ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ヴラディゲロフねえ…

2004-06-17 12:47:34 | 音楽あれこれ
昨日のピアノ・リサイタルは、珍しい作曲家の作品を取り上げていたので聴きに行ってみた。それはブルガリアの作曲家パンチョ・ヴラディゲロフ(1899-1978)である。珍しいといっても、それは一般的な話であって、ワシには懐かしい響きなのであるが…

それというのも、今から15年以上も前にワシは彼の作品にハマっていたのだ。知り合いの師匠がヴラディゲロフに師事していた関係で、ワシはその知り合いを通じて彼の音楽を知ったという次第。師匠というのは、知る人ぞ知るブルガリア音楽の専門家である浅川豊夫(b.1937)氏その人である。

浅川氏は、ヴラディゲロフの音楽を知らしめるために《ピアノ協奏曲第3番》をはじめとして、日本初演をしたことでも知られるピアニスト。ワシは、そのライヴ録音のCDを氏のサイン入りで持っているが、なかなか興味深い演奏で何度聴き直したことだろうか。ブルガリアの民謡旋律と思われる主題が、ふんだんに用いられており、これがまた泣かせるのだ。

いや、ワシの思い出なんぞ、どーでもよい。不思議なのは、昨日のピアニストがなぜヴラディゲロフの作品を取り上げたのかということだ。しかも《ソナチネ・コンチェルタント》なぞというマニアぐらいしか知らないであろう曲を…。

資料や関係者の話を総合してみると、どうやらピアニストがまだ大学生の頃にヴラディゲロフを知ったらしい。この人はまだ30手前ぐらいなので、作品を知ったのはたぶん90年代最初だろう。しかし、自力で探したのではなく、師事していた先生からヴラディゲロフという作曲家の存在を教えられたようだ。

ここでワシは思う。あぁ、やっぱり日本の音大は、江戸時代からの徒弟制度の影響が残っているんだな、と。それも悪しき習慣が、である。音大の生徒は、よく言えば素直である。だから先生の言う通りに真面目に課題に取り組む。そこまではいい。しかし、彼らは与えられたものしか飲み込むことをしない。ちょっと横を見れば美味しいものが転がっているのに、である。

はっきり言おう。生徒たちは、幼い頃から自分で考える習慣がない。だから大学生になっても自分のやりたいことが見えないし、どうしたらよいのかもわからないのだろう。クラシック音楽を専門にしながら、ごくごく一部の音楽しか知らない。それで満足してしまっている。これがフツーの音大生の実態である。もちろん、教えるほうにも問題はあるのだが。

このピアニストの発想も、おそらくはさほど違わないのではないか。彼女はヴラディゲロフ以外の東欧の作曲家の作品をどれだけ弾き込んでいるのだろうか。演奏を聴く限り、ほとんど知らないと思われる。というのも、前述したように、ヴラディゲロフ作品の「命」は民謡旋律なのだ。これをしっかりと聴かせないということは、その「命」がわかっていないも同然。ただ弾けばいいってもんじゃないのである。

演奏する作品が、いつ、どこで作曲されたのか。その社会的・文化的背景にはどのような特徴があったのか。同時代の他の作曲家とは、どこがどう違うのか。そういったことは知っていて当然。しかし、音楽外的な諸要素のことすら知らないで演奏しても、作品の良さが聴衆には伝わらないのは当たり前なのだ。

演奏する動機が「珍しい曲だから」とか「他の人が弾かない作曲家だから」などという理由で演奏されては困る。そう、まずは考えることから始めないとね。そうしないと、いくら演奏しても成長はないよ。
コメント    この記事についてブログを書く
« 喉元、過ぎとる… | トップ | 知らないうちにイメージが… »

コメントを投稿

音楽あれこれ」カテゴリの最新記事