ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(164):大庄屋日記⑰、大庄屋の情報(1)・オロシア来る

2011-12-01 15:14:08 |  ・加古川市西志方

文化四年(1807)は江戸時代の終わりの頃とはいえ、鎖国の時代です。

一般の人々は、他の国や他藩の情報は完全に閉ざされていました。

でも、大庄屋は少し違っていたようです。

大庄屋は、藩の支配者とこれらの情報を共有していたようです。

どの程度の情報を持っていたかを「大庄屋日記」からみることにします。

今回は「オロシア来る」

   

    オロシア来る

5940f653去年(文化三年・1806)九月ごろよりオロシア人が西カラフトにやってきました。

長々滞在して、四月ごろ(1807)乱暴し、四人を生け捕り、番屋を焼き払ったそうです。

これによって松前藩の者が500人ばかり出兵しました。

今年の四月中旬ごろ、また、ヲロシア人の渡来がありました。

五千石積みの船二艘と小船三、四十艘で、人数は二艘に四百人ずつ乗り、手には剣あるいは鉄砲を持ち、上陸しアイヌ人やその外の番人を生け捕りにしました。

   

    高田屋嘉兵衛も登場

この時、高田屋(嘉兵衛)がオロシアに出会って、追いかけましたが、オロシア船から鉄砲などを撃ってきました。

高田屋は無難にクナシリ島へ渡り、後に函館の奉行所へ報告をしました。

幕府はエトロフへ兵を送りました。

この時、堀田摂津守様・御目付遠山金四郎様・同村山大学様・御使番小菅伊右衛門様・御徒士目付六人・御小人目付十二人がエトロフへ行かれました。

その外、数藩からも援助がありました。

また、御勤番・江戸御番人様はエトロフ島へ渡り、厳重な防備をされました。

その後は、静かになりました。

風説では、松前藩の御家来が籠城との事で、御子息がオロシアへ渡海したとか・・・

<写真:クナシリ島・泊付近の海>

記事とは関係ありません。

10年ほど前に、ある事情でクナシリ島へビザなし渡航をしました。

写真の海でも高田屋嘉衛はオロシア船に出会っています。このあたりの海のある風景は江戸時代と同じようです。

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