の方向へ山塊が伸びています。

その山塊は志方八幡神社のある宮山を超えると、いったん落ち込み、高畑の山へと続いています。

二つの山塊の間に小さい谷を造っています。

その谷の南側に堤防を築いて出来あがったのが大池です。

法華山谷川は、東志方行常あたりから大きく南へ向きを変え、大池に流れ込んでいます。

大池は水の少ない志方町の主な田畑の水源となっています。

012前号まで「法華山谷川の流路変更」について、畑から細工所・高畑にかけての東志方の水田の拡大のように書いてきましたが、現地を歩いてみると、むしろ志方村の水瓶を造るために、強引に流路変更が行われたのではないか思えてきました。

これも想像なのですが、もともと大池のある場所は水が自然に流れ込むような低い場所であったとは考えられません。

 山と山のむしろ若干高い地形であったのでしょう。

為政者はここを削り、池を造り、法華山谷川の水をこの池にためて、水の少ない志方村の水瓶にし、志方村の田を美田にかえ年貢の増収を目指したと考えるのです。

    七つ池

 法華山谷川の流路変更は、東志方地区だけの問題でなく、志方村を含めたスケールの大きな重要な課題であったようです。

 だからこそ、水を奪われる地域の水を保証する「七つ池の築造」も同時並行で進めたと考えています。

   想像だけの歴史?

 このブログも今日で1588号となりました。

が、今回のように史料もなく強引に推測だけで書いたのは初めてです。

間違いだらけかもしれません。

この続きを一緒に調べてみませんか?

*写真上:法華山谷川(大池の)手前

 写真下:志方大池(現在水はなかった)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(176):細工所⑨・細工所あたりの風景(4)

2011-12-12 08:36:19 |  ・加古川市東志方

今、当然のように法華山谷川川筋変更の事をかいていますが、史料に拠っての文章ではありません。

仮説で書いています。間違いをご指摘ください。

  

  流路変更(法華山谷川)

Puaru_018『志方町誌』も法華山谷川の流路変更に慎重ながら川筋の変更を認めておられるようです。

繰り返しになりますが、地形から考えて法華山谷川の川筋の変更は間違いのないことだと思います。

前号で、想像を一歩進めて、川筋変更がなされた姫路藩主・榊原忠次の統治の時代ではないかと想像してみました。

江戸の初めの頃は日本の大開発時代です。法華山谷川の川筋を変え、細工所・高畑から畑にかけて水田を広げたのでしょう。

    

   水は農民の命

しかし、前号でも述べたように川筋を変更するということは、農民にとって大問題です。全村の利害が一致するとは限りません。

水が少なくなる。つまり、水がとられる地区の農民にとっては、藩主の命令であったとしても受け入れがたい問題です。

藩主としても、一方的な命令では農民の不満はたまり、やがて大きな問題の火種になりかねません。

藩・農民双方にとっても都合のよい解決法を見つけなければならないのです。

現在の言葉ではウィン・ウィン関係を見つけ出さねばなりません。

法華山谷川が畑・行常あたりから高畑・細工所に流れて西川に繋がっていた川筋を変更し水田が広がり、そして水は志方町の方へ流れるようになりました。

細工所・高畑・岡あたりから現在の西川沿いの村々にとっては水が大きく減少します。

    

    流路変更と七つ池

解決方法を見つけなければ、農民の不満は爆発します。

そこで考えられたのが「七つ池の築造」ではなかったかと想像するのです。

『志方町誌』で「七つ池」に関しての詳細はあるのですが、築造の時代を記していません。

そこで、大胆な想像をしてみます。

七つ池は法華山谷川川筋変更問題と同時に計画されたのではないかと考えるのです。

つまり、法華山谷川の川筋を変更して、法山谷川に沿った地域の水田を広げ、また志方町の方面の開発の水に利用しました。

そこで、西川につながっていた法華山谷川の水の代わりに「七つ池」つくり、その水を西川に流したのではないかと想像してみたいのです。

つまり、ウィン・ウィン関係を見事に成立させたのではないかと思います。

従って、七つ池の築造も榊原忠次の統治の時代ではないかと想像します。

以上の文章を書きながら、とんでもない想像をみなさんに押しつけていないだろうかと不安になっています。

仮説を検証することで、正しい歴史が伝わるものです。

みなさんは、どのように想像されますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(175):細工所⑧・細工所あたりの風景(3)

2011-12-11 08:20:54 |  ・加古川市東志方

『志方町誌』は「川筋変更問題は簡単に断じがたい」と法華山谷川の河川の流路変更説には慎重です。

しかし、流路変更説には慎重ながら流路の変更説を主張されています。

前号で、「川筋を変更したのは、いつごろか?」という問題を提起しました。

   水利権

Puaru_071農民にとって「水」はまさに農民の命でした。そのため各地で水をめぐって激しい争いがおきています。

水に関しては、厳格な掟(おきて)がありました。

水利権です。水利の変更はほとんど不可能でした。

ましてや、川筋を変更するとなると大問題です。

ここに記録はないのですが、それを可能にする方法が、ひとつだけあります。

     藩権力

それは、法華山谷川の川筋変更を藩に願いでることです。(藩の指導であったのかもしれません)

東志方の開発許可を姫路藩に申し出て、藩の許可を得ることでした。

江戸時代、姫路藩の財政事情は火の車でした。

年貢の増収を目指さなければならない事情がありました。

旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば新田は増えず、とうぜん年貢は増えません。

そこで、藩は各地の水利慣行を変更してでも年貢の増収を目指しました。

「藩の命令」ということであれば、利害が対立する東志方の各村々としても「ノー」とは言えません。

利害の対立する村々も、認めざるを得ませんでした。

     他藩の開発許可は出せない

東志方の村々には特別な問題がありました。

宝永六年(1709)、多くの東志方の村々は小田原藩領となり、それに続き延享三年(1686)より一橋藩の天領として幕末まで続きました。

この経過の詳細については「志方町を歩く(48~51)」をご覧ください。

宝永六年以降、姫路藩は他藩である東志方の村々に命令を出すことができなくなりました。

ですから、川筋変更の許可(命令)が出、川筋の変更が実施されたのは江戸時代の初めから宝永六年に限られます。

とりわけ、姫路藩主榊原忠次は、万治二年(1659)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで二つに分かれていた升田~船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施しています。

彼は、姫路藩の開発に力を発揮した大名です。

法華山谷川の河川の流路変更も彼の時代ではなかったかと想像しています。

間違いをご指摘ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(174):細工所⑦・細工所あたりの原風景(2)

2011-12-10 07:13:22 |  ・加古川市東志方

   

  川筋変更問題

005  『志方町誌』から引用させていただきます。

 「・・・(法華山谷川は)行常を出たあたりから高畑にかけての川の底が両側の土地より高くて、どうも自然にできた川とは思えない。

ちょっと雨が降ると堤すれすれに増水して今にも堤防が切れるばかりである。

(勿論、現在は河川の堤の補強工事が行われています)

こういう無理があったのは人工的に川筋を変更した証拠だというのである。

 つぎに、大沢から細工所にかけての一帯は地下水が豊富で、しかもその地下水は南流している。

すなわち、これは川床なのだという。細工所の南部は、少し掘ると砂礫が多く水がわいて困るそうである。・・・」

『志方町誌』は「(しかし)川筋変更問題は簡単に断じがたい」と河川の流路変更説には慎重です。

志方町の地図を片手に、山から景色(写真:高畑から畑の方向を撮影)を眺めてみると、川筋を変更したことは確かなことのように思えるのです。

 ・・・・・

 もう少し『志方町誌』から引用させていただきます。

「・・・昔の(法華山谷川の)川筋と思われる高畑、細工所、吉広方面は水があり余るほどあって、それほどこの川を必要としなかったのに反して、この川を志方大池の方へ引くことによって、どんなに志方町方面が水利の便を得たか、ということは言えることである。

 あるいは、もとからこの川(法華山谷川)は行常あたりから二つに分かれて流れていたのを一つにしたのかもしれない・・・」

このように、『志方町誌』の著者も、流路変更説には慎重ながら法華山谷川の河川の流路の変更説を主張されています。

    法華山谷川の川筋変更はいつのことか?

それでは、次に問題なるのは、「川筋を変更したのは、いつごろか?」ということになります。

次号で、考えることにしましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(173):細工所⑥・細工所あたりの原風景(1)

2011-12-09 00:07:51 |  ・加古川市東志方

  法華山谷川のながれ

Efc84c5e今回は、少し細工所を離れます。

志方町の地図()で法華山谷川の流れを見ています。

畑から細工所・高畑に向かって広がる水田耕地(水田)に注目ください。

不自然なところがあります。

水は当然、高い所から低い所へと流れます。

とすると法華山辺りから流れ出した水は、畑の集落あたりから高畑・細工所の方へ一番低い所を流れて川をつくるのが自然です。

しかし、そうはなっていません。一番低い所を避けて山裾から平野部の少し高い所を流れ、そして東飯坂の集落から南(志方町志方)へ大きくカーブをきって流れています。

これは、明らかに元の流路が、高い所に付け替えられ、そこを水田に造り変え、高所を流れる川から池に水をためたり、田に水を引いたのでしょう。

これが現在の法華山谷川のながれです。

元の川の氾濫原は豊かな水田に一変しました。

それは、いつの頃だったのでしょう。

記録がないので確実なことは言えませんが、他の地域の開発のようすなどから想像して、江戸時代の初めの頃ではなかったかと考えます。

地形から判断して、法華山谷川は畑の集落あたりから高畑・細工書の方へ流れ、現在の西川と繋がっていたと想像して間違いないと思います。

次の文章をお読みください。

  日本の農村の原風景は江戸時代の初めにつくられた

江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、荒れ地(氾濫原)も一挙に開拓が進み、この頃に現在の日本農村の原風景は形作られました。

その理由を歴史学者・大石慎三郎氏は、次のように説明されています。

「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)

つまり、江戸時代は戦争のない時代となりました。戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(172):細工所⑤・明治初期の細工所

2011-12-08 10:04:51 |  ・加古川市東志方

明治初期の細工所

Eccb34e8「志方町を歩く(170)」で、明治2241日、全国的に市町村の再編がおこなわれたことを紹介しました。

復習しますと、細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12ヶ村が合併して東志方村が誕生したのです。

役場は、細工所村に置かれ、東志方村の中心となりとなりました。

その当時の細工所の人口をあげておきますので、村の様を想像ください。

<明治22年の細工所の人口>

   男  223人

   女  212人   合計 435人

   戸数  72戸

         *『兵庫県市町村合併史』より

 なお、明治22年4月1日、江戸時代・大庄屋を務めた玉田家の玉田範威が初代東志方村の村長となり、明治31年9月20日、44才で没するまで在職しました。

大庄屋・玉田氏については後に紹介することにします。

  <明治15年当時の細工所の人口>

 なお、明治13年より編集にかかり同15年に発行された『播磨国地種類便覧』によると細工所の人口・戸数は以下のようです。

明治22年の細工所の人口・戸数は、共に明治15年当時より大きく減少しています。

その原因を考えてみたいが、今日は数字だけを記しておきます。

    人口  490人

    戸数  115戸

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(171):復習・細工所

2011-12-07 10:04:24 |  ・加古川市東志方

いま、東志方の細工所探訪をしていまが、「志方町を歩く」で、細工所に関係した記事を紹介しています。

整理をします。

下記の記事も「シリーズ・細工所」の記事としてお読みください。

 今までに紹介した「細工所」関係の記事

*番号は「志方町を歩く」の通し番号です

48  富士山、宝永の噴火と志方①

49  富士山、宝永の噴火と志方②

A9369e0c50  天領(一ツ橋領)

51  一ツ橋公陣屋

52  一ツ橋領陣屋役人の墓

58  とんが五輪

59  東志方村誕生

72  西川は一級河川

93  十王堂(安楽寺)

94  青面金剛像(安楽寺)

95  足が痛くなる石

113 マンジュシャゲの不思議

126 旧石器の狩人・三村秀弘

127 七つ池②、岡・細工所・高畑の池

128 七つ池③、水争い

129 七つ池④、重ね池

お願い

 シリーズ「志方町を歩く(細工所)は、史料があって書いているわけではありません。

 お聞きした話・他の方の研究・『志方郷』・『志方町誌』などを手がかりにして書いています。

 史料、その他楽しい話がありましたらご紹介ください。

特に、昔の写真をお持ちの方はぜひ一報ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(170):細工所④・細工所村消える

2011-12-06 18:20:47 |  ・加古川市東志方

東志方村細工所

Photo_2明治2241日、全国的に市町村の再編がおこなわれました。

この時、細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12ヶ村が合併して東志方村が誕生しました。

そして、昭和298月1日、東志方村、西志方村、志方村が合併して志方村が誕生しました。

従って、明治2241日より細工所村はなくなり、東志方村細工所となりました。

現在でも、細工所を「細工所村」と呼ぶ人がしばしばありますが、120年以前に「細工所村」は、なくなっています。

 <細工所は東志方村の中心に>

東志方村は、地図のように細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12か村です。

役場は、細工所村に置かれ、東志方村の中心となりとなりました。

東志方の内、広尾村は明治92月に吉村と柏村が合併して、お互いの一字をとり広尾村としました。

尚、これらの村々の江戸時代の経過を復習しておきます。

細工所村・高畑村・広尾村・岡村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村を含む地域は、慶長5年(1600)姫路藩領、元和3年(1617)幕府領、寛永16年(1639年)姫路領、慶安元年(1648)幕府領、延宝6年(1678)相模国小田原藩領に、そして延享4年(1748)から121年間にわたって一ツ橋領(天領)でした。

それ以外の4村は、他の志方と同じく姫路藩に属していました。

上記の記事は「志方町を歩く(59)」を一部、書き直した内容です。

*『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課)

『かこがわ万華鏡』(岡田功)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(169):細工所③、地名・細工所

2011-12-06 07:45:31 |  ・加古川市東志方

地名・細工所(さいくじょ)

Photo細工所(さいくじょ)というのであるから、何かを作っていた所だろうと想像します。

歴史学者の落合重信氏は『ひょうご地名考』(後藤書店)で、志方町細工所について、次のように述べておられます。

・・・細工所というのは、事典にあるように「禁裏・国衙・幕府・荘園・寺院などに設置された手工業者の役所、および工房」という意味です。

そこにいた手工業者はいろいろだが、鍛治・鋳物師・土器作・弓作・大工・紺屋・桧物師・白皮染等広範にわたっています。 

はじめは、政府の出先機関である国衙の独占物だったが、時代の趨勢(すうせい)と共に、次第に荘園に移るようになりました。

・・・志方庄の細工所は、近くから須恵器を生産した古窯跡が残っています。

「瓦(土器)を焼いていた所ではないか」とする説が有力です。・・・

   

   細工所は塞ぐ所(防ぐ所)か?

また、郷土史家の石見完次氏は、「ここは古窯跡が多いところだから、古代土器の工房とも考えられます。

また、最近の研究では、「細工所は塞ぐ所(さえぐしょ・さえぐところ)のことで、防御の設備のあった場所ではないか」と述べておられます。

細工所は、中道子山城の下にあり、街道筋だから塞ぐ所であったと考えられるのです。

細工所については、「瓦・土器を作ったところ」とする説が有力あるが、「防衛の場所」説も捨てがたいものがあります。

私は、「塞ぐ所」ではないかと想像しています。

*「地名・細工所」は、以前掲載した文を一部変えての再掲載です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(168):細工所②・地徳寛墓地の石幢

2011-12-05 08:24:34 |  ・加古川市東志方

細工所から野尻に行く西川の橋より少し南へ下がった山裾に、地徳寛墓地(じとくかんぼち)があり、その墓地の入り口に、永享九年(1437)の銘のある石幢の形をした六地蔵さんがあります。

「志方郷(8号)」に、三柳ふみ子さんがこの石幢について説明されていますのでご覧ください。

石幢の銘は「永享九丁巳(ひのとみ)右志者為道修□源逆修也 十二月廿四日」とあります。

逆修(ぎゃくしゅ)とありますから、先に亡くなった者の冥福を祈るために老いた父母が建てたのでしょう。

   

  地徳寛墓地の石幢・永享九年(1437

014墓地の入り口の説明板(兵庫県教育委員会)がありますので、それを読むことにします。

<兵庫県教育委員会説明板より>

「竿の下部約15cmが土中にあるが、造立当時は基礎を含めて約180cm程度あったと思われる。

笠の各隅が蕨手状(わらびてじょう)にあるのは珍しく、また塔身に二重光背形輪郭を彫り沈めていることなど丁寧な構造である。

竿石は大面取(おおめんとり)の方柱で、永享9(1437)年の銘を刻み、中台は下面に複弁六葉を刻出、塔身葉線刻した蓮華座上に地蔵立像を刻んでいる。

宝珠と請花は一石で、彫刻しており、当初のままと思われる。

材質は凝灰岩(竜山石)製で、風触が進んでいるが、県下では数少ない貴重な石幢(せきとう)である。

    平成元年  

兵庫県教育委員会」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(167):細工所①・火雷神社(かもどじんじゃ)

2011-12-04 10:29:13 |  ・加古川市東志方

シリーズ「志方を歩く」で、既に細工所(志方町東志方)について若干紹介しましたが、付け加えます。

楽しい話・史料等があればご紹介ください。

   火雷神社(かもどじんじゃ)

011「志方郷(12)」で前田あい子さんが「火雷神社」ついて書かれていますので、お借りします。

 細工所のほぼ中央(細工所公会堂のすぐ北)に「火雷さん」と呼ぶ小さなお宮があります。

志方八幡宮の末社で、祭神は火の神(いかずち)の神様です。

前田さんは、村のお年寄りから次のような話を聞かれています。

「・・・加古川から自転車に乗って帰る道で大雨に会い、ものすごい雷の音がちかずいてきました。

今にも落ちてきそうです。

心の中で手を合わせながら『私は細工所の火雷さんの近くに住んでいます。いつもお参りをして、お燈明をあげている者です。どうぞ私の上に雷を落とさないでください』と一生けん命祈りました。

すると無事に細工所まで帰れました」

・・・・

この神社はいつの頃の創建かを知る史料はありません。

境内に安政五年1858九月と銘のある水盥があるのですが、それよりずっと古いそうです。

(昔は)七月十一日の祭日になると道路に沿った家の塀や壁に青年団の人たちが描いた行燈がかけられました。

夕方になればその行燈に灯がともされ、境内では相撲が始まりました。

カンテラの灯が揺れた出店も並びとても懐かしい思い出です。

 *写真:火雷神社(122日撮影)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(166):コーヒーブレイク・真っ赤な紅葉がない

2011-12-03 16:13:13 |  ・コーヒーブレイク・余話

12月2日の神戸新聞の朝刊に「山はようやく秋色に」のテーマで、加古川市近辺の秋の風景を紹介していました。

権現ダムの堤防をバックにした真っ赤な紅葉の写真を掲載しています。

    風景に真っ赤な紅葉がない

029 「ひろかずのブログ」では西牧組の「大庄屋日記」を掲載しましたが、いったん終え東志方の細工所について書こうかなと計画しています。

そのため、2日は細工所へ写真を撮りに出かけ、帰りは野尻・権現ダム経由で帰ることにしました。

というのは、朝刊にあった権現ダムの紅葉を見たかったためです。

途中の山は確かに秋の風景でしたが、新聞で見た真っ赤な紅葉はみあたりません。

新聞記事にだまされたような気分になりました。

ダムの水をバックにした撮影スポットをさがしたのですが、写真の一カ所だけでした。

    歴史の風景

私たちが学校で習った歴史もそんなものかもしれません。

教科書に出てくる事項は特別な「真っ赤な紅葉のような事件」ばかりです。

普通の生活では、信長も聖徳太子も坂本竜馬も登場しません。

普段の生活は、真っ赤な紅葉のない風景が普通でした。

でも、内部に問題を含んでいます。

表面の変化の少ない生活も、内部では徐々に変化していました。

ある時点で沸点となり突然ガタガタと変化しました。

 その突然のガス爆発が教科書の事項です。

   権現ダム周辺は黄色い世界

山は、急に冷えだしました。

権現ダム周辺の風景は冬への準備を急いでいました。

でも、赤い紅葉は、あまり見当たりません。

ダム周辺は、いつもの年のように短い秋を黄色で演出しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町探訪(165):大庄屋日記⑱、大庄屋の情報(2)・不穏な動き

2011-12-02 12:06:01 |  ・加古川市西志方

天明から天保期は、飢饉が続き一揆が多発した時代です。

文化期は、天明期と天保期の間であり、不安定な時代でした。

そのため、農民の行動に関する情報に支配者は敏感にならざるをえませんでした。

とりわけ、百姓と接している大庄屋にとって、この種の情報をいち早く把握し、解決することが求められたのです。

    百姓の不穏な動き!

7c821cd_2今年(文化四年・1807)の秋は、特に大変な不作でした。

村々は「稲などの育ち具合をご覧願いくださいと」と、お役人にお願いをしましたが、取り上げていただけませんでした。

田畑の内、田は植え付けを減らしたり、遅植えにしました。

畑の木綿はなんとか育ちました。

少しずつではありますが、年貢を引き下げていただけるようです。

しかし、全国的に不作で米の値段は一石について78匁より90匁に値上がりしました。

1125、御城下の周辺の村々に張り紙がありました。

その貼り紙には「来る25日にはお百姓は市川へ集まること、もし一ヶ村でも不参加の村があれば押し寄せ潰す・・・」と書かれていました。

25日には御着・山ノ脇村へは盗賊方御役人、下御役目つき、かれこれ30が監視に着かれました。

その日は何事もなく、すぎました。

*西牧組の「大庄屋日記」は、後にもしばしば取り上げますが、このあたりでいったん終え、他の志方町の散策をします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志方町を歩く(164):大庄屋日記⑰、大庄屋の情報(1)・オロシア来る

2011-12-01 15:14:08 |  ・加古川市西志方

文化四年(1807)は江戸時代の終わりの頃とはいえ、鎖国の時代です。

一般の人々は、他の国や他藩の情報は完全に閉ざされていました。

でも、大庄屋は少し違っていたようです。

大庄屋は、藩の支配者とこれらの情報を共有していたようです。

どの程度の情報を持っていたかを「大庄屋日記」からみることにします。

今回は「オロシア来る」

   

    オロシア来る

5940f653去年(文化三年・1806)九月ごろよりオロシア人が西カラフトにやってきました。

長々滞在して、四月ごろ(1807)乱暴し、四人を生け捕り、番屋を焼き払ったそうです。

これによって松前藩の者が500人ばかり出兵しました。

今年の四月中旬ごろ、また、ヲロシア人の渡来がありました。

五千石積みの船二艘と小船三、四十艘で、人数は二艘に四百人ずつ乗り、手には剣あるいは鉄砲を持ち、上陸しアイヌ人やその外の番人を生け捕りにしました。

   

    高田屋嘉兵衛も登場

この時、高田屋(嘉兵衛)がオロシアに出会って、追いかけましたが、オロシア船から鉄砲などを撃ってきました。

高田屋は無難にクナシリ島へ渡り、後に函館の奉行所へ報告をしました。

幕府はエトロフへ兵を送りました。

この時、堀田摂津守様・御目付遠山金四郎様・同村山大学様・御使番小菅伊右衛門様・御徒士目付六人・御小人目付十二人がエトロフへ行かれました。

その外、数藩からも援助がありました。

また、御勤番・江戸御番人様はエトロフ島へ渡り、厳重な防備をされました。

その後は、静かになりました。

風説では、松前藩の御家来が籠城との事で、御子息がオロシアへ渡海したとか・・・

<写真:クナシリ島・泊付近の海>

記事とは関係ありません。

10年ほど前に、ある事情でクナシリ島へビザなし渡航をしました。

写真の海でも高田屋嘉衛はオロシア船に出会っています。このあたりの海のある風景は江戸時代と同じようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする