加 西 道
前号の伊能測量隊一行の測量コース(前号の地図)を再度復習しておきます。
<加古川市史(第二巻)より>
「・・・法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。
・・・・」
測量隊のたどった細工所から平荘の養老(芝)の河岸(かし・川の港)までの道は、昔は加西道とよばれていました。
この道は、また東志方の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でもあったのです。
二つの経済・生活圏
いまの、志方町は志方町・西志方・東志方は一つの政治・経済圏をつくり、まとまりのある地域となっていますが、江戸時代は、今の西志方・志方が一つの政治・経済圏であり、東志方は、細工所を中心にした、他の一つの政治・経済圏をつくっていたと考えてよいようです。
江戸時代は原則として、物資は水を動き、人は陸を動きました。
東志方の生活物資は加西道を通り、加古川の養老(芝)の河岸に集まりました。
伊能測量隊が通った道で運ばれた東志方の物資は養老(芝)の河岸に運ばれたのです。
そして、高砂へ運ばれた物資は大坂・江戸など全国へと運ばれました。
もちろん、全国から高砂に集まった生活物資の一部は養老(芝)に集まり、東志方へと運ばれました。
ということは、東志方の人々の経済圏は、今の志方・西志方ということではなく、目は岡・広尾、そして加古川の河岸に延びる地域に注がれていたようです。
ましてや、東志方の多くの村々は西志方・志方町が姫路藩に属していたのに対し、江戸時代の後半は一ツ橋藩の天領でした。
その上に、大藤山から延びた山塊が志方八幡神社のある宮山へと繋がり、途中志方大池で谷をつくるものの再び高畑へと続き、東志方と西志方・志方との間に山塊が塀のように立ちはだかっています。
「志方はひとつ」といいたいのですが、もともと志方は二つの経済圏・生活圏から成たっていた地域と考えてよいようです。
*写真:写真中央の山塊の向こうが志方・西志方、手前が東志方(城山から撮影)