日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

再登板

2009年11月30日 | 生活・ニュース
               

年金の支給年齢先送りにより60歳で定年退職した人が雇用延長や再就職など、数年前までとは退職者の姿が変わっている。こうした人は、定年になったが「まだ現役」という意識が強い、と、そうした仕事の担当者から聞いた。

定年の辞令を受けながら再雇用などで働くことになったのは、そうした人に直接責任のあるところではないが、定年後の予定が先送りになった人も多かろう。まだ現役という意識のせいか、再雇用の人はOB会への出席案内に対し「再雇用が終わってから出席」という返信がほとんど、と世話役の話。

定年後の生き方や過ごし方はいろいろで他人がとやかく言うことではない。「部下の不幸は上司を選べないことから始まる」「上司の不幸はそう思っている部下が配属されたときから」というが、これを乗り越えてきたOB、再登板・再活躍の途は広い。

広場で孫とちょっと早い凧揚げをしている人に出会った。懸命に糸を操りながら走る孫の姿を追う柔和な目に、穏やかな生活を感じた。厳しい現実のあることを知りながらも、のどかな光景に初冬の暖かい日差しがよく似合っていた。

(写真:広場の囲いとして頑張っている古タイヤ、使いこまれている)
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翁の下で

2009年11月29日 | エッセイサロン
               

(2009年11月29日 毎日新聞「男の気持ち」掲載)

 子どものころ、近所の庭に大きくて高い銀杏の木が1本あった。幹の回りは、子ども数人が手をつないでやっと届くくらい大きかった。その銀杏の周りにちょっとした広場があった。

 そこに落ち葉が積もり始めるといつの間にか子どもが集まり、遊び始める。私も大きな声で駆けまわりながら騒いでいた一人だった。騒いでもその家の人から諭されたという記憶はない。

 落ち葉をかき集め小山にする。集めた葉を両手でつかんで誰彼の区別なく頭上から振り掛ける。また集めて振り掛けるの繰り返し。単純な繰り返しのどこが楽しかったのか、古いことで思い出せないが、大声をあげて日が傾くまで遊んだ。

 時には風にのって舞い落ちてくる黄色い葉をつかもうと、ふらふらしながら小さな手が空をきる。つかめばまた大声を出す。この楽しい遊びも独特の匂いの実が落ち始めると終わる。

 その銀杏の木は小高いところにあり、少し離れたところからでも眺められた。住まいを移ってからもその辺りを通りかかると、梢の黄色を懐かしく見ていた。

 その梢が突然消えた。子どもたちを翁のように見守ってくれた木。その下で遊んだ思い出まで失ったようで寂しい。再び経験できないことへの郷愁かもしれない。

 どうして見えなくなったのかと思いながら、まだそこへ足を運んでいない。いつか回り道をし、あの小さな広場を訪ねてみよう。

(写真:銀杏の落葉風景、吉香公園で)
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生かされている

2009年11月28日 | 生活・ニュース
               

同年輩数人の雑談。年金や医療、介護など前期高齢者らしい話題がひとまわりした。これまでに聞いた話題もいくつかあった。ころを見計らったように「わしらは生かされとるんじゃあないかのう」と、病み上がりの1人が話し始めた。彼はこう言う。

「皆も何かの薬を飲みよるじゃろう。血圧や糖尿に肝臓とひとつくらいはお世話になっとるじゃろう。昔なら脳溢血も心筋梗塞もガンも罹れば人生終わりだった。今は薬という粒を飲んで、長生きしているように思うが、薬で生かされとるんとちがうかのう」

ちょっと間をおいて、薬とその服用をはじめたころの話になった。治療や予防のためにと医師の指導で何かを服用している。確かに薬で長生きさせてもらっている、間違いではないようだ。そうであってもそれを一方的に絶つとことはならない。

帰り、小春日和の柔らかな日ざしに輝くすすきを見た。話の余韻からか、頭を下げた人生の旅人のように感じたが、すすきは自然のまま自然へ帰っていく。そのとき次の世代のために大きく張った根を残している。

「人生とは、稽古する時間もなしに自身が役割を演じなければならない芝居だ」という。たしかに生まれてこのかたリハーサルなしの本番を続けてきた。すすきには及ばないかもしれないが「精いっぱいやろうでよ」という病み上がりの人の言葉を思い返した。

(写真:自然の旅人のようなすすきの波)
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大根の加工

2009年11月27日 | 回想
               

近くの畑の大根が秋の好天に恵またのかよく育っている。畝から半分くらいのぞいている真白な大根は、見た目にもかぶりつきたくなるようなみずみずしさを感じる。隣の畑は収穫中で抜かれた大根についた土の黒さが育ちのよさを感じさせる。

大根抜きは子どもの手伝いにしては力のいる仕事だった。父親の畝をまたいで真直ぐ上に抜く真似をするが、身長不足で斜めに引っ張ることになる。それでせっかっく伸びた大根を折って2つにしたこともある。

収穫した大根は沢庵と2種類の切干になった。沢庵用は束ねて櫨干しにする。短冊状に切ったものは筵に広げて干す。大根を切る包丁とまな板のリズミカルなあの音が、母の姿と一緒に思い出せる。祖母は1日に何度も混ぜながら乾き具合を見ていた。

少し厚手に輪切りした大根は藁紐を通して軒下に下げる。こちらは、やがてやってくる寒風にさらされ、硬くひなびた姿になるが、食べると大根の甘みがそのまま残っていた。子どものときから好きだった。大根は買ったり頂いたり、切干など加工したものは買い始めて長い年月になる。

「大根や人参などは葉のついたものを買いなさい。新鮮だから葉付きで店頭に並ぶのです。勿論、葉も食材にしてください」と道の駅が話題の番組で紹介があった。母もそうだったが家内も葉を捨てたことはない。これからも続くだろう。

(写真:紺碧の空と大根の白、日本の原風景)
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ゲートボール場の秋

2009年11月26日 | 地域
               

1度も経験したことの無いゲートボール。長方形のコートの中で木またはプラスチック製のボールを木製の槌(スティック)で打ち3個のゲートを通過させる。中央のゴールポストに打ち当て、全員が早く上がりになるのを競う団体競技、と説明してある。

1948年北海道旭川市で考案され、変遷をえて1984年に全国共通のルールが成立した。この戦後生まれの競技は高齢者に適した運動ということで、その人口増にあわせ普及したという。

ボールを打った時のカチやカーンという乾いた音、審判のキビキビした動きと判定を下す手の動き、見ている者にもさわやかさを感じさせる。順番を大きな声で叫び自分の玉を置き打ち始める様子は、他の競技で見られると同じ緊張感があっていい。

先日、最近は1982年鳥取県で考案されたグランドゴルフに押されて競技人口が少なくなったと聞いた。こちらはゲートボールよりルールや試合場、用具などが簡単といわれているが、こちらも経験したことは無い。

そんなことからでもあるまいが、川沿いにあるグランドゴルフ場は2面並んでいるが、最近プレーを見かけない。グランドの周囲には落葉が重なり、コートも手入れされた様子がない。

寒くなったので休んでおられるのか、メンバーが足らなくなったのか様子は分からないが静かなコートに小春日和の日がさしていた。そのコートに舞う落ち葉を「ゲートボールコート」の看板が寂しそうに眺めている。

(写真:ゲートボールを楽しむ人の姿が見えないコート)
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秋の天気

2009年11月25日 | 自然 季節
               

先週、木枯らしも吹く寒波が終わるころ「男心と(女心と)秋の空といいますすが、また変わりやすい秋の天気が続くでしょう」と、ローカル放送の気象情報があった。これはよくあたった。

秋の気象の特長を見ると、残暑・長雨(秋雨)・秋晴れ・濃霧・木枯らし・早い日没・早霜そして台風など素人にも分かる特長が並んでいる。残暑に長雨は終わった。あと1ヵ月ほどは早い日没が続く。木枯らしはこれからだが待っている人はいないだろう。

今朝、6時過ぎに濃霧注意報が出されお昼過ぎ解除になった。朝ウオークのとき山間部に連なる峰は霧に覆われ見えなかった。まだ寝静まっている通りには薄い靄がかかっていた。こんな静寂に身をおくと、なにか背筋を伸ばされるような自然の力を感じ、足早になる。

濃霧は霧がかかっていて、見える範囲(視程というそうだ)が陸上で100メートル、海上で500メートル以下のものをいうそうだ。朝晩の気温差の大きい秋にはよく発生することが多い。

明日の予報は快晴で今朝より冷えこみ、山間部では霜に注意が必要という。そういえば近所の畑に大根が干されていた。もう冬支度が始まっている。

(写真:銭坪山の今朝の濃霧、案内版までは20メートルほど)
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晩秋の彩り

2009年11月24日 | 生活・ニュース
                    

本州内陸部や北日本の方のブログには雪景色がアップされ始めた。どんなにして撮られたのだろうと、勝手な想像をしながら1枚1枚を眺めている。近場ではまだ紅葉が主役、といってもそう長くはなさそうだ。

昔はファインダーを最近は液晶モニターを、上手くはないが綺麗な写真を撮りたいと思いながら覗き込む気持ちは年を重ねても変わらない。思い通り撮れないとカメラが悪いと責任を押し付けてることも。

紅葉が散り始めたころそれを見に出かけた。黄色は鮮やかな色合いを楽しませてくれたが、目のさめるような紅い色は多くなかった。水分の必要な時期に降水量の少ないことが原因のひとつという。

最後は紅葉谷公園。「いつもなら見ごろの時期ですが、今年は紅葉が早く始まり盛りをすぎたばかりです。落葉も一緒に楽しんでください」と観光ボランティアの案内。上手いことをいう。促されて記念撮影が始まる。

ぶらぶらするうちに黄と紅のコラボレーションを頭上に見つけた。黄色の地に紅色の模様を散りばめた温かな絨毯のように思えた。晩秋にいい秋を見つけた、さすが紅葉谷公園、この秋に悔いはない、そう思いながらシャッターを押した。

(写真:黄と紅のコラボ:21日紅葉谷公園)
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ゑびす祭

2009年11月23日 | 地域
               

苔むせる山の岩が根千代へでも 動かぬほどの心ならまし (中吉)

 心を決めて いろいろとさわがず 迷わず いままでの事をつとめればよし
 何事にも手をだしてはいけません つねにひかえ目にして事をなさい

近くのゑびす祭では、お参りとお接待のかす酒をいただき、おみくじを買うことにしている。おみくじには富くじが付いている。今年はいい香りの大きな柚子が4個も当たった。これまでの当りの最高はは地元の銘酒1升。

おみくじは「中吉」。くじを引いて神意を問い占うことをおみくじという。神仏のお告げを得て吉凶を知るために引く、くじともある。もの言わぬ神仏の言葉が文字となって届けられたことになる。

中吉はよい順番から2番目、まだ上れるチャンスがあるということだ。そんな目で神の言葉を読むと、全体として「控えめ」を心掛けるよう示されている。控えめにふるまう事は慣れている。持ち帰ったおみくじは初詣のとき境内の木に結びつけよう。

通りでは各商店へ「商売繁盛、商売繁盛」と威勢のよい声で獅子が舞い込んでいた。不景気な世相を写してか商店街の人通りは、超がつくほどまばら。子どものころの賑わいが懐かしい。それでも「ゑびす祭」の4文字だけはいまも続いている。

(写真:商店を回り元気付ける赤い獅子)
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風の道

2009年11月22日 | ウオーキング 散歩
                      

このところ朝ウオークの挨拶が「寒いですのう」に定着した。出会う人は大方が高齢者仲間、防寒姿に変わっている。自分も冬季前半用に衣替えし、数日前からは薄い手袋も使い始めた。

と言っても、吐く息はまだ白くならないので寒さは序の口、それでも風の冷たさは冬に向っている。青空駐車の窓は水滴で濡れたようになり始めている。

ウオークの折り返し点までの600メートルを自称「風の道」と名付けている。この区間は強弱はあるが年中向かい風が吹ている。冬季にはフードで顔を覆う日も多い。河川改修ということで、この道沿いの竹林を除く工事が進んでいる。これまで竹林が防風の役目を果たして感じなかった川風を、この冬からは真正面に受けることになりそうだ。

折り返し地点で向きを変えると、顔は一瞬にして冷たかったことを忘れ普段の感じに返る。ここでも自然の厳しさを教えられる。

道沿にある芭蕉の葉はいつも千切れ状態なのは風が強いからと自己解釈している。このまま工事が進めばより風を受けその状態はさらに深刻になりそうだ。芭蕉には安住の地ではなくなるかも知れない。来春を待ってみよう。

日本三大竹林のひとつとも聞かされいる竹林、日ごとにそれが狭くなっている。どこまで取り除くのだろう。長年見慣れた風景が変わっていく。

(写真:葉が落ちた木少なくなった木、冬に向っている)
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銀杏の木

2009年11月21日 | 回想
               

子どものころ、近所の庭に大きくて高い銀杏の木が1本あった。幹は子どもが3人くらい手をつないでも足りなかった。その銀杏の下に屋根が桧皮ふきの門があった。その屋根とそこに積もった黄色い葉の光景は何十年経った今も、綺麗だった、と記憶にある。

銀杏の周りはちょっとした広場になっていた。落葉が積もり始めるといつの間にかそこに子どもが集まり遊び始める。大きな声で駆け回っても家人から諭されたという記憶はない。

落葉をかき集める。それを山にする。両手でつかんで誰かかれの区別なく頭の上から振り掛ける、また集める、振り掛ける、というその繰り返し。なんとも単純な遊び、今にして思えばなにが楽しかったのか思い出せないが、大声をあげて日がかげるまで遊んだ。その遊びもあの匂いのある実が落ち始めると終わる。

その銀杏の木は少し高台にあり遠くからでも眺められた。住まいを移ってからも近くを通りかかると梢の黄色を懐かしく見ていた。ところが最近見えなくなった。なぜだろうと思いながらそこまで足を運んでいない。もの言わぬ大木だが、懐かしいものがひとつ消えた。世の常とはいえまたひとつ何かを失った気持ちになるのは晩秋のせいだろうか。

(写真:屋根の上で淡い日ざしを浴びてしばし休む落葉たち)
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