ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(181):細工所⑭・伊能忠敬測量隊がゆく(2)

2011-12-17 07:35:04 |  ・加古川市東志方

加 西 道

前号の伊能測量隊一行の測量コース(前号の地図)を再度復習しておきます。

<加古川市史(第二巻)より>

「・・・法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。

・・・・」

測量隊のたどった細工所から平荘の養老()の河岸(かし・川の港)までの道は、昔は加西道とよばれていました。

この道は、また東志方の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でもあったのです。

二つの経済・生活圏

1_042いまの、志方町は志方町・西志方・東志方は一つの政治・経済圏をつくり、まとまりのある地域となっていますが、江戸時代は、今の西志方・志方が一つの政治・経済圏であり、東志方は、細工所を中心にした、他の一つの政治・経済圏をつくっていたと考えてよいようです。

江戸時代は原則として、物資は水を動き、人は陸を動きました。

東志方の生活物資は加西道を通り、加古川の養老()の河岸に集まりました。

伊能測量隊が通った道で運ばれた東志方の物資は養老()の河岸に運ばれたのです。

そして、高砂へ運ばれた物資は大坂・江戸など全国へと運ばれました。

もちろん、全国から高砂に集まった生活物資の一部は養老()に集まり、東志方へと運ばれました。

ということは、東志方の人々の経済圏は、今の志方・西志方ということではなく、目は岡・広尾、そして加古川の河岸に延びる地域に注がれていたようです。

ましてや、東志方の多くの村々は西志方・志方町が姫路藩に属していたのに対し、江戸時代の後半は一ツ橋藩の天領でした。

その上に、大藤山から延びた山塊が志方八幡神社のある宮山へと繋がり、途中志方大池で谷をつくるものの再び高畑へと続き、東志方と西志方・志方との間に山塊が塀のように立ちはだかっています。

 「志方はひとつ」といいたいのですが、もともと志方は二つの経済圏・生活圏から成たっていた地域と考えてよいようです。

*写真:写真中央の山塊の向こうが志方・西志方、手前が東志方(城山から撮影)

コメント
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