2015/08/28 記
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(前回の続きから)
発災3日後、これは阪神淡路大震災のとき、神戸・甲南病院では、奇妙な現象が起きていたという。救急外来を訪れる被災者数が台風の眼のように激減したのだ。常用薬をなんとか入手できたり、傷病のとりあえずの治療が行われた結果だと思われているが、実は分散して避難していた家族の安否確認がとれ、一箇所に集まり家族が無事を喜び、また死亡情報に悲嘆にくれていた、家族の移動、これが原因していたと思われる。先方避難所から家族がやってくるだけではなく、治療に有利な避難所に集まりなおしていた。実はこの後者が新たな問題を抱えていた。
移動困難者が避難所の引越しをすることは大変だ。担架や背負うなどの方法で、車を確保して移動した。救急車やヘリコプターは救急用だからだ。先方に避難を終えたが、このとき医療が一度中断していることに注意したい。
前の避難所で受けた診療が引き継がれないのだ。例えば常用薬の二重処方や、自衛隊が持ち込んだレントゲン車による検査結果・バイタルの経過データなども、カルテは一時放置さ れる。移動には救急カルテを持ち歩くか、診断書で仲介する。この期間中に発症した疾病の再発見までのタイム・ラグが感染症などの場合決定的になる場合がある。
避難所常駐、歩行困難な方の介助ボランティアが状況判断をしつつ、この医療情報の途切れのチェックを心がけることは出来ないか。
蛇足:この避難所移動についても、「おくすり手帳 QRコード版」(私達が提唱している汎用個人医療情報カード)があれば対応できる。
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乳児の夜泣きや、認知症のせん妄、徘徊、障がい者の奇声やジャーゴン、意味不明な行動など、一般避難所の集団生活には馴染まない問題を抱えた方とその家族の方々は、被災被害の少なかった施設や特別支援校、数少ない福祉避難所に避難していくが、収容人数は、明らかにはみだしてしまう。自家用車や、バス会社と交渉し大型車を借りて、臨時避難所として使った。線路破損から運行中止している、その電車路線駅の待合室を利用した。自宅が全壊しなかった方は、風よけにブルーシートを張って住まいとした。
こうした方の悩みは、劣悪な生活環境と同時に、公共避難所の配給情報、診察日などの情報が入ってこないというものだ。
ここは本来災害FMが効果的なのだが、介護者が場を空けられないという条件がつく例が多い。だから仲介配達・配食と様子見巡回のボランティアを土地勘のある地元高校生や中学生の自転車部隊のボランティアを育成すべきだろう。
この辺については、次回掘り下げたい。
(つづく)
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講習終了後、一度家に戻ったあと、再度辻堂で面談。夕食の補充買い物を済ませ、気忙しく路線バスに乗ったら、就労に苦労していた++君とであった。川崎方向に通勤しているとのこと。よかった。辻堂の面談は福島の被災犬希望の方で、東京の団体を仲介したのだった。浜見山の方。
今夜は、炊き込みご飯と焼き魚。ご飯仕上がり時間丁度に帰宅。「わーくNo.57」になかなか集中できない。今夜が勝負所なり。
p,s,「病院防災ガイドブック」(2001)図書館に到着の知らせメールあり。資料が古い。ざっと眺めておくつもり。
夜間傾聴>ふたり
(校正2回目済み)