ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

瀧瓢水物語(14)  瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(6) ・父(仲春)供養の灯籠

2016-10-13 08:51:20 | 瀧瓢水物語

    瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(6)

      仲春(新右衛門・瓢水)供養の灯籠

 瓢水の父・仲春(新右衛門)の墓標を訪ねます。

 山電・別府駅の西の道を南へ真っ直ぐ行くと、別府川に突き当たります。

 そのあたりに、名刹・宝蔵寺(真言宗)があります。瀧家の菩提寺です。

 瓢水の父の亡くなったのは、元禄四年(1691)で瓢水8才の時でした。

 宝蔵寺の本堂の正面に写真のように二基の石燈籠があります。

 その石燈籠には、「元禄四年(1691)季辛未九月廿九日亥時」の紀年銘と「阿弥陀三尊を表す梵字」の下に「覚元浄法信士」とあります。

 紀年は、瓢水の父・仲春の没年時刻を記しています。

  (*亥時:午後9時~11時の間)

 新右衛門(仲春)の死後、妻・参ら親類一統で、仲春の菩提を弔うために寄進した石灯籠です。

 それにしても、本堂の正面に堂々とした二基の燈籠です。

 なみの檀家ではこうはいきません。

 宝蔵寺と瀧家は、よほど深い関係があったのでしょう。

 当時、瀧家は別府の豪商で、宝蔵寺の大スポンサーだったのです。

 瀧家の賑わいが伝わってきそうです。(no3362)

 *写真:上、宝蔵寺本堂前の瓢水父(仲春)の二基の灯籠

  写真:下、父の供養灯籠(西側)

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瀧瓢水物語(13) 瀧瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(5)・風樹の嘆

2016-10-12 06:49:47 | 瀧瓢水物語

    瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(5)

 「風樹の嘆」(ふうじゅのたん)という言葉をご存知でしょうか。

 私も、「さればとて 石に蒲団も きせられず」の瓢水の句を調べていて初めて知った言葉です。

 広辞苑では「孝養をしようと思い立った時にはすでに親が死んでいて孝養をつくしえない嘆き」とあります。

 瓢水は、自分の「風樹の嘆」を句にしています。

 前漢の韓嬰(かんえい)の著で、「詩経」の解説書の外伝に、次のような物語があるそうです。

 さすが瓢水です。かれの教養の中のこの物語が、母の死に際して句にしたのでしょう。

 次の「風樹の嘆」の話はHPからの引用です。少し文章を変えて紹介させていただきます。

    風樹の嘆

 今から二千五百年前のことです。
 孔子が斉の国へ向かっていた時、前の方から、大きな泣き声が聞こえてきました。
 大層悲しそうでした。
 馬車をはやめると、号泣している男を発見しました。
 孔子は、彼に尋ねました。「あなたは、どなたですか」
 「丘吾子(きゅうごし)という者です」
 「なぜ、そんなに泣くのですか」
 「私は、大変な過ちを犯したのです。晩年になって気がついて後悔しましたが、今さらどうにもなりません」
 「どんな過ちか、聞かせていただけませんか」
 「若いころから、私は、学問が好きで、諸国を巡っておりました。
 ある日、学問の道にはキリがないので、これくらいで郷里へ帰ろうと思いました。年老いた父母のことが心配になってきたのです。

 しかし、家へ戻ってみると、両親は、すでに亡くなっておりました。

 子供が親を養おうと思っても、親はその時までは待っていてはくれません。

 過ぎた歳月は、二度と帰ってこないのです。
 二度と会うことができないのは親です」
 ここまで言って、男は、水中に身を投げて死んでしまいました。

 孔子は、「これは一人一人が教訓としなければならない大切なことだ」と弟子たちに諭しました。

     母・参の墓碑の保存を

 別府西町の墓こそ、瀧瓢水の貴重な遺産です。

 墓碑は砂岩のため、傷みがずいぶん進んでいます。

 この墓をいつまでも保存していただけませんでしょうか。

 *写真:瓢水の母(参)の墓碑については、先に紹介しましたが、現在西町の墓地の南東隅に写真のように集められています。お参りください。

 念のために戒名を繰り返しておきます。「勝林栄舜」です。(no3361)

*写真:母の墓標(写真右の傘塔婆)と父の墓標(写真左の傘塔婆)

 

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瀧瓢水物語(12) 瀧瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(4) ・ 瀧 恒 春?

2016-10-11 09:58:10 | 瀧瓢水物語

          瀧瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(4)

      瀧 恒 春?

 この墓碑は、瀧家の墓標であり、「文化財」ではありません。

 でも「さればとれ 石にふとんは きせられず」と瓢水が詠んだ句の墓標です。文化財に指定されてもおかしくない貴重な墓標です。

 しかし、この墓石の保存状況は十分とは言えません。

 それには、2つの理由があります。

 第一は「明治十八年の書類では、だれの墓か不明」としています。

 この墓を建てたのは四代恒春とあります。

 四代は瓢水ですから、瓢水が建てたというのであれば問題がありありません。

 問題になるのは「恒春」です。

 瓢水は、有恒・新之丞・自得・新右衛門・富春斉・半括坊等その外にも多数の名前を持っていますが「恒春」は一度も記録には出てこないからです。

 瓢水の本名は有恒です。

 そのため『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)には、「・・・四代目は瓢水ではなく、この墓を建てた恒春であり、五代が瓢水である・・・」としています。

 そして、この記事を書かれたH氏は、別のところで、やはり四代は瓢水、五代は富春と認めながら、恒春にこだわり、墓を建てたのは「七代の恒春」とされました。

 七代の瀧恒春は天明八年(1788)ごろに生まれ、明治五年(1872)に亡くなっています。

 くりかえします。瓢水の母・参がなく亡くなったのは、享保十八年(1733)です。

 「時代があまりにも違います。そのため、この墓は瓢水が建てたものではない」と結論づけておられます。

 文化財審議委員の方にお願いです。もう一度、調査をお願いできないでしょうか。

     恒春は瓢水の名前か

 「恒春」は、誤刻かとも考えたりしますが、母の墓碑の自分の名前の誤刻に気がつかないことはないと思います。

 「恒春」は母の墓碑にただ一回限りに使った瓢水の名前であったと考えたいのです。

 瓢水と母・参との心の結びつきは強よかったようです。母の死に「人目もはばからず涙した」といわれています。

     ある想像! 母と瓢水の会話

 生前、次のような会話もあったのではないかと想像するのです。もちろん史料があっての話ではありません。

 ・・・有恒(瓢水の本名)・・お前もずいぶんと俳句にのめりこんでしまいましたね。お母さんも苦労しますよ。・・・

 名前がよくなかったのかね。初代は元春、二代は清春、三代は亡くなったお父さんの仲春、そして四代目がお前の有恒。お前だけが「春」を継いでいないね・・・

 恒春の方が良かったのかかもしれませんね・・・。

 そんな話の時、瓢水はだまって苦労かけている母の小さくなった背を見つめるばかりでした。

 以上の母との語りは、もちろん史料があっての話ではではありません。勝手な想像です。

 『ふるさとの文化財(第二巻)』の著者・木戸正氏は、「・・母からは恒春と呼ばれ、(恒春は)母と子の間の最も深いつながりのある名前であった・・・」と推測されています。(no3360)

  図:母・参の墓碑の復元図(『ふるさとの文化遺産』木戸正より)

 

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瀧瓢水物語(11) 瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(3) ・母(参)は、母神

2016-10-10 08:27:04 | 瀧瓢水物語

   瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(3)

       瓢水の母(参)は、母神

 前号で、瓢水のお母さんの墓標(今回と同じ写真)を紹介しました。

 現在、お父さん・お母さんの墓標は、西町の墓地の中央部にある瀧家の墓所ではなく、少し離れて、同墓地の南東隅あたりに置かれています。

 今回と次回は、瓢水のお母さん(参)の墓標を調べてみます。

 墓標は砂岩の笠塔婆(かさとうば)で、中央に割れた跡がくっきり残り、文字等もかなり傷んでいます。

 まず、墓標の文字を読んでおきましょう。

 現在、左側面の文字は他の墓標のために読めませんが、さいわい以前に郷土史家の木戸正氏が書き写されていますので、お借りします。

 (正面) 

  癸享保十八年丑七月廿九日

     勝林栄舜之墓 (*瓢水の母参の戒名)

 (右側面)

  母神成孀不妍四十余歳不出外在乎内守

  節忌享楽、不聞淫聲後世以我母為主矣

 (左側面)

  一代新右衛門元春

   二代与一右衛門清春

    三代新右衛門仲春之妻

    姓三木福田与六郎娘名参

     四代目新右衛門恒春建之

 仏は、三代目新右衛門仲春の妻で瓢水のお母さんです。

 (注)瓢水は四代目とされるのですが、瓢水の名前として「恒春」の名前は記録に出てきません。そのため『加古川市の文化財』は、五代目が瓢水としています。何か事情があったのかもしれませんが、恒春は四代瓢水のこととしておきます。

 お母さんは、三木町の福田与六郎の娘で名前を参(さん)といいました。

 この墓を建てたのは四代目「新右衛門恒春」です。

 恒春については次号で考えます。

     母は母神

 右側面の文章は、少し難しい文字が使われていますので一緒に読むことにします。

 まず、単語の意味を調べておきます。

 ・成孀(やもめ)   独身

 ・不妍(ふげん)   化粧をしないこと

 ・淫聲(いんせい)  みだらな音楽

 意味は「母はヤモメとなり、化粧もせず、四十年間外出することなく、内にあって節操を守っています。

 享楽を避け、みだらな音楽を口にすることもなく、聞くことすらしませんでした。

 母こそ、ひたすらに一家の主人として、瀧家を守った母神様です。(no3359)

 *『ふるさとの文化遺産(第二巻)』参照

 

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瀧瓢水物語(10) 瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(2) ・『ふるさとの文化遺産(第二巻)』

2016-10-09 10:09:53 | 瀧瓢水物語

    瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(2)

        『ふるさとの文化遺産(第二巻)』

 写真は、瓢水の母・参(さん)の墓碑です。

 またまた余話になります。

 別府町西町の墓地に瓢水の墓碑がることを知ったのはもう30年ほど前のことです。

 郷土史を研究されている木戸正氏は、昭和60年1月18日発行で『ふるさとの文化遺産(第二巻)』を発行されました。

 その第一章で瀧瓢水について述べておられます。

 その三節が「瓢水関係の石造物」です。

 『二巻』を木戸氏からいただきました。

 木戸氏のサインもあります。

      Mさんのこと

 そして、最近高校の同窓生のMさん(女性)と、よく話をするようになりました。

 在学当時は、県立高校であるのに男女別々の教室でした。

 そのためか、学校で女性と話すことは、ほとんどありませんでした。

 それに加えて、数学が病的にできなくてコンプレックスも重なりました。

 もっとも、最近は若干あつかましくなりましたが・・・

 Mさんと話している時、何かのきっかけでお父さんの話になり、途中で、話の内容があやしくなりました。

 「もしや、Mさんのお父さんは『木戸正さん』ではないですか」と尋ねると、ビックリされていました。

 話がはずみ、「私も地域史に興味を持っています。生前にお父さんから『ふるさとの文化遺産(第二巻)』をいただきました」と話をすると、後日Mさんから全巻(一巻から六巻)が届きました。

 本当にありがとうございました。

 ここに紹介している「瀧家の墓碑」の多くは『ふるさとの文化遺産(第二巻)』からお借りしています。(no3358)

 *写真:瓢水の母(参)の墓碑

 

 

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瀧瓢水物語(9) 瀧瓢水の父(仲春)、母(参)の墓碑(1)・瀧家の墓碑

2016-10-08 09:02:31 | 瀧瓢水物語

    瀧瓢水の父(仲春)、母(参)の墓碑(1)

           瀧家の墓碑

  瀧家の墓地は西町の墓のやや西寄りの墓地内のメーン通りの東側で、目につく場所にあります。

 瓢水は、瀧家の四代の当主で、初代は元春、二代は清春(瓢水の祖父)です。

 三代が仲春(瓢水の父)です。

 ただ、墓碑には戒名で、瀧〇〇とは刻まれていません。

 墓碑には、戒名で刻まれていますので、瀧家3代とお母さん(参)の戒名を紹介しておきます。

    初代(元春)  月高浄透

    二代(清春)  全快清春

    三代(仲春)  覺元浄法信

    瓢水の母(参) 勝林栄舜

 瀧家の墓地には、初代・二代目の墓碑があるのですが、三代の仲春、つまり瓢水の父、そして母さん(参)の墓碑が見当たりません。

 かつて、ここにあったという話を聞きました。

 特に、「さればとて 石に布団は かけられず」のモデルとされる瓢水の母・参の墓碑を探がしましたが、見つかりません。

 後日、「瀧さんの御先祖の方から三代と瓢水の母と父の墓碑は、震災で傷みが激しくなっていたため、少し修理をし、同じ西町の瀧家の墓地から少し離れた場所に移してしています」という話をお聞きしました。そして、案内していただきました。

 ありました!・・・・

 まさに、まさにお父さんとお母さんの墓碑でした。(mp3357)

 *写真:瀧家の墓碑

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瀧瓢水物語(8) さればとて 石に布団も きせられず

2016-10-07 06:42:22 | 瀧瓢水物語

 瓢水について、時系列ですっきりとした形で紹介できたらよいのですが、まとまっていません。

 調べながら書いていますので、話が前後します。

 書き終わった後、すこしはまとめて、紹介したいと考えています。

 ご了承ください。

 尚、いま瓢水の母・参(さん)を紹介しましたので、参についての話題を続けます。

     さればとて 石に布団も きせられず

 父・仲春が亡くなったのは、瓢水が8歳の時でした。

 その後、瓢水は、俳句ののめりこみ、家の仕事は顧みず、母に苦労をかけ続けの人生でした。

 でも、参だけは陰で、そっと瓢水を見守ってくれました。

 瓢水がその母をなくしたのは享保18年(1733)の秋のことでした。

 数日後、その知らせを大坂で受け取りました。

 「優しかった母が死んだ・・・」

 瓢水は、「夢だ!」。

 ただ、呆然とするばかりでした。

 飛ぶように別府に帰りました。

 当然のこととして葬儀はすみ、母に会うことはできません。

 墓に参り、天を仰ぎ号泣し、自分の不孝を告げたといいます。

 この時の心情を詠んだのが、よく知られている次の句です。

    さればとて いしに布団も きせられず      (no3356

  *写真:瓢水の句碑(平岡町一色霊園内・加古川東郵便局の前) 

 

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瀧瓢水物語(7)  瓢水の母、参

2016-10-06 07:00:04 | 瀧瓢水物語

     瓢水の母、参(さん)

 記事は少し、前回と重なります。

 瀧家の初代は、滝野から別府に入った瀧元春です。第二代は清春(瓢水の祖父)で、三代は瓢水の父仲春です。

 仲春は、瓢水が8歳の時なくなりました。

 前号で紹介した別府町の宝蔵寺の本堂の前にある一対の石灯籠は瓢水の父・仲春の菩提を弔うためのものです。

 瓢水は、幼くして家督を継ぎました。

 そのため、後見は祖父が、家業は人にまかせ、そして教育は母の参(さん)が当たりました。

 瓢水の母・参について、少し紹介おきます。

 参は、三木の福田義秋の娘です。

    余話:近藤亀蔵

 以下は余話で、小野藩の豪商・近藤家の話です。

 江戸時代、小野藩(一柳藩)に、日本一の豪商と言われた近藤家がありました。

 当主は、近藤亀蔵で、瓢水の母・参の実家の分家でした。

 別府の金沢新田を開いたのは金沢九郎兵衛で、九郎兵衛は近藤家の番頭で金沢新田開発には資金面で援助をしています。

  *加古川市金沢町は、この金沢九郎兵衛の名前から名づけられています。

 何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大イにはやりましたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産40万両で、西は播磨の近藤、60万両で、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられました。 

 寛政元年(1789)、わずか9歳で先代の跡を継いだ近藤亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走しました。

 特に、回漕業(海運業)を手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをしました。

 小野市の黍田(きびた)と対岸の市場をつなぐ万歳橋の左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷がありました。

 天保の川筋一揆で農民の恨みの対象になり、近藤家は破壊され、跡は全く残っていません。

 のち、勤皇・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていましたが、倒幕派(勤皇派)の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助をしていました。 

 長州藩との関係は、近藤家が兵庫~下関間の回漕業(海運業)を経営していたことから生じたようです。

 元治元年(1864)と慶応元年(1865)の二度にわたり、幕府が長州藩を封鎖したときには、その物資輸送を助けており、長州藩士、伊藤俊介(博文)なども長く近藤文蔵の本宅(市場町)に潜伏していたことがあります。(no3356)

 *地図:金沢新田(加古川市金沢町は、この金沢九郎兵衛の名前から名づけられています)

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瀧瓢水物語(6) 瀧家は、別府城跡か? 

2016-10-05 07:28:06 | 瀧瓢水物語

    瀧家は、滝野(現加東市)から別府へ

 三木合戦のはなしです。

 広く知られているように三木城主・別所長治(ながはる)は籠城し、秀吉の攻撃を防いだのですが、外からの援助もなく、特に兵糧がなくなり、天正8年(15801月、長治は秀吉に降伏を申し出、自害しました。

 家臣たちは、許されて、それぞれの縁故を頼り離散していきました。

 その後、秀吉は、同年4月に播磨の国内の9城の破壊を命じました。

 別府城は、秀吉の家臣・津田小八郎によって、徹底的に破壊され、その姿を消しました。残念なことに、記録も残っていません。

 現在、別府城の場所があった場所についても、はっきりとしていません。

 候補地が4か所ほどあげられていますが、東町・元町・西町の付近と推測します。

 理由は、以下のように推測したからです。

      瀧家は、別府城跡か? 

 瀧家の兄弟は、三木城落城後、旧地の滝野に帰りましたが、次の代に滝野を離れて別府に居を構えました。

 別府瀧家の初代は、この時、滝野から別府に転居した瀧新右衛門元春(以下、元春)です。

 二代・瀧與一右衛門清春(以下、清春)、そして瓢水の父三代・瀧新右衛門仲春(以下、仲春)と続きます。

 父仲春は、瓢水が8歳の時なくなりました。

 瓢水は、若くして、瀧家の4代目を継ぐことになりました。

 瀧家は、滝野を後にして別府に転居した場所は、先に紹介したように現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂のあたりです。

 瀧家は、ご先祖が城主をであった別府城跡に居を構えたのではないでしょうか。

 史料により確かめられていませんが、ここが別府城の場所と考えるのですが、どうでしょう?(no3355

 *写真:瀧家の菩提寺(宝蔵寺)にある父・仲春の二基の石灯籠(この石灯籠についての詳細は、後日紹介します)

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瀧瓢水物語(5)  余話として・毛利軍来る! 

2016-10-04 06:48:52 | 瀧瓢水物語

      余話として   「別府城の戦い・毛利軍来る」 

 「瀧瓢水物語」ですが、瀧家のご先祖が別府城と関係があったようなので、余話として「別府城の戦い」を挟んでおきます。

 以下の「別府城の戦い」は、『播磨灘物語』からの引用ですが、一部省略したり、加筆(主に挿絵)をしています。

     別府城の戦い(『播磨灘物語』より)

 ・・・別府を領していたのが、今度の争乱(三木合戦)で織田方についている別所重棟であった。

 重棟は、兄の賀相と不仲ということが主因とになって、織田方に属している。そこに毛利軍が水軍によって運ばれてきたのである。

 毛利軍といっても、大坂の本願寺に加担している紀州雑賀(さいか)党もこれに加わっていたから、毛利・雑賀の連合軍といっていい。

 雑賀党は、大坂の湾から出ている。毛利軍は、はるか西の広島あたりからでている。

 それらが、淡路の岩屋で結集し、多数の軍船をそろえて、別府の浜にむかって漕ぎだしたのである。

 ・・・官兵衛は、別府城の望楼にのぼって敵の来襲を待っていた。夜は、まだ明けない。

 海面は暗いが、敵の動きはわかる。対岸の淡路島の岩屋から、無数の火が押し寄せてくる。

 かれらは、夜中に播磨灘を押し切って、夜明けに上陸しようとしているのである。

 「敵は八千」という情報がとどいていた。

 「敵の目的は何か」  と官兵衛は考えていた。おどしか、本気か、本気なら目的は何か。

 ・・・(別府城の)望楼は官兵衛を載せて、しらじらと明けはじめた空に浮かんでいる。

 海浜には、毛利・雑賀の兵がふえている。

 官兵衛の視界には、海浜をおおっている松原でさえぎられていたが、それでも人数の推定はできた。

 「・・・・二千人か)と、官兵衛が踏んだのは、海浜にいる人数である。

 船でなおも、到着しつつあった。

 夜が明けきって海面が白く光ったとき、淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ゴマをまいたように船が浮かんでいた。

 どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。

  「撃つな」、勇気が要った。

 ・・・ついに寄せ手が土塁や石垣に取りついたとき、官兵衛はいっせいに撃たせたのである。

 官兵衛は城門をひらき、三百人の突撃隊を突出させた。

 官兵衛が、子飼いで育ててきた母里太兵衛(もりたへい)が、その指揮者だった。

 後年、黒田節という今様でその逸話をうたわれた母里太兵衛が、武名を世間に知られるようになるのはこの時からである・・・(no3354)

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瀧瓢水物語(4) 瀧家と別府城主

2016-10-03 07:44:52 | 瀧瓢水物語

    加古氏(瀧家の祖先)、別府城を捨てる

 前号の最期を復習しておきます。

 「瀧家の祖先は、長水城の3代城主から分かれた広瀬氏(則勝・勝真)の時に宍粟(しそう)を離れ、清基の時に加古郡本庄に移り住み、その後、加東郡滝野に移り住み、滝野の一字を取り、姓を広瀬から瀧と改めたといいます」と紹介しました。

 また、瀧家には、次のような話が語り継がれています。

 宍粟から加古郡本庄に住んだ清基の子の弟は、加古郡小松原城の小松原永春の養子となり加古郡加古荘の代官になり、百姓を慈しみ「加古殿」呼ばれました。

 そのため姓を「加古」と名のり、後に別府に居住し別府城主となったといいます。

 瀧家は、別府城主の加古氏とは特別な関係があったようです。

 ここまでの、瀧家の家系図に関しては、若干不明なところも含まれているかもしれません。

     別府城の戦い(1)

 話の都合で、別府を取りまく播磨の戦国時代のようすを紹介しましょう。

 時代は、秀吉・信長の時代の別府城の件です。

 天正六年(1578)二月、三木の別所長治(ながはる)は、中国の毛利と呼応して、織田信長に反旗をひるがえしました。

 三木城の守りは固かたく、そのため秀吉は、三木側に味方する周辺の城を先に落とす作戦を取りました。

 毛利方は、三木に援軍・食料を送らねばなりません。

 天正六年四月、毛利軍は三木方(別所方)の別府城を襲いました。説明が必要です。

 別府あたりは海岸線が単調ながら、別府あたりでわずかに小湾をなし、船泊まりができ、戦国時代のころでは単にこの小湾を、「べふ」と土地では呼んでいました。

 三木城主・長治の父の別所安治(やすはる)は、若干39歳で病没しました。その時、長治はまだ12才でした。

 三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治の後見することになったのですが、後に、三男・重棟は信長に近づき毛利に味方した賀相と袂を分かちました。

 ・・・そして、重棟は別府城の加古氏を追い出し、別府城を信長方の拠点にしました。

 加古氏(瀧家の先祖)は、この時対抗する勢力がなく四方に散ったといいます。(no3353)

 *『播磨灘物語(司馬遼太郎著)』参照  写真:小松原城郭集落図

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瀧瓢水物語(3) 瀧家のルーツを探る

2016-10-02 09:34:48 | 瀧瓢水物語

    瓢水・貞享元年(1648)別府に生まれる

 瀧瓢水は、貞享元年(1648)加古郡別府村(現:加古川市別府町)に生まれました。

 父は、瀧新右衛門仲春(以下、瀧仲春)母は参(さん)。

 瀧家は、現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂(写真)の近くで一町(約109㍍)四方の広大な屋敷でした。

 家業は、回船問屋で叶屋(かのうや)といい、別府港に拠点をおき、加古川流域の物産を集め、大坂や西国に送り、生活物資や魚肥等を買い入れ、それを販売する大商社として繁栄し、千石船7艘を所有する富豪でした。

 以上は史実です。

    瀧家のルーツを探る

 瀧家の家系図の話です。

 家系図というのは、一般的に怪しい所も多分に含んでおり、史実とはいいがたいのが一般的ですが、以下は、今のところ、伝えられている瀧家の家系です。

 赤松則村円心(以下、赤松円心)の後裔で、円心の孫・師頼(もろより)の時、宍粟郡(しそうぐん)広瀬郷(現、山崎町)の長水城(ちょうすいじょう)主となり、姓を広瀬と称しました。

 そして、赤松氏は、鎌倉幕府の成立に大きく貢献しました。

 が、その処遇についての不満を持ち、赤松満祐(みつすけ)は、足利6代将軍・義教(よしのり)を暗殺してしまいました。教科書にも登場する「嘉吉の変(かきつのへん(1441))です。

 当然のこととして、幕府の追討軍の攻撃を受けました。

 赤松軍は、城山城(きのやまじょう・たつの市)に籠りました。

 この戦いに瀧家のご先祖・広瀬氏も赤松軍として参戦します。

 結果、赤松氏は攻められ滅亡し、満祐は自害し赤松氏は滅亡しました。広瀬氏の長水城も落城してしまいました。

 (*赤松円心から始まった赤松氏は、嘉吉の乱でいったん消滅します。これを第1次赤松氏といい、その後、奇跡的に赤松氏は復活します。詳細は省きますが、復活後の赤松氏は第2次赤松氏と呼んでいます)

 瀧家の祖先は、長水城の3代城主から分かれた広瀬氏(則勝・勝真)の時に宍粟を離れ、清基の時に加古郡本庄に移り住み、その後、加東郡滝野に移り住み、滝野の一字を取り、姓を広瀬から瀧と改めたといいます。(no3352

 *写真:別府東町と元町の境にある辻堂(このあたりが瀧家跡)


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瀧瓢水物語(2) 芭蕉の系列

2016-10-01 07:56:21 | 瀧瓢水物語

   瓢水の生涯(1) 芭蕉の系列

 江戸時代(元禄時代)、日本全国を驚かせたのは、赤穂浪士の仇討ちです。

 元禄15年(1702)のことでした。

 この時、瓢水は19歳で最も多感な青年でした。

 「元禄時代」は、平和を謳歌した時代です。

 商業の時代でもあり、風潮は、「武」は衰え「文」に流される時代となりました。

 そんな時代にあって、赤穂浪士の事件は、「武が残っていた」として当時の人々は、大いに拍手を送りました。

 元禄時代は、武士をやめ、町人になった人も多くいました。

 特に、この時代大坂町人であった井原西鶴は、当時の世相をありのままに小説にえがきました。

 武士の出身であった近松門左衛門は、義理人情の世界を人形浄瑠璃に描きました。その他、歌舞伎なども盛んになりました。

 瓢水もこの時代の空気をいっぱい吸って成長した人でした。

 俳句の世界では、伊賀の上野に生まれた松尾芭蕉が活躍がありました。

 瓢水の俳句は、松尾芭蕉→宝井其角(たからいきかく)→松木淡々(まつきたんたん)の流れの中に位置づけられています。

 淡々は、江戸で俳諧を芭蕉・其角に学びのちに、京都・大坂で活躍し、宝暦11年(1761)、大坂で、その生涯と閉じています。

 次の俳句は、松木淡々の作品です。

    梅の花 答えて云く 梅の花(松木淡々)

 瓢水の句を一句紹介しましょう。

    蔵売って 日あたりのよき 牡丹かな(瀧瓢水)

 二人の作品は、どことなく似た作風だと思われませんでしょうか。(no3351

 *絵画:芭蕉が「おくのほそ道」を執筆している間の元禄6年(1693)春に門弟が描いたもの。芭蕉存命中の作品であることから、「おくのほそ道」の旅姿が忠実に描かれ、芭蕉の晩年の顔立ちもこれに近いものだったと推測されます。

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瀧瓢水物語(1) 「瓢水物語」を始めます

2016-09-30 08:03:19 | 瀧瓢水物語

 今日で9月も終わり。「円照寺の花たち」は2月から始めて、はや8か月になりました。

 まだ、紹介できてない「円照寺の花たち」があります。花がきれいに咲く都度紹介することにして、次の話題「瀧瓢水物語」を始めます。

 引き続き、お読みください。

 写真は、最近の円照寺のスイフヨウです。

  瀧瓢水(1) 「瓢水物語(たきひょうすい)」を始めます

 現在の加古川市別府町に瀧瓢水(1684~1762・江戸時代中期)という俳人がいました。

 家業を継いだ時瀧家は千石船を七艘(そう)を持つ、かなりの豪商でした。

 しかし、瓢水が家業を継ぐや急速にさびれてしまいました。

 それも、そのはずです。

 俳句にのめりこみ、家業を人まかせにして京都、大坂で遊んでばかりいるものですから、土地や船は他の商人の手に渡ってしまいました。

 でも、彼は底抜けの暢気な性格で、そんなことをいっこうに気をとめるようすはありません。

 瓢水は、俳句にだけは異常なほど情熱を傾けました。

    浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

 この句をご存知の方も多いと思います。

 その外にも、瓢水の句と知らずに覚えておられる句も多いのではないでしょうか。

 あるところから、「瓢水について知りたい」という要請がありました。

 彼について、あまり知らないのですが、調べながら紹介することにします。(no3350)

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