瓢水・貞享元年(1648)別府に生まれる
瀧瓢水は、貞享元年(1648)加古郡別府村(現:加古川市別府町)に生まれました。
父は、瀧新右衛門仲春(以下、瀧仲春)母は参(さん)。
瀧家は、現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂(写真)の近くで一町(約109㍍)四方の広大な屋敷でした。
家業は、回船問屋で叶屋(かのうや)といい、別府港に拠点をおき、加古川流域の物産を集め、大坂や西国に送り、生活物資や魚肥等を買い入れ、それを販売する大商社として繁栄し、千石船7艘を所有する富豪でした。
以上は史実です。
瀧家のルーツを探る
瀧家の家系図の話です。
家系図というのは、一般的に怪しい所も多分に含んでおり、史実とはいいがたいのが一般的ですが、以下は、今のところ、伝えられている瀧家の家系です。
赤松則村円心(以下、赤松円心)の後裔で、円心の孫・師頼(もろより)の時、宍粟郡(しそうぐん)広瀬郷(現、山崎町)の長水城(ちょうすいじょう)主となり、姓を広瀬と称しました。
そして、赤松氏は、鎌倉幕府の成立に大きく貢献しました。
が、その処遇についての不満を持ち、赤松満祐(みつすけ)は、足利6代将軍・義教(よしのり)を暗殺してしまいました。教科書にも登場する「嘉吉の変(かきつのへん(1441))です。
当然のこととして、幕府の追討軍の攻撃を受けました。
赤松軍は、城山城(きのやまじょう・たつの市)に籠りました。
この戦いに瀧家のご先祖・広瀬氏も赤松軍として参戦します。
結果、赤松氏は攻められ滅亡し、満祐は自害し赤松氏は滅亡しました。広瀬氏の長水城も落城してしまいました。
(*赤松円心から始まった赤松氏は、嘉吉の乱でいったん消滅します。これを第1次赤松氏といい、その後、奇跡的に赤松氏は復活します。詳細は省きますが、復活後の赤松氏は第2次赤松氏と呼んでいます)
瀧家の祖先は、長水城の3代城主から分かれた広瀬氏(則勝・勝真)の時に宍粟を離れ、清基の時に加古郡本庄に移り住み、その後、加東郡滝野に移り住み、滝野の一字を取り、姓を広瀬から瀧と改めたといいます。(no3352)
*写真:別府東町と元町の境にある辻堂(このあたりが瀧家跡)
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