世の中にはいろいろな人がいます。例えば、いい大人なのに精神的には思いっきり子供のような人。このタイプは基本的に他人についてあまり関心がありません。だから会話をしていても自分の話はしますが、相手のことはお構いなし。そして常に話題の中心が自分でないとイヤなようです。
それに対し、精神的にはめちゃくちゃ大人びている子供もいます。知り合いの子供はまだ小学一年生。でも親によれば「まったく手のかからない子」だそうです。親の言うことを素直に聞くし、お風呂に入る時も服は脱ぎっぱなしでなく、きちんとたたむのだとか。とにかくワガママを言って親を困らせたことは生まれてこのかた皆無だそうで…。親は逆に「この子は気味が悪いほど大人びている」と言っています。
行動や性格というのは生まれつきのものもあります。また躾により後天的に決まることもあるでしょう。でも同じように教育しても異なる結果になるのはどうしてなのでしょうね。やはりこれは生まれもったものなのでしょうか。
「~らしさ」にはそもそも定義などありませんし、そのステレオタイプも存在しないでしょう。ただ、私たちは周囲の人たちを見て、何となく「~らしい」と判断します。「~らしい」の共通項があればあるほど「らしさ」のイデアに近づく。逆に「らしさ」の共通項が少なければその人は「らしくない」と思われてしまう。
日常、気軽に使う「~らしい」という言葉。実はものすごく曖昧なものであり、よくよく考えると非常に断定しにくいものではあります。でも、私たちは無意識のうちに「らしい」か「らしくない」を峻別します。改めて分析なんてしません。即断してしまうわけです。つまり私たちの観察力は驚くほど高性能だということ。そう考えると人間の感性って凄いなと改めて感心しますね。
それに対し、精神的にはめちゃくちゃ大人びている子供もいます。知り合いの子供はまだ小学一年生。でも親によれば「まったく手のかからない子」だそうです。親の言うことを素直に聞くし、お風呂に入る時も服は脱ぎっぱなしでなく、きちんとたたむのだとか。とにかくワガママを言って親を困らせたことは生まれてこのかた皆無だそうで…。親は逆に「この子は気味が悪いほど大人びている」と言っています。
行動や性格というのは生まれつきのものもあります。また躾により後天的に決まることもあるでしょう。でも同じように教育しても異なる結果になるのはどうしてなのでしょうね。やはりこれは生まれもったものなのでしょうか。
「~らしさ」にはそもそも定義などありませんし、そのステレオタイプも存在しないでしょう。ただ、私たちは周囲の人たちを見て、何となく「~らしい」と判断します。「~らしい」の共通項があればあるほど「らしさ」のイデアに近づく。逆に「らしさ」の共通項が少なければその人は「らしくない」と思われてしまう。
日常、気軽に使う「~らしい」という言葉。実はものすごく曖昧なものであり、よくよく考えると非常に断定しにくいものではあります。でも、私たちは無意識のうちに「らしい」か「らしくない」を峻別します。改めて分析なんてしません。即断してしまうわけです。つまり私たちの観察力は驚くほど高性能だということ。そう考えると人間の感性って凄いなと改めて感心しますね。