ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

成相ダムとセット…北富士ダム

2023-02-13 06:57:14 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市八木馬回(やぎうままわり)にある三原川水系の北富士(きたふじ)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「鳥井」信号を成相寺方面へ曲がり、道なりに進んでいきます。最初の一時停止を左折し、しばらく行くと北富士ダムの表示の案内があるので左に曲がって行くと目的地に到着します(そのまま道なりに進むと成相ダムに行ってしまうので注意)。

先にダム下へ行ってみます。「ご尊顔」がこちら。成相ダムに比べシンプルな印象ですね。


左岸のダム横へ向かいます。すると、こんな風に見えてきます。


左岸のダム横に到着。

傍には「北富士ダム」と表示された石碑があります。2002年11月竣工。成相ダムの記事に書きましたが、北富士ダムは成相ダムとセットで着工、竣工したダムです。両者のフォルムが違うので、いわば二卵性双生児といったところでしょうか。


左岸のダム横の道を貯水側に進んだところにあるのが「兵庫県洲本土木事務所 北富士ダム管理所」の建物。狭いスペースを利用して建てられた、これまたシンプルなデザイン。1998年9月定礎。




そこからダムはこんな風に見えます。


では、ダム上を歩いてみましょう。中央から見た貯水側の景色はこんな感じ。


一方、ダムの真下を覗き込むと…。

そして、下流側の遠景。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。欄干の手すりにちょっとしたアクセントが感じられますね。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側から見ると…。


成相ダムとは同時期に着工・竣工したので二卵性双生児と書きましたが、こうして見るとカネのかけ方が違うのがわかります。北富士ダムのほうは予算がなかったんですかね。デザイナーも違うんじゃないでしょうか。ま、シンプルなりの美しさはあってそれはそれで良いと思いますが。

これで淡路島にあるダム及びそれに類する水施設は制覇しました。さて、次はどこへ行こうか。
コメント

歴史的価値あり!…旧成相池堰堤

2023-02-12 07:02:36 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。前回成相ダムを眺めた時に上流に何か見えたので今回はそこへ行ってみることにします。

おー、これですな。なんでしょうか。


上流側から見た様子。味のあるダムですね。


その付近から下流方向を眺めると成相ダムが見えます。(ちょっとズームしてますが)


このダム、道から少し下にあるので行ってみます。おー、このアングルも良いねえ。


そこには案内板が。三原川水系の「旧成相池堰堤」らしい。住所は兵庫県南あわじ市八木馬回(やぎうままわり)。

これは渇水時における下流域の水不足対策として1929年に計画され、1937年に着工。そして1950年に完成した粗石モルタル造りの重力式ダムだそうです。その後1999年、下流に成相ダムが築造されたためこの堰堤は役割を終えることになりますが、先人の苦労や熱意を後世に伝えるため湖中にそのまま保全されることになったとか。


農業用のダムではありながらその歴史的建造物は高く評価され、2021年には土木学会選奨土木遺産に認定されました。



で、ダム上を歩いてみようと思いましたが、フェンスに阻まれて行けず…。ふと、対岸に石碑のようなものが見えたので向かいました。


対岸のダム横に到着。篆書で「成相池之碑」と書かれています。その内容は右岸の案内板の記述の詳細で、下に転記しておきますので興味のある方はお読みください。


「池は諭鶴羽山脈の横谷成相渓に在り因って名つく昭和四年七月八木村成相耕地整理組合の設立と共に計画せられ同十二年四月起工二十五年三月完成す此間実に十有三箇年の久しき或は水利の調停資金の調達に或は世界大戦に伴ふ財界の変動労力資材の缼之等により幾度か共進行き沮まれしか幸に昭和二十二年十月県営に移され漸く組合長以下組合員積年の宿望達せられて遂に其竣功を見る池は直線式重力堰堤にして堤長百十三米高三十三米体積二萬八千立米に及び満水面積八町歩中央余水吐幅員五米七連を有し承水面積五百五町歩貯水量九十二萬一千立米を算し主として村の中央に灌漑す其支配面積三百有六町歩内新開田六十八町歩に達す又池と共に用水路を改修し一度樋を放てば忽ちにして全地域に奔流し茲に旱荒の憂を絶ち其増産米穀毎年数千石の多きに及び食糧の緩和に資する所大なるものあり嗚呼累々たる堤石は渓谷に聳えて●目構築の労を語り満々たる池水は●●の影を宿して往年桔槹の苦を嗤ふ冀くは後人よく先覚努力の跡を憶ふて永く殖産に其志を継がむことを
 昭和二十五年四月一日
 成相耕地整理組合長●英之助題 顧問河瀬脩二撰弁書」

左岸、上流側から見た堰堤の様子。


同、下流側からはこんな感じ。うーん、見れば見るほど味わいのある形ですねえ。


構造は現代のダムのほうが耐久性に優れているのかもしれません。でも、そのフォルムは昔のダムのほうが味があって、オリジナリティに富んでいるように思います。この先、何十年後、現代のダムは果たしてどれだけ土木遺産に認定されるんでしょうね。ちょっと興味があります。

ま、その頃ワシはおらんか…。残念!
コメント

北富士ダムとセット!…成相ダム

2023-02-11 06:57:31 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市八木馬回(やぎうままわり)にある三原川水系の成相(なりあい)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「鳥井」信号を成相寺方面へ。道なりに進み、最初の一時停止を左折。そのまま進んで行くと到着します。

右岸に到着しました。「横顔」はこんな感じで、


ダム下から見ると、ちょっとマントヒヒの顔のよう(笑)


ダム下の副ダムもなかなか立派。

違う角度からだとこんな感じ。


右岸、ダム横には「成相ダム」と記された石碑。2002年11月竣工。

その裏には築造の経緯が記されています。それによれば下流の三原平野は昔から氾濫と枯渇を繰り返してきたそうで、そこに住む人々に洪水と旱魃被害を与え続けていた。そこで、昭和54年の大水害を機に三原川総合開発計画が立てられ、その一環として成相川においては次回記事にする北富士ダムとともに昭和62年(1987年)に工事に着手。そして完成に至ったという。セットでのダム築造といえば数日前に記事にした大日ダムと牛内ダムもやはり三原川総合開発の一環として築造されたわけですが、こちらのほうが着手(1983年)も竣工(1999年3月)も早いんですね。


石碑の背後にあるのが「兵庫県洲本土木事務所 成相ダム管理所」。



そこから見たダムの様子。


これがダム上。歩いてみましょう。欄干にある「こんもり」は何かな?


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。

ん?上流に何かありますね。あとで行ってみましょう。


一方、ダム下はこんな感じ。

そして、下流側の遠景です。


ダム上のベンチ。単なる腰掛けでなく、高さの異なる石を並べているところにセンスを感じます。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側から見るとこんな感じです。


両岸の壁には大日ダムや牛内ダムと同じデザインのタイルが貼られています。オシャレ!


管理所のデザインは別にして、ダムのあちこちにセンスが垣間見えます。もしかして牛内ダムと同じデザイナーが担当したのかな? 知らんけど。

(お知らせ)
おっと、昨日記事にした「上田池」の写真で、載せるの忘れていたものがあるので再編集しました。「ご尊顔」もあるので興味のある方はコチラからご覧ください。
コメント

維持管理は大変!…上田池堰堤(ダム)

2023-02-10 07:02:19 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代社家(じんだいしゃけ)にある三原川水系の上田池(こうだいけ)を目指します。アクセスは国道28号の「立石」信号を南下し、しばらく進むと左側に上田(こうだ)八幡神社が見えてきます。それを過ぎて「←上田池」の看板のあるT字路を左折。そのあたりから道が狭くなってくるので要注意です。そのまま行くとダム横に到着します。

その前にダム下へ行ってみることにします。名称は池ですが、ご覧の通り立派なダムです!すげーでしょ?


ダム下には3つの石碑があります。向かって右のは不明ですが、

中央には「共栄●記念」と刻まれています。ま、これもよくわかりませんが。

左には「殉職碑」。ダム築造中に亡くなられた方を慰霊するものと思われます。


もうちょっとダムに近づいてみます。ダム上からの緩やかな傾斜がわかりますね。


上のアクセス通りに行くと右岸に到着しますが、ダム横は駐車スペースがないので少し離れた場所に停めます。そして右岸の貯水側からダムを見ると、こんな感じ。いや、もう、芸術ですやんか。


ダム横に近づきます。この石積みの工法、おそらく大正から昭和初期に築造されたダムに見られるものですね。


ダム横には案内板があります。この下流にあった旧三原町では上田池築造以前は農業用水を三原川から取水していましたが、水量が少なく人々は旱魃の被害に苦しめられていました。そこで大正4年(1915年)、ため池建設計画が持ち上がります。しかし第一次世界大戦による物価高騰やダム形式の検討に手間取り、着工まで数年を要することに。最終的にダム形式は農業用ダムとしては全国初の重力式粗石モルタル形式、高さは41.5mに決まったということです。


兵庫県のため池を示す看板。


これがダム上です。歩いてみましょう。良い感じの古さです。


中央から見た上田池の様子。


一方、41.5m下の景色。ひぃ〜、なかなかの高さです。

そして、下流側の遠景。


ダム上、中央にはこれまた古めかしい建物?が…。


その壁には諸元を記したプレートが嵌め込まれています。これによると起工は大正15年(1926年)1月5日で、竣工は昭和7年(1932年)4月3日とあります。

その下にもプレート。2008年の土木学会選奨土木遺産では「上田池堰堤」として認定されています。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸から見た様子をご覧ください。なんとも歴史を感じさせますね。


左岸に来てビックリ。なんとそこには上田池の築造の経緯と改修の詳細な記録が残されているのです!年代順に見ていきます。

まずは「上田池碑」と題された石碑。


こんなことが記されています。転記すると…

「池は上田河内の渓谷に有り因て名く神代市榎列三箇村耕地整理組合の経営に属す大正15年1月5日工(事)を起し昭和7年4月3日竣成す堰堤高136尺延長72間敷幅120尺天幅14尺体積6千立坪を有する粗石モルタル積石堰堤にして満水面積11町5●歩水深118尺優に20有4万立坪の水を蓄う而して用水路幹線延4110間一大動脈を形成し●十條の支線之より分岐す総て石造又は混凝土(コンクリート)溝にして一度樋を放てば数十分間を出でずして忽ち里餘を奔流し萬頃に灌く地区総面積565町歩内開田136町歩往年旱害の地為に其憂を絶ち瘠土一朝にして膏田と化し穣々佳禾を生ず溜池竝に水路工事は総て組合の直営に就り労役延人員20有5萬工費総額80萬円に及ぶ葢し地方稀に見る農業土水事業にして常時農村失業者の救済も亦之に依て達せらる夫れ組合の地区たるや三原川左岸高地に存し古来水利に乏しく灌漑用水は概ね之で地下水に需むるも炎●句餘に及べば忽ち枯渇し秋禾実らず地力●耗耕作を遺棄する者年と共に多し茲を以て築池の議提唱一再にして止まらずと雖も未だ其機到らず浩歎之を久うす會食糧自給の聲上下に囂しく延て開墾助成法の発布を見るに及び即ち同志相謀り歳餘を費して議を纏め大正11年7月28日始めて組合の設立を見爾来幾多の日子を重ね設計を周にし低資を仰ぎ大小水利問題の解決を遂げ多大の困難を排して其竣功を見るに至る葢し組合員和衷協同戮力一致の賜たらすんばあらず冀(こいねが)くは後世其恵沢に浴する者永へに先人の遺業を追憶し其労を空うせさらむことを
  昭和7年4月 貴族院議員從四位勲三等永田秀次郎●●撰  正八位勲六等河瀬脩二謹書」

「用水路改修記念」と題された石碑。

その裏には次のようなことが記されています。

「昭和7年(1932年)上田池の竣工とともに用水路を新設。榎列(えなみ)、市、神代三地区の開田補水田300余町歩の良田に灌漑を始めた。その後、年を経るとともに施設の老朽化が現れ、昭和36年(1961年)より用水路全面改修工事を計画実施し財政難の折柄役職員組合員一致協力幾多の困難を乗り越えてこれを遂行し現在に至る。」


「樋門改修記念」の碑。昭和61年(1986年)秋、突如樋門から2,500トン余りの漏水を確認。こりゃ大変だということで、早速調査を行ない、翌年3月に第二樋門操作弁の改修を行なう。平成元年(1989年)には第一、三、四樋門の操作弁の改修と第四樋門取水管防銹工事を実施。平成2年(1990年)には堤体漏水防水工事、平成3年(1991年)には樋門取水管内外共防銹工事などや水位計新設に伴う電気設備を設置。いやいや、大変な工事です。


改修工事はさらに続きます。平成24年(2012年)からは毎年樋門の改修工事が実施され、平成28年(2016年)3月に竣工したとあります。


いや〜、こうしてみると施設の維持管理は大変なことがわかりますね。右岸の案内板だけではわからない「見えない苦労」が左岸の碑文から読み取ることができます。

最後にもう一度「ご尊顔」をどうぞ。うんうん、格好良い!
コメント

ダムに匹敵!…越良池

2023-02-09 07:08:28 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代國衙(じんだいこくが)にある大日川水系の越良池(こえらいけ)を目指します。ここはダム便覧には載っていませんが、兵庫県のため池データベースによると高さが15.8mでダムの条件を満たしているので行ってみることにしました。アクセスは国道28号の「三条」信号を「松本サッシセンター」方面へ曲がり、最初の「止まれ」表示のある交差点を右折。オニオンロードを進み、2つ目のT字路を入って行くと目的地に到着します。

あれのようですね。到着までもう少し。


右岸に到着です。立派なダムですよ、これは。


兵庫県のため池を示す看板。


右岸のダム横には「大成越良池」と記された石碑。

その裏側の上段には越良池の沿革が記されています。写真を撮り忘れたのでその内容を転記します。

「昔この池、越良の谷に徳川末期築造されたと伝わる口の池、中の池、奥の池の三つがあって旧田主が水利権を持って稲作をしていました。
 明治四十三年に戌申請書が発布されました。これに応じて元来畑地帯で水の乏しかった喜来、黒道、篭池、国衙の城家、国上部落の農民が発奮して開田作業を成すと共に水利の必要から喜来部落 正木正巳、城家部落 鳥井嘉平の両氏が中心となり、旧田主の口の池を買収併合して、今までより大きな新池の築造にかかることに衆議が一致し、新旧田主合同で工事をすることになりました。田主人は自己の水掛り面積に応じ、四百五十株を出資して山を買取り田主役として出役し、明治四十三年翌四十四年の二ヶ年で貯水量十万トンの越良新池を築造しました。当時の田主人は新旧あわせ百五名で、受益面積は、旧田主の開田済十町歩、新田主の開田である神稲十七町五反歩、国衙十七町五反歩の合計四十五町歩でした。
 大正時代に入っても、谷が浅いために水量が乏しく予定の貯水量がないため、毎年のように灌漑に苦心しました。
昭和七年翌八年に堤体下部内面百メートルにわたり刃金土の土羽補強修理工事を施行しました。昭和二十九年当時の水利総代 神稲 田村佐一郎氏、国衙 久井芳郎氏、会計 中尾英一氏等が発起人となり耕地整理組合を創設し、補助を得て市村 早瀬和一氏の監督により堤体中心部百メートル、深さ六メートル幅員二メートルの立ち刃金を入れる漏水防止工事を昭和三十年に行いました。
 昭和五十九年桶管付近に穴があき小修理をしましたが、漏水止まらず翌昭和六十年再び陥没、大修理をしました。しかし、漏水甚だしく昭和六十年総会の議決により、ため池等整備事業(大規模)の申請をし、認可を得て工事に入り、兵庫県洲本土地改良事務所のご指導並びに三原町のご協力のもとに工事請負人株式会社榎本組の施工によって昭和六十一年から平成六年度の九年間にわたる工事が完了しました。ここにその大略を記し竣工記念と致します。」

要するにこの地域では水が乏しかったため、明治44年(1911年)に越良新池なるものを築造。しかし水量は相変わらず乏しく、それに加えて度々漏水しては修理するといったトラブルが頻発したため、昭和60年(1985年)にため池等整備事業(大規模)を申請。認可を得て翌61年(1986年)から工事に着工。そして平成7年(1995年)3月に完成したというわけです。

裏面下部には諸元が記されています。


では、ダム上を歩いてみましょう。


中央から見た越良池の様子。


下流側の景色。実に見晴らしが良いですね。


左岸側には越流式の洪水吐があります。


左岸に来ました。振り返ると、こんな感じ。写真の手すりの下が洪水吐からの水路で、


そこから見た洪水吐の様子。そして増水すると水はここから溢れ出て、

あちらへ流れてゆきます。


ため池とはいえ、沿革や諸元もきちんと記されているので見学者にとってはとても有用です。
コメント

義憤の石!…諭鶴羽ダム

2023-02-08 15:00:39 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代浦壁(じんだいうらかべ)にある三原川水系の諭鶴羽(ゆづるは)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「円行寺(えんぎょうじ)」信号を浦壁方面へ曲がり、県道535号を道なりに進んで行くと到着します。

まずは左岸から見たダムをご覧ください。


では、順を追って見ていきます。県道535号を進んでくるとダムの右岸に到着します。ダムの手前に諭鶴羽ダムの管理所があるんですが、そこから見たダムの様子がこちら。


貯水側から見た諭鶴羽ダム管理所の建物。



先に右岸をあちこち見てまわります。まず目にするのが「諭鶴羽ダム周辺案内図」。ダム湖名は「ゆずるは湖」というんですね。高さは43.9m。


上のリンク先の概要に書かれているように、諭鶴羽ダムは昭和40年(1965年)に来襲した台風23、24号によって三原川沿川に多大な被害が発生したことがきっかけで治水ダムの築造計画が始まりました。そしてしばらくはバルブによる洪水調節を行なっていましたが、平成16年(2004年)からはダム管理の省力化と確実な洪水調節のために自然調節式のダムにシフトしています。

「諭鶴羽ダム」と刻まれた石碑。

その裏には諸元が記されています。竣工年月日は1974年5月29日。なお、「位置」が「兵庫県三原郡三原町神代浦壁」とありますが、三原郡三原町(みはらちょう)は2005年1月11日までの地名で同日に三原郡の他の三町、すなわち緑町(みどりちょう)、西淡町(せいだんちょう)、南淡町(なんだんちょう)と合併して南あわじ市が誕生したので三原郡は消滅しました。上の案内図の「位置」には南あわじ市と記されているので、この案内図は南あわじ市になってから設置されたことがわかります。


そこから見たダムの様子。


おっ、出ました!兵庫県の県営ダムにみられるロボット型のタイムカプセル。

この中にはダム建設に関する資料が収められています。この記述ではダム完成は昭和50年(1975年)3月になっていますが、上の石碑の竣工年月日と異なりますね。これはダム全体の完成を指すのでしょうか…。


その隣には諭鶴羽湖の案内板。湖名はダムの南東にある諭鶴羽山(ゆずるはさん:標高608m)に由来。その頂上には諭鶴羽神社があり、開化天皇の時代に創建されたという。山の名称は天竺の摩迦陀神が鶴に乗って熊野に向かう途中、この山頂で羽を休めたことに由来するという。摩迦陀(まがだ:摩訶陀、摩伽陀とも書く)はインドのガンジス川中流域(現在のビハール州南部)の古称なので、そこの神様が鶴に乗ってはるばる海を渡って紀伊半島の熊野へ向かう途中、ここに立ち寄ったということなんでしょうね。でも地理的にみて何もここで羽を休めずに一気に熊野に行っても良いような気がするんですが、鶴に根性がなかったんでしょうか。

山の名称については別の説もあるようです。つまりこの山には「ユズリハ」と呼ばれる木が自生していて、新芽が出て葉になると古い葉が落ちて代が変わるところから新年に飾られるものだそうで、それが山名になったというもの。ふ〜ん。


では、いよいよダム上を歩いてみることにしましょう。ご覧の通り車両がすれ違えるほどの幅があります。


ダム上、中央から見た諭鶴羽湖の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。

そして下流側の景色。


対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


左岸、諭鶴羽湖側から見たダムの様子。


その近くには2つの岩が無造作に置かれています。

これらは「担い石」と言います。これはいわゆる有名な「曽我兄弟の仇討ち」に関係するもの。事の発端は1176年10月、兄弟の実父で、伊豆国の豪族である河津祐泰(かわづすけやす:1146-1176)が伊豆国奥野の狩庭で御家人の工藤祐経(くどうすけつね:1147-1193)の郎従に暗殺されます。

これを受けて、実子の十郎祐成(じゅうろうすけなり:1172-1193)は父の仇を討つ決意をします(十郎が曽我姓なのは彼の母が御家人の曽我祐信[そがすけのぶ]と再婚したため)。そして親類である浦壁城主の元で武術に励んでいました。そして大願成就のため諭鶴羽神社へ日参。その満願日に神様からのお告げが…。「そなたの健気な心を聞き届けよう。境内の二つの大石を担って山から下りられるか力を試されよ。必ず成就するぞよ」と。これを聞いた十郎は喜び、すぐに大石を担いで急坂を下山したという。その後弟の五郎時致(ごろうときむね:1174-1194)とともに1193年6月28日、駿河国富士野で父の仇である工藤祐経の殺害に成功したというお話。ただ、悲しいことに兄弟はすぐに斬首されてしまうのですが…。



左岸には「諭鶴羽古道」の入口があります。神社までは山頂経由で3.4kmもあるので、もちろん行きませんでしたが。


淡路島に来て、まさか曽我兄弟に関するものを見るとは思いませんでした。でも学んだ〜。
コメント

設計センスの良さ!…牛内ダム

2023-02-07 14:38:27 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市賀集牛内(かしゅううしうち)にある三原川水系の牛内ダムを目指します。アクセスは国道28号の「国衙(こくが)」信号を南下し、最初の信号を左折。そして突き当たりまで行って右折します。オニオンロードを少し行きイノシシマークの「飛び出し注意」看板のあるところを左へ入り、そのまま道なりに進んで行くと目的地の左岸に到着します。

…てなわけで、左岸にやって来ました。治水ダムのようです。


牛内ダムの案内図。


左岸にある展望広場。

このモニュメントは何を表現しているんでしょうね。タイトルと作者は不明。


そこから見たダムの様子。


眼下には展望テラスがあります。う〜ん、なんかデザイナーのセンスを感じさせますね。


左岸、ダム横には「牛内ダム」と刻まれた石碑。1999年3月竣工とあります。

その裏には牛内ダム築造の経緯が記されています。おや? この文章、見た覚えが…。そうです、最初の2つの段落は一昨日記事にした大日ダムに置かれている石碑と全く同じでした。


なんだ?パクリか? いやいや、そうじゃありません。実は石碑にもあるように昭和54年(1979年)に発生した大水害を機に三原川総合開発が始まり、その一環として昭和58年(1983年)に大日ダムと同時にこの牛内ダムも工事に着手、そして竣工。2つのダムの一体化工事により下流の三原平野の水害を防ぐ役割を果たすことになったというわけです。だから碑文の文言も共通しているんですね。なお、2つのダムは放水トンネルで繋がっていて、増水時にはこのトンネルで分水して貯留することで洪水になるのを未然に防ぐのだとか。ほぉ〜。

左岸には「牛内ダム管理所」があり、


1994年9月竣工。オシャレなデザインは兵庫県の都市住宅部が設計したからなのでしょう。


そこからダムを見ると、こんな感じ。


では、ダム上を歩いてみることにしましょう。


ダム本体の欄干には南あわじ市の花「ニホンスイセン」のレリーフ。これは大日ダムにもありましたね。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。


ダムの真下はこんな感じで、

下流側を眺めるとこんな景色です。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


同、下流側からダムを見ると、こんな感じ。


両岸の側壁のタイル。これは大日ダムでも同じものが貼られていましたが、やはりオシャレ。


同じ時期に築造された大日ダムと見比べても、この牛内ダムはトータル的にオシャレなデザインがされていると思います。デザイナーのセンスかなぁ。
コメント

美女池とともに…大日川ダム

2023-02-06 16:31:05 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市北阿万新田北(きたあましんでんきた)にある三原川水系の大日川(だいにちがわ)ダムを訪れます。アクセスは昨日記事にした大日ダムの上流にあり、右岸・左岸どちらからも遡って行くと到着します(大日ダムまでのアクセスは昨日の記事をご覧ください)。

まずは「ご尊顔」をご覧ください。形状からすると治水ダムのようです。


昨日書いた左岸横の水路が気になったので、それを遡りながら上流へ向かいます。


すると大日川ダムのダム下に続いていることが判明。つまり当然っちゃあ当然ですが、大日川ダムの水の一部が大日川とは別にこの水路に流れていたわけです。


そこからダムを見上げてみます。おお〜っ。


続いて右岸のダム横に向かいます。これがダム上。

ダム本体に貼られた「大日川ダム」のプレート。このブルーのプレートがあるということはこの築造物がダムというよりもため池的な意味合いが強いことを示すようです。ちなみに兵庫県のため池データベースによると、このダムの高さは43.5m、長さは178mと記されています。

昭和39年(1964年)8月竣工とあるので、下流の大日ダム(1999年3月竣工)よりも前に築造されたことがわかりますね。貯水量を示すディジタル表示はもちろん後付けでしょうが、なんかオシャレ。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


ダム上を歩いてみます。中央から見た貯水側はこんな感じ。


ダムの真下を見下ろして、

下流側を眺めます。


対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


左岸のちょっと高い場所からの景色。ダム上の建物のところに軽自動車が止まっていますが、その所有者は可愛らしいお嬢さん。おもむろに建物の鍵を開けて入った後、しばらくして出てきました。県の職員かな?貯水量のチェックがルーティーン・ワークなのかもしれません。お疲れ様です。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


右岸に戻り、さらに上流へ。


しばらく行ったところに石碑が…。

上部に「竣工記念碑」と記されていますが、下に記されている文言は半分以上が風化していて読めず。


さらに進んで行くと堤がパーテーションのように仕切られていて、道路沿いには「美女池」の表示。

堤はこんな感じですが、

堤の中央にある「これ」が気になります。


これが美女池で、


増水すると水はここから大日川ダムへ流れていくようです。


美女池とはなんぞや? そう思いながらさらに上流へ進むと、案内板がありました。それによると、ある夏の朝、地元の農民が山へ行く途中この池にさしかかると霧が立ち込めていたそうな。それがあまりに美しく眺めていると水の中から美しい女性が出現。驚いて山へ行くのも忘れて家に戻りそのことを近所の人たちに語りました。それを聞いた若者たちが池に向かうも誰もおらず、やがてその噂は忘れられていきました。再び夏が来て村の庄屋がお供とともに池にやってくると生臭い風とともに霧の中から池に美女が立っているのを目にします。村に戻り、彼は村人たちにそのことを話すと皆あの噂は本当だったんだと信じ、いつしかこの池を「美女池」と呼ぶようになったとか。一体美女は誰なのか?ある坊さんは大蛇の化身ではないかという。大蛇は川で100年、池で100年、そして海で100年修行を積んだ後天に昇る力を得るそうな。だから淡路島の南端の潮崎にいた大蛇がこの池に来て退屈だったので人間を驚かしたのだろうと。その昔、この池には洞窟があり、それが潮崎まで繋がっていると信じられていたので坊さんの説は人々を納得させたのでしょうね。でもこの池から潮崎まではかなり距離があり、実際には繋がっていないはず。とすれば、この坊主、とんでもない嘘つきということになります。


それにしても美女は誰だったんでしょうね。かつて身投げした成仏していない霊? いやいや、それだとロマンがありませんな。
コメント

三原平野の守護神!…大日ダム

2023-02-05 07:00:35 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市北阿万新田北(きたあましんでん きた)にある三原川水系の大日(だいにち)ダムを目指します。アクセスは国道28号の「国衙(こくが)」信号を「南あわじ市休日応急診療所」方面へ曲がり、道なりに進んで「衣料センターひがしら」のところのT字路を左折。そのまま進んで行くと大日ダムが見えてくるので直進すればダム下、そして手前のカーブミラーがあるT字路を右折して行くと左岸のダム横に到着します。

まず、ダム下へ行って「ご尊顔」を拝みました。治水ダムのようです。


次に左岸のダム横に向かいます。横長のダムであるのがわかりますね。


左岸、貯水側からダムを見るとこんな感じ。


左岸のダム横にはこんな水路があり、滔々と水が流れています。

そしてこれは上流から繋がっているようです。一体これはなんだろうとその時は思いました。その答えは次回記事にする大日川ダムで明らかになります。


これが左岸から見たダム上。行ってみましょう。車両通行可。


ダム本体には様々なイラストが所々に見受けられます。「うずしお(渦潮)」は言うまでもなく鳴門岬の先にある鳴門の渦潮のこと。ちなみに鳴門岬の手前には「道の駅うずしお」があります。

こちらは「淡路人形浄瑠璃」を描いたもの。淡路人形浄瑠璃は室町時代末に百太夫という人形遣いがこの地に人形の操り方を教えたのが最初で、江戸時代になると阿波藩主の蜂須賀氏の支援を受けて享保(1716-1736)・元文(1736-1741)年間に最も栄えたそうです。淡路人形浄瑠璃は明治時代になって次第に衰退し存続が危ぶまれましたが、1964年に伝統芸能を守る目的で「淡路人形座」が設立され、多くの演目が上演されています。また、1976年、同浄瑠璃は国指定重要無形民俗文化財に指定されました。

こちらは南あわじ市の花「ニホンスイセン」のイラスト。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。この上流に大日川ダムがあります。


一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側はとにかく良い眺め。


対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


右岸には「大日ダム」と記されたプレートが嵌め込まれた石碑があります。1999年3月竣工。

その裏には築造の経緯が記されています。それによると下流の三原平野は古来より渇水と氾濫を繰り返しており、これらの被害をなくすことが長年の人々の願いだったそうです。昭和54年(1979年)の大水害をきっかけに三原川総合開発計画が持ち上がり、その一環として大日ダムの築造が昭和58年(1983年)に着手されたとあります。


その石碑近くから見たダムの様子。


ダム本体にひっそりと置かれた「大日ダム 定礎」の石碑。1995年11月。


右岸には大日ダム管理所があります。



そこからダムはこんな風に見えます。


大日ダムは上に書いたように下流における渇水と氾濫を防止する目的で築造され、兵庫県としてはため池でなくダムとしての位置付けのようです。というのも兵庫県のため池に掲示されるあのブルーの看板がないから。この上流には大日川ダムがありますが、そこにはブルーの看板があるんですよ。詳しくは次回の記事で紹介します。
コメント

ダムでいいじゃん…稲田新池

2023-02-04 06:56:12 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市北阿万稲田南(きたあまいなだみなみ)にある本庄川水系の稲田新池(いなだしんいけ)を目指します。ここはダム便覧には乗っていないため池なんですが、兵庫県のため池データベースによると高さが15.6mでダムの条件を満たしているので行ってみることにしたんです。

まずは右岸から見た様子をご覧ください。なかなか立派なため池です。


…と、結果的には辿り着いたものの、最初は行けないんじゃないかと半ば諦めました。というのも、最初は目的地が下流側から見えたのでこのままアクセスすれば行けるなと思ったのです。(写真中央の右に見えるのが目的地)


ところが、このまま進んで行くとですね、なんとフェンスがあって行けないことがわかりました。目的地のため池はすぐそこなのに…。いや〜、困った。さて、どーする。

改めて地図を見ると別のルートからアクセスできそうなことが判明。つまりフェンスの向こうにある道が別のところから繋がっていることがわかったんです。それがどこからかは文字で説明するのが難しいので地図を載せておきます。目的地は写真中央の「➕」で、ワシが最初アクセスしたのは白草池の下側の道でした。でも、このルートがダメなので地図を見直したところ、大日ダムへ向かう手前のところから入って行くと稲田新池に辿り着くことができることがわかったというわけ。


こうして未舗装の道を進んで行くとなんとか稲田新池の右岸に到着。やれやれです。これがいわゆるダム上になります。


早速ダム上を歩いてみました。中央から見た貯水側の景色はこんな感じ。


一方、下流側はこんな景色です。写真右端に見えるのが白草池。


対岸(左岸)には兵庫県のため池を示す看板があります。


左岸からダム上を見るとこんな感じ。


左岸、貯水側から見た様子。


左岸には洪水吐があります。越流式です。

違う角度から見るとこんな感じ。


いや〜、見ることができて良かった。満足、満足。
コメント

紛らわしい記載…本庄川ダム

2023-02-03 06:59:13 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市阿万上町(あまかみまち)にある本庄川(ほんじょうがわ)水系の本庄川ダムを目指します。アクセスは県道76号の「阿万上町」信号を東方向へ曲がり、そのまま進んでいくと交差点の先に「本庄川ダム 3km」の看板が出てきます。その先の二又に分かれる道を右方向に進み、そのまま行くと目的地に到着します。

まずはダム下から見た「ご尊顔」をどーぞ。


上に示したアクセスルートで来るとダムの右岸に辿り着きます。貯水側から見たダムはこんな感じ。


これがダム上。歩いてみましょう(車両通行可)。写真は逆光で暗く見えますが、実際には明るいんですよ。


ダム上、中央から見た貯水湖の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。

そして、下流側の遠景。


対岸(左岸)に来ました。振り返ると、こんな感じです。


左岸、下流側から見たダムの様子。


左岸にある案内板。洪水調節、灌漑用水、水道用水の供給を目的とした高さ47.65mの直線式重力コンクリートダムで、平成元年度に着工し、平成10年度に完成したと記されています。


そこから見たダムの様子。


すぐそばには「本庄川ダム 天水豊穣」と刻まれた石碑。その出典は不明。

裏側には「記念碑建立趣意書」が書かれており、阿万地域では古くから水不足や災害が頻発していたため、農林水産省の補助事業としてこのダムを築造したそうな。なお、「施工期間」がここでは昭和60年(1985年)度に開始とあり、上に示した案内板と違っています。あれれ、これはどういうことなんでしょうか。もしかするとダム建設についての基礎調査が施工期間の始まりで、ダム本体の工事着手が1989年なのかもしれませんね。


左岸には「本庄川ダム管理所」があります。おそらくダムの竣工と同時期に建設されたものなのでしょうが、その割に新しく見えますね。


施工期間のズレが気になったので調べてみました(参考)。すると昭和53年(1978年)に本庄川ダム建設促進委員会が結成されていて、昭和60年に防災ダム事業、県営灌漑排水事業が確定されています。石碑で示されているのはここからが施工期間の始まりのようです。そして案内板で示された平成元年度着工という記載は翌2年(1990年)3月にダム建設工事契約が締結されているのでこれをもって着工としているようです。「年度」の考え方は4月から翌年の3月なので「平成元年度着工」という記述は確かに間違いではないんですけど、なんか紛らわしいですよね。いずれにしても施工の開始と着工の時期が異なるのは見学者の頭を混乱させかねません。もっとも、一般の見学者はそんな細かいことは気にならないかもしれませんが。
コメント

防災ダム…柿ノ木谷池

2023-02-02 06:57:43 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市湊里(みなとさと)にある三原川水系の柿ノ木谷池(かきのきたにいけ)を目指します。アクセスは県道25号の「湊小学校下」信号の交差点を山の方へ曲がり、そのまま道なりに進んでいくと到着します。

まずは左岸の高台から見た全貌をご覧ください。池ではありますが、立派なダムを備えています。


では、順を追って見ていきます。左岸の道を登ってくるとダムの手前にこんな石碑があります。防災ダムなんですね。

その裏には概要が書かれています。高さ25.1mの重力式コンクリートダムで、ダム便覧によると柿ノ木谷池は昔からあったようですが、石碑には平成6年(1994年)に防災ダムとして工事を着工し、平成20年(2008年)に竣工したとあります。


そこからダムを見ると、こんな感じ。


左岸、貯水側から見たダムの様子。


左岸、ダム横に表示された看板。兵庫県独自のため池の看板ですが、ダム便覧の表記では「かきのきだにいけ」となっています。もぉ〜、ちゃんと現場の表記に従わないといかんでしょ。


ダム本体に嵌め込まれたプレート。2005年3月と書かれていますが、これはダム本体コンクリート部分の工事が完了したことを意味するのかな?


これがダム上。歩いてみましょう。


誰が描いたんでしょうね。地元の子供かな?ちなみにストリートビューで見ると2022年2月の時点では描かれていません。ということは描かれたのはそれ以後ということになりますね。


ダム上、中央にある取水設備の建物の壁に貼られたプレート。完成年月が2006年3月なのでダム本体が完成した後に設置されたものと考えられます。


ダム上、中央から見た柿ノ木谷池の様子。


一方、ダムの真下はこんな感じ。

そして、下流側の遠景。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


右岸、貯水側から見た様子。


同、下流側からダムを見るとこんな感じです。


ついでに下流側から見た「ご尊顔」もどうぞ。


ダム築造の経緯がわからなかったので調べてみました。どうやら柿ノ木谷池の老朽化が進んだため、その改修に併せて洪水調節機能を備えた防災ダムを築造することになったようです。上に見た石碑では平成6年に着手したとありますが、地質調査の結果基礎地盤の状況が悪かったり用地交渉が難航するなど問題を抱えていたため実際に本体工事に着手したのは平成14年(2002年)12月19日でした。(参考

以上のことを時系列でまとめると次のようになります。
1994年:地質調査開始するも問題が発生し計画が遅延
2002年:本体工事に着手
2005年:本体コンクリート工事終了
2006年:取水設備の完成
2008年:全体工事が竣工
2022年:ダム上の絵画を誰かが完成(おまけ)

ま、どーでもいいことですけど。
コメント

もう少し説明を!…初尾川ダム

2023-02-01 07:00:00 | 兵庫(ダム/堰堤)
へへへ、どーも、ワシです。えー、今回は兵庫県南あわじ市中条中筋(ちゅうじょうちゅうきん)にある洲本川水系の初尾川(はつおがわ)ダムを目指します。アクセスは一昨日記事にした鮎屋川ダムに書いてあるので参考にしてください。

まずは下流から見た「ご尊顔」をご覧ください。山々の合間に築造されたダムという感じですね。治水ダムかな?


左岸、ダム横に来ました。うーん、木が邪魔だなぁ。


左岸、貯水側から見たダムの様子です。


これがダム上。歩いてみます。


ダム本体に嵌め込まれた「初尾川ダム」のプレート。昭和43年(1968年)3月とあるので、築造されてからもう半世紀以上経っているんですね。


ダム上、中央にあるこの建物の壁にはダムの諸元が記されています。高さが31.2mの直線重力式コンクリートダムで、昭和41年(1966年)12月に起工し、昭和43年(1968年)3月に竣工したとあります。



その付近から見た貯水側の景色。


一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側の遠景を眺めると、島の中にあるとは思えない錯覚を覚えます。


対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


上に見たように確かにダムの概要(諸元)は記されていますが、それがどのような経緯で築造されたのかは明記されていません。ネットを検索してもそれらしい資料もヒットせず。ちょいと残念!
コメント