2013/04/30 記
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ここ2日、穴をあけていた生業の訪問指導を行った。私の事情に沿って、何段か予定を積み重ねられればいいが、先方にも都合がある。結局、訪問指導は1件。相模原や一部八王子もふくむ地域なので交通費がかさむ。
連休中なので、父親と話すこともできた。某政党の中小企業関係組合の関係者なので、すぐに靖国参拝の話が出たり、在日コリアンの話が出たりする。私にも持論がある。しかし深入りすると、どんどん息子さんの影が薄くなっていく。そのうち飲みましょうと、話をはぐらかせて、息子さんの指導に戻る。しかし、きな臭い時代だ。
我が家にはヘルパーさんが入っている。母の介護度によっているが、私の留守の間、母の居室中心の掃除を頼んでいるのだが、私は交通事故の後遺症で膝を砕いてから、正座といわゆるうんこ座り、膝立ちができないので、細かい床拭き掃除が出来ない。網膜色素変性症の関係で、針の糸通しのような細かい作業は、平常時にはできない。この穴をうめてもらっている。
帰宅途中母から電話、ヘルパーさんが帰ったから、近所の医師に行って薬をもらってくるという。嫌な予感がして、私が茅ヶ崎到着予定時刻から後も、医院にて待つようにと指示。昨夜、母は枕元の蛍光灯が切れたと、朝の5時前まで私に付き合って起きていた。こういう日の翌日は、ダンピングを起こしたり、転ぶ前科があったからだ。
母は医院の看護師さんと話しこんで無事だった。考えすぎかもしれない、いやきっとそうなのだ。安心して帰宅してすぐ、厨房から母の居室に入る部分で、母は悲鳴をあげて座り込んだ。枕元の蛍光灯が下ろされ、ヘルパーさんが蛍光灯を取り替えたらしい後が残っていた。普段はそこにはない電源コードが横断して足元にあった。
幸い難はなかったが、携帯電話を手元に置かない母のその位置は、固定電話まで遠く、来客のない我が家は、もし怪我をしたら、私の帰宅までそのままでいなければならないだろう。「入浴は私のいるときに」とは何回も言っていたが、一見健常に見える母でさえ、孤立の穴が空いている。孤独死とは、特殊なひとに起きることではなく、こうした加齢ゆえの出来事の延長上に起きている、連続したものだ。
浜竹の近くの母の友人は、夫に先立たれて単身生活を送っていた。その方は民生委員さんたちが、しょっちゅう覗いていたが、入湯したままこの世を去り、3日間放置されていた。こういうことが身近なところで起き、情報はブラインドされている。
こういうことを感じているからこそ、仮設住宅の避難所生活の中では、特異なことではなく、おこるべくして起こってくると思う。封じられ宙吊りの未来を抱え、足元の家計に火がつく状態に置かれていたら、自殺という意味ではなくとも、心身はもろくなっている。膨大な数の被災者の心身の健康をケア専門職の巡回に押し付けるのは酷だ。
母をベッドに誘導し、湿布を探している私に、感のいい母は、「こいつは誰の心配しているのか」と思っているに違いなかった。居心地の悪い背中の視線を感じ我に返ったのだが、母の向こうに被災高齢者の仮設住宅敷地のはずれで、遠い街中をぼんやり眺めていた何人もの孤立した高齢者の方々が重なってみえることもまた真実なのだ。
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夜中、母は私の喪服をいじっていた。気が早いよとたしなめつつ、高齢者の死の身近さに平然としている日常に、ため息が出る。月中に父が特養に移る。隙間を意識しないと社会活動が消える。育成会の**さんと明日会うが、時間と場所は前日にとした件を悔いている。連絡が取れないのだ。こうして時間が何気ない形で食いつぶされていく。焦るなと深呼吸をする。
夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)
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ここ2日、穴をあけていた生業の訪問指導を行った。私の事情に沿って、何段か予定を積み重ねられればいいが、先方にも都合がある。結局、訪問指導は1件。相模原や一部八王子もふくむ地域なので交通費がかさむ。
連休中なので、父親と話すこともできた。某政党の中小企業関係組合の関係者なので、すぐに靖国参拝の話が出たり、在日コリアンの話が出たりする。私にも持論がある。しかし深入りすると、どんどん息子さんの影が薄くなっていく。そのうち飲みましょうと、話をはぐらかせて、息子さんの指導に戻る。しかし、きな臭い時代だ。
我が家にはヘルパーさんが入っている。母の介護度によっているが、私の留守の間、母の居室中心の掃除を頼んでいるのだが、私は交通事故の後遺症で膝を砕いてから、正座といわゆるうんこ座り、膝立ちができないので、細かい床拭き掃除が出来ない。網膜色素変性症の関係で、針の糸通しのような細かい作業は、平常時にはできない。この穴をうめてもらっている。
帰宅途中母から電話、ヘルパーさんが帰ったから、近所の医師に行って薬をもらってくるという。嫌な予感がして、私が茅ヶ崎到着予定時刻から後も、医院にて待つようにと指示。昨夜、母は枕元の蛍光灯が切れたと、朝の5時前まで私に付き合って起きていた。こういう日の翌日は、ダンピングを起こしたり、転ぶ前科があったからだ。
母は医院の看護師さんと話しこんで無事だった。考えすぎかもしれない、いやきっとそうなのだ。安心して帰宅してすぐ、厨房から母の居室に入る部分で、母は悲鳴をあげて座り込んだ。枕元の蛍光灯が下ろされ、ヘルパーさんが蛍光灯を取り替えたらしい後が残っていた。普段はそこにはない電源コードが横断して足元にあった。
幸い難はなかったが、携帯電話を手元に置かない母のその位置は、固定電話まで遠く、来客のない我が家は、もし怪我をしたら、私の帰宅までそのままでいなければならないだろう。「入浴は私のいるときに」とは何回も言っていたが、一見健常に見える母でさえ、孤立の穴が空いている。孤独死とは、特殊なひとに起きることではなく、こうした加齢ゆえの出来事の延長上に起きている、連続したものだ。
浜竹の近くの母の友人は、夫に先立たれて単身生活を送っていた。その方は民生委員さんたちが、しょっちゅう覗いていたが、入湯したままこの世を去り、3日間放置されていた。こういうことが身近なところで起き、情報はブラインドされている。
こういうことを感じているからこそ、仮設住宅の避難所生活の中では、特異なことではなく、おこるべくして起こってくると思う。封じられ宙吊りの未来を抱え、足元の家計に火がつく状態に置かれていたら、自殺という意味ではなくとも、心身はもろくなっている。膨大な数の被災者の心身の健康をケア専門職の巡回に押し付けるのは酷だ。
母をベッドに誘導し、湿布を探している私に、感のいい母は、「こいつは誰の心配しているのか」と思っているに違いなかった。居心地の悪い背中の視線を感じ我に返ったのだが、母の向こうに被災高齢者の仮設住宅敷地のはずれで、遠い街中をぼんやり眺めていた何人もの孤立した高齢者の方々が重なってみえることもまた真実なのだ。
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夜中、母は私の喪服をいじっていた。気が早いよとたしなめつつ、高齢者の死の身近さに平然としている日常に、ため息が出る。月中に父が特養に移る。隙間を意識しないと社会活動が消える。育成会の**さんと明日会うが、時間と場所は前日にとした件を悔いている。連絡が取れないのだ。こうして時間が何気ない形で食いつぶされていく。焦るなと深呼吸をする。
夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)