ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

瀧瓢水物語(5)  余話として・毛利軍来る! 

2016-10-04 06:48:52 | 瀧瓢水物語

      余話として   「別府城の戦い・毛利軍来る」 

 「瀧瓢水物語」ですが、瀧家のご先祖が別府城と関係があったようなので、余話として「別府城の戦い」を挟んでおきます。

 以下の「別府城の戦い」は、『播磨灘物語』からの引用ですが、一部省略したり、加筆(主に挿絵)をしています。

     別府城の戦い(『播磨灘物語』より)

 ・・・別府を領していたのが、今度の争乱(三木合戦)で織田方についている別所重棟であった。

 重棟は、兄の賀相と不仲ということが主因とになって、織田方に属している。そこに毛利軍が水軍によって運ばれてきたのである。

 毛利軍といっても、大坂の本願寺に加担している紀州雑賀(さいか)党もこれに加わっていたから、毛利・雑賀の連合軍といっていい。

 雑賀党は、大坂の湾から出ている。毛利軍は、はるか西の広島あたりからでている。

 それらが、淡路の岩屋で結集し、多数の軍船をそろえて、別府の浜にむかって漕ぎだしたのである。

 ・・・官兵衛は、別府城の望楼にのぼって敵の来襲を待っていた。夜は、まだ明けない。

 海面は暗いが、敵の動きはわかる。対岸の淡路島の岩屋から、無数の火が押し寄せてくる。

 かれらは、夜中に播磨灘を押し切って、夜明けに上陸しようとしているのである。

 「敵は八千」という情報がとどいていた。

 「敵の目的は何か」  と官兵衛は考えていた。おどしか、本気か、本気なら目的は何か。

 ・・・(別府城の)望楼は官兵衛を載せて、しらじらと明けはじめた空に浮かんでいる。

 海浜には、毛利・雑賀の兵がふえている。

 官兵衛の視界には、海浜をおおっている松原でさえぎられていたが、それでも人数の推定はできた。

 「・・・・二千人か)と、官兵衛が踏んだのは、海浜にいる人数である。

 船でなおも、到着しつつあった。

 夜が明けきって海面が白く光ったとき、淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ゴマをまいたように船が浮かんでいた。

 どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。

  「撃つな」、勇気が要った。

 ・・・ついに寄せ手が土塁や石垣に取りついたとき、官兵衛はいっせいに撃たせたのである。

 官兵衛は城門をひらき、三百人の突撃隊を突出させた。

 官兵衛が、子飼いで育ててきた母里太兵衛(もりたへい)が、その指揮者だった。

 後年、黒田節という今様でその逸話をうたわれた母里太兵衛が、武名を世間に知られるようになるのはこの時からである・・・(no3354)

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