瀧家は、滝野(現加東市)から別府へ
三木合戦のはなしです。
広く知られているように三木城主・別所長治(ながはる)は籠城し、秀吉の攻撃を防いだのですが、外からの援助もなく、特に兵糧がなくなり、天正8年(1580)1月、長治は秀吉に降伏を申し出、自害しました。
家臣たちは、許されて、それぞれの縁故を頼り離散していきました。
その後、秀吉は、同年4月に播磨の国内の9城の破壊を命じました。
別府城は、秀吉の家臣・津田小八郎によって、徹底的に破壊され、その姿を消しました。残念なことに、記録も残っていません。
現在、別府城の場所があった場所についても、はっきりとしていません。
候補地が4か所ほどあげられていますが、東町・元町・西町の付近と推測します。
理由は、以下のように推測したからです。
瀧家は、別府城跡か?
瀧家の兄弟は、三木城落城後、旧地の滝野に帰りましたが、次の代に滝野を離れて別府に居を構えました。
別府瀧家の初代は、この時、滝野から別府に転居した瀧新右衛門元春(以下、元春)です。
二代・瀧與一右衛門清春(以下、清春)、そして瓢水の父三代・瀧新右衛門仲春(以下、仲春)と続きます。
父仲春は、瓢水が8歳の時なくなりました。
瓢水は、若くして、瀧家の4代目を継ぐことになりました。
瀧家は、滝野を後にして別府に転居した場所は、先に紹介したように現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂のあたりです。
瀧家は、ご先祖が城主をであった別府城跡に居を構えたのではないでしょうか。
史料により確かめられていませんが、ここが別府城の場所と考えるのですが、どうでしょう?(no3355)
*写真:瀧家の菩提寺(宝蔵寺)にある父・仲春の二基の石灯籠(この石灯籠についての詳細は、後日紹介します)
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