日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

義の心

2011年04月03日 | 石碑や石象
           

この話は聞いており、碑が建立されたことは新聞で読んでいたが、見たのは初めて。旧本郷村役場の前にその碑はあった。碑文を書き写す。

山代十一庄屋
西村 冶右衛門(府谷村庄屋) 北野 孫兵衛(本郷村庄屋) 新原 神兵衛(生見村庄屋) 廣兼 七良兵衛(宇佐村庄屋) 岡 新左衛門(河山村庄屋) 中内 市助(南桑村庄屋) 宇佐川 五良兵衛(大原村庄屋) 山田 平兵衛(宇佐郷村庄屋) 中内 孫右衛門(波野村百姓)

  義挙四〇〇年の由来

山代地方の11人の庄屋さんたち達が、一揆を主導した罪で処刑されたのは、今からちょうど400年前の慶長14年(1609年)3月29日のことでした。

山代地方の民百姓は「関ヶ原の戦」の後、防長二州に減封された毛利萩本藩から7割3分(73%)という過酷な年貢(税金)を課せられ、想像を絶する苦しい生活を強いられました。餓死する者があとをたたず、農民たちは、慶長13年(1608年)10月ついに一揆をお越しました。(後に慶長一揆という)

庄屋さん達は、相談の上「一味神水」身命をかけて「嘆願書」を携え、代官所に直訴しまいした。

後に年貢は軽減されましたが、庄屋さん達は一揆を主導した責任を問われ、11名全員が引地峠処刑場において「打ち首」となり、本郷川(物河河原)において哀れにも「晒し首」となったのです。

圧政に異議を申し立てたその気構えと魂の気高さ、さらに苦しい農民の生活と命を守った「義の心」は、400年を経た現在にも通じるものがあり、大いに学ぶべきであり、この精神を皆さんと共に後世に伝えるため、こん碑を建立しました。
                           平成21年(2009年)11月 山代義民顕彰会

「一味神水(いちみしんすい)」:中世の農民が一揆盟約する際の儀式。神前で起請文を書き、加盟者が署名したうえ、それを灰にして神に供えた清浄な水に交ぜ飲みまわす
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文人石の謎

2011年03月22日 | 石碑や石象
         

吉香公園内の紅葉谷公園にある吉川家の菩提寺洞泉寺の対面に2基の石象がた立っている。像の中央に次のような説明板が設けてある。

「この石像は、文人石といわれ朝鮮高麗王朝時代のもので豪族の墳墓の前に設置され守護像としての役割をなすものであり、韓国固有の伝統的文化財であるといわれております」と韓国語と併記されている。ほかの説明は見当たらない。

高麗は10世紀から14世紀にかけて存在した王朝。ここに立つ文人石はそのころに作られた石象だろうか。紅葉谷公園にどうして移されたのか思いがはせる。苔むしているが柔らかい顔立ちが印象に残る。どなたが手向けられたのか足元の対の生花が印象的だった。

(写真:紅葉谷公園に立つ文人石と説明、右の写真をクリックください)

<吉香公園には多くの石碑などがある。徒然に歩きながら自分流の目で眺めてみたい>
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