ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町探訪(165):大庄屋日記⑱、大庄屋の情報(2)・不穏な動き

2011-12-02 12:06:01 |  ・加古川市西志方

天明から天保期は、飢饉が続き一揆が多発した時代です。

文化期は、天明期と天保期の間であり、不安定な時代でした。

そのため、農民の行動に関する情報に支配者は敏感にならざるをえませんでした。

とりわけ、百姓と接している大庄屋にとって、この種の情報をいち早く把握し、解決することが求められたのです。

    百姓の不穏な動き!

7c821cd_2今年(文化四年・1807)の秋は、特に大変な不作でした。

村々は「稲などの育ち具合をご覧願いくださいと」と、お役人にお願いをしましたが、取り上げていただけませんでした。

田畑の内、田は植え付けを減らしたり、遅植えにしました。

畑の木綿はなんとか育ちました。

少しずつではありますが、年貢を引き下げていただけるようです。

しかし、全国的に不作で米の値段は一石について78匁より90匁に値上がりしました。

1125、御城下の周辺の村々に張り紙がありました。

その貼り紙には「来る25日にはお百姓は市川へ集まること、もし一ヶ村でも不参加の村があれば押し寄せ潰す・・・」と書かれていました。

25日には御着・山ノ脇村へは盗賊方御役人、下御役目つき、かれこれ30が監視に着かれました。

その日は何事もなく、すぎました。

*西牧組の「大庄屋日記」は、後にもしばしば取り上げますが、このあたりでいったん終え、他の志方町の散策をします。

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