ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ダムに匹敵!…越良池

2023-02-09 07:08:28 | 兵庫(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は兵庫県南あわじ市神代國衙(じんだいこくが)にある大日川水系の越良池(こえらいけ)を目指します。ここはダム便覧には載っていませんが、兵庫県のため池データベースによると高さが15.8mでダムの条件を満たしているので行ってみることにしました。アクセスは国道28号の「三条」信号を「松本サッシセンター」方面へ曲がり、最初の「止まれ」表示のある交差点を右折。オニオンロードを進み、2つ目のT字路を入って行くと目的地に到着します。

あれのようですね。到着までもう少し。


右岸に到着です。立派なダムですよ、これは。


兵庫県のため池を示す看板。


右岸のダム横には「大成越良池」と記された石碑。

その裏側の上段には越良池の沿革が記されています。写真を撮り忘れたのでその内容を転記します。

「昔この池、越良の谷に徳川末期築造されたと伝わる口の池、中の池、奥の池の三つがあって旧田主が水利権を持って稲作をしていました。
 明治四十三年に戌申請書が発布されました。これに応じて元来畑地帯で水の乏しかった喜来、黒道、篭池、国衙の城家、国上部落の農民が発奮して開田作業を成すと共に水利の必要から喜来部落 正木正巳、城家部落 鳥井嘉平の両氏が中心となり、旧田主の口の池を買収併合して、今までより大きな新池の築造にかかることに衆議が一致し、新旧田主合同で工事をすることになりました。田主人は自己の水掛り面積に応じ、四百五十株を出資して山を買取り田主役として出役し、明治四十三年翌四十四年の二ヶ年で貯水量十万トンの越良新池を築造しました。当時の田主人は新旧あわせ百五名で、受益面積は、旧田主の開田済十町歩、新田主の開田である神稲十七町五反歩、国衙十七町五反歩の合計四十五町歩でした。
 大正時代に入っても、谷が浅いために水量が乏しく予定の貯水量がないため、毎年のように灌漑に苦心しました。
昭和七年翌八年に堤体下部内面百メートルにわたり刃金土の土羽補強修理工事を施行しました。昭和二十九年当時の水利総代 神稲 田村佐一郎氏、国衙 久井芳郎氏、会計 中尾英一氏等が発起人となり耕地整理組合を創設し、補助を得て市村 早瀬和一氏の監督により堤体中心部百メートル、深さ六メートル幅員二メートルの立ち刃金を入れる漏水防止工事を昭和三十年に行いました。
 昭和五十九年桶管付近に穴があき小修理をしましたが、漏水止まらず翌昭和六十年再び陥没、大修理をしました。しかし、漏水甚だしく昭和六十年総会の議決により、ため池等整備事業(大規模)の申請をし、認可を得て工事に入り、兵庫県洲本土地改良事務所のご指導並びに三原町のご協力のもとに工事請負人株式会社榎本組の施工によって昭和六十一年から平成六年度の九年間にわたる工事が完了しました。ここにその大略を記し竣工記念と致します。」

要するにこの地域では水が乏しかったため、明治44年(1911年)に越良新池なるものを築造。しかし水量は相変わらず乏しく、それに加えて度々漏水しては修理するといったトラブルが頻発したため、昭和60年(1985年)にため池等整備事業(大規模)を申請。認可を得て翌61年(1986年)から工事に着工。そして平成7年(1995年)3月に完成したというわけです。

裏面下部には諸元が記されています。


では、ダム上を歩いてみましょう。


中央から見た越良池の様子。


下流側の景色。実に見晴らしが良いですね。


左岸側には越流式の洪水吐があります。


左岸に来ました。振り返ると、こんな感じ。写真の手すりの下が洪水吐からの水路で、


そこから見た洪水吐の様子。そして増水すると水はここから溢れ出て、

あちらへ流れてゆきます。


ため池とはいえ、沿革や諸元もきちんと記されているので見学者にとってはとても有用です。
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