文化四年(1807)は江戸時代の終わりの頃とはいえ、鎖国の時代です。
一般の人々は、他の国や他藩の情報は完全に閉ざされていました。
でも、大庄屋は少し違っていたようです。
大庄屋は、藩の支配者とこれらの情報を共有していたようです。
どの程度の情報を持っていたかを「大庄屋日記」からみることにします。
今回は「オロシア来る」
オロシア来る
去年(文化三年・1806)九月ごろよりオロシア人が西カラフトにやってきました。
長々滞在して、四月ごろ(1807)乱暴し、四人を生け捕り、番屋を焼き払ったそうです。
これによって松前藩の者が500人ばかり出兵しました。
今年の四月中旬ごろ、また、ヲロシア人の渡来がありました。
五千石積みの船二艘と小船三、四十艘で、人数は二艘に四百人ずつ乗り、手には剣あるいは鉄砲を持ち、上陸しアイヌ人やその外の番人を生け捕りにしました。
高田屋嘉兵衛も登場
この時、高田屋(嘉兵衛)がオロシアに出会って、追いかけましたが、オロシア船から鉄砲などを撃ってきました。
高田屋は無難にクナシリ島へ渡り、後に函館の奉行所へ報告をしました。
幕府はエトロフへ兵を送りました。
この時、堀田摂津守様・御目付遠山金四郎様・同村山大学様・御使番小菅伊右衛門様・御徒士目付六人・御小人目付十二人がエトロフへ行かれました。
その外、数藩からも援助がありました。
また、御勤番・江戸御番人様はエトロフ島へ渡り、厳重な防備をされました。
その後は、静かになりました。
風説では、松前藩の御家来が籠城との事で、御子息がオロシアへ渡海したとか・・・
<写真:クナシリ島・泊付近の海>
記事とは関係ありません。
10年ほど前に、ある事情でクナシリ島へビザなし渡航をしました。
写真の海でも高田屋嘉衛はオロシア船に出会っています。このあたりの海のある風景は江戸時代と同じようです。
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