『志方町誌』は「川筋変更問題は簡単に断じがたい」と法華山谷川の河川の流路変更説には慎重です。
しかし、流路変更説には慎重ながら流路の変更説を主張されています。
前号で、「川筋を変更したのは、いつごろか?」という問題を提起しました。
水利権
農民にとって「水」はまさに農民の命でした。そのため各地で水をめぐって激しい争いがおきています。
水に関しては、厳格な掟(おきて)がありました。
水利権です。水利の変更はほとんど不可能でした。
ましてや、川筋を変更するとなると大問題です。
ここに記録はないのですが、それを可能にする方法が、ひとつだけあります。
藩権力
それは、法華山谷川の川筋変更を藩に願いでることです。(藩の指導であったのかもしれません)
東志方の開発許可を姫路藩に申し出て、藩の許可を得ることでした。
江戸時代、姫路藩の財政事情は火の車でした。
年貢の増収を目指さなければならない事情がありました。
旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば新田は増えず、とうぜん年貢は増えません。
そこで、藩は各地の水利慣行を変更してでも年貢の増収を目指しました。
「藩の命令」ということであれば、利害が対立する東志方の各村々としても「ノー」とは言えません。
利害の対立する村々も、認めざるを得ませんでした。
他藩の開発許可は出せない
東志方の村々には特別な問題がありました。
宝永六年(1709)、多くの東志方の村々は小田原藩領となり、それに続き延享三年(1686)より一橋藩の天領として幕末まで続きました。
この経過の詳細については「志方町を歩く(48~51)」をご覧ください。
宝永六年以降、姫路藩は他藩である東志方の村々に命令を出すことができなくなりました。
ですから、川筋変更の許可(命令)が出、川筋の変更が実施されたのは江戸時代の初めから宝永六年に限られます。
とりわけ、姫路藩主榊原忠次は、万治二年(1659)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで二つに分かれていた升田~船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施しています。
彼は、姫路藩の開発に力を発揮した大名です。
法華山谷川の河川の流路変更も彼の時代ではなかったかと想像しています。
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