加古氏(瀧家の祖先)、別府城を捨てる
前号の最期を復習しておきます。
「瀧家の祖先は、長水城の3代城主から分かれた広瀬氏(則勝・勝真)の時に宍粟(しそう)を離れ、清基の時に加古郡本庄に移り住み、その後、加東郡滝野に移り住み、滝野の一字を取り、姓を広瀬から瀧と改めたといいます」と紹介しました。
また、瀧家には、次のような話が語り継がれています。
宍粟から加古郡本庄に住んだ清基の子の弟は、加古郡小松原城の小松原永春の養子となり加古郡加古荘の代官になり、百姓を慈しみ「加古殿」呼ばれました。
そのため姓を「加古」と名のり、後に別府に居住し別府城主となったといいます。
瀧家は、別府城主の加古氏とは特別な関係があったようです。
ここまでの、瀧家の家系図に関しては、若干不明なところも含まれているかもしれません。
別府城の戦い(1)
話の都合で、別府を取りまく播磨の戦国時代のようすを紹介しましょう。
時代は、秀吉・信長の時代の別府城の件です。
天正六年(1578)二月、三木の別所長治(ながはる)は、中国の毛利と呼応して、織田信長に反旗をひるがえしました。
三木城の守りは固かたく、そのため秀吉は、三木側に味方する周辺の城を先に落とす作戦を取りました。
毛利方は、三木に援軍・食料を送らねばなりません。
天正六年四月、毛利軍は三木方(別所方)の別府城を襲いました。説明が必要です。
別府あたりは海岸線が単調ながら、別府あたりでわずかに小湾をなし、船泊まりができ、戦国時代のころでは単にこの小湾を、「べふ」と土地では呼んでいました。
三木城主・長治の父の別所安治(やすはる)は、若干39歳で病没しました。その時、長治はまだ12才でした。
三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治の後見することになったのですが、後に、三男・重棟は信長に近づき毛利に味方した賀相と袂を分かちました。
・・・そして、重棟は別府城の加古氏を追い出し、別府城を信長方の拠点にしました。
加古氏(瀧家の先祖)は、この時対抗する勢力がなく四方に散ったといいます。(no3353)
*『播磨灘物語(司馬遼太郎著)』参照 写真:小松原城郭集落図
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