瓢水の母、参(さん)
記事は少し、前回と重なります。
瀧家の初代は、滝野から別府に入った瀧元春です。第二代は清春(瓢水の祖父)で、三代は瓢水の父仲春です。
仲春は、瓢水が8歳の時なくなりました。
前号で紹介した別府町の宝蔵寺の本堂の前にある一対の石灯籠は瓢水の父・仲春の菩提を弔うためのものです。
瓢水は、幼くして家督を継ぎました。
そのため、後見は祖父が、家業は人にまかせ、そして教育は母の参(さん)が当たりました。
瓢水の母・参について、少し紹介おきます。
参は、三木の福田義秋の娘です。
余話:近藤亀蔵
以下は余話で、小野藩の豪商・近藤家の話です。
江戸時代、小野藩(一柳藩)に、日本一の豪商と言われた近藤家がありました。
当主は、近藤亀蔵で、瓢水の母・参の実家の分家でした。
別府の金沢新田を開いたのは金沢九郎兵衛で、九郎兵衛は近藤家の番頭で金沢新田開発には資金面で援助をしています。
*加古川市金沢町は、この金沢九郎兵衛の名前から名づけられています。
何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大イにはやりましたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産40万両で、西は播磨の近藤、60万両で、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられました。
寛政元年(1789)、わずか9歳で先代の跡を継いだ近藤亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走しました。
特に、回漕業(海運業)を手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをしました。
小野市の黍田(きびた)と対岸の市場をつなぐ万歳橋の左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷がありました。
天保の川筋一揆で農民の恨みの対象になり、近藤家は破壊され、跡は全く残っていません。
のち、勤皇・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていましたが、倒幕派(勤皇派)の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助をしていました。
長州藩との関係は、近藤家が兵庫~下関間の回漕業(海運業)を経営していたことから生じたようです。
元治元年(1864)と慶応元年(1865)の二度にわたり、幕府が長州藩を封鎖したときには、その物資輸送を助けており、長州藩士、伊藤俊介(博文)なども長く近藤文蔵の本宅(市場町)に潜伏していたことがあります。(no3356)
*地図:金沢新田(加古川市金沢町は、この金沢九郎兵衛の名前から名づけられています)
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