2015/08/20 記
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(前回のつづきから)
震災津波に被災したある家族の妻は、津波から救出されて助かった母を抱え、夫・娘・息子がそれぞれ入院している状態で、母の看護をしていた。幸い全員命は取り留めたものの、そちらの看護まで出かける状態ではなくなっていた。それぞれの看護師に事情を説明し、当座の看護・介護は母だけに絞り、避難所の一角に、母と自分のスペースを作ってもらった。
避難所は地区で定めた中学校の体育館であり、すし詰め状態になっていた。濁流の汚染海水をはかせて、身体を毛布とストーブで暖めた以上の治療は、抗生物質もなくそれ以上の処置が出来なかったので、回復力頼みのまま、ストーブのそばに居場所を作ってもらっていた。夜の体育館は冷えた。夏場は蒸し風呂のようになるという。
毛布だけではフロアは硬く体温を奪われるので、臨時に体操用のマットを借りて、その上に毛布を敷いて母を横たわらせ、ありったけの配給衣料を挟んで、毛布をかけた。
上向きの姿勢は苦しそうなので、横たわらせたところ、咳き込み始め、搾り出すように嘔吐が始まった。避難所のあちこちで咳き込みの声が聞こえていた。避難所全体が嘔吐物で末臭く、換気のために天窓をあけると冷気が吹き込んできた。
持ち出したリュックに衣類を着せて、母を座らせリュックにしがみつかせた。呼吸が楽になり嘔吐物も気管に戻ることも無くなった。しかし、周辺では嘔吐物にむせて、背をさするような状態の家族があちこちにいた。明け方、悲鳴のような泣き声が聞こえてきて、高齢の方が即製担架で運ばれていった。
衰弱と嘔吐物による窒息だった。眠るように亡くなっていた方もおり、やっとたどり着いたと思われ安堵した避難所も、様々な病の危機が潜んでいた。救護所のトリアージ緑タグの人々も、決して「健康」なのではなく、死が身近に潜んでおり、体力が残っていない方の危機は、発災後数日は危険が伴っていた。救護所だけではなく、救護所に行けば、他の病院や巡回協力している開業医など、数が少なくとも、往診できる医療関係者と出会える体制が必要だ。
この妻は、なんとか母の危機を過ごすことが出来たが、大きな負担を感じていた。深夜の薄暗がりの中で、母の体調が悪化しても、大声で助けを求めることを躊躇したのだ。母が嘔吐したとしても膿盆(のうぼん)を交換に場を離れることもためらわれた。常に様子を見ていないと、嘔吐物を詰まらせる危険を感じたからだった。
避難所では、一時的に席を離れることが困難な方がいる。トイレまで歩行困難な方をつれていく応援が必要な方もいる。特に夜間の支援が必要で、外部ボランティアに頼れない発災後数日、地元医療・生活支援ボランティアが早々に動き出せる状態を作り出したい。本当に、「ちょっとしたこと」が出来ないし、死は傍らの闇に潜んでいるのだ。
(つづく)
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「わーくNo.057」を書き始めている。25日(火)より私の後期夏期講習が始まる。それまでに仕上げたいのだが。
橋本、**君、PT志望固まる。費用・受験準備予測を伝える。指導が変わってくるが、自閉症独特の几帳面さが、対人治療の場で大丈夫だろうか。不安が残る。
夜間傾聴>**子
(校正2回目済み)