日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

あの時の涙

2024年07月16日 | 回想

 備え付けの新聞を読んでいるとある会話が聞こえてきた。近くの席で話し込んでいた女性連れの一人が涙声で「もらい泣きして涙が止まらんかった」言う。もらい泣きしたその内容は分からないが、優しい人なんだと思いながら自分はどうだろうと考えた。そうした場面に幾度も遭遇したり立ち会ったが、薄情なのかもらい泣きの記憶は浮かんでこない。でも涙に心を痛めたことはある。

 その涙は20代半ばのころの事だが今も記憶に残る。父は、病身な母と長男の私と弟妹3人を残して現役で急逝した。これからどうする、長男としてそればかりが気になった。葬儀を終え家族が落ち着きかけたころ「親が死んでも涙を流さん」という噂が耳に入った。これは世間がくれた試練だ、そう思い新しい生活を模索した。

 四十九日の法要を終えた夜、「安心してくれ、やっていける」、自信を確かめるように床の中で父に伝えた。不意にほうを熱いものが、「自分にも涙がある」そう思うと嬉しくてぬぐうことが出来なかった。泣けなくてつらかった、その思いはこの時に消えた。「泣きたいときには泣けばいい」という。でもそうならないこともある。

 あの涙から間もなく60年。うれしい涙も哀しい涙も何度かあったかもしれないが強く記憶に残っている涙は思い出せない。涙は人間らしい感情の表れという。血も涙もない人だけにはなりたくない。

 (今日の575) 頬つたう熱き涙に涙した
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氷の思い出

2024年07月10日 | 回想

 暑い季節になると冷たい物の購入が増える。スーパーには商品を家まで持ち帰りのための氷が準備されている。その氷ボックスに掲示が出ている。内容は「お買い上げいただいた商品に見合った量の氷をお持ち帰りください」。その昔は見かけなかったように記憶する。レジャーという言葉が一般的になったころから様子が変わってきたように感じる。

 購入商品の持ち帰りとは思えない氷の盗り方を時々見かける。最も驚いたのはレジャー着姿の男性がクーラーボックスに氷を入れている。順番待ちで眺めていると、罰悪そうにクーラー半分ほどで立ち去った。よくない事とは分かってやっているとしか思えない。スーパーの店員から注意されるのも見たことがる。

 私の高校時代、当時もっとも高額なアルバイトの日給は350円だった。仕事は暑い夏休み、1貫目の大きさの氷の塊を自転車に積んで配達する。当時は今のような冷蔵庫ではなく、厚目の木の板で作った箱に銅板を張ったもので、箱の最上段に氷を置いて箱の内側を冷やしていた。今は想像すらしにくいだろうが、氷は昔から夏の生活に欠かせない貴重品だった。

 そんな氷の塊を買いに行ったことがある。父の葬儀の日は残暑の厳しい日だった。家庭葬の時代、お世話いただいた近所の人に飲んでもらおうと風呂に水を張り、氷の塊を2個入れてビールやサイダー、ジュースなどを冷やした。葬儀の手伝いを仕切られた人が「ええ考えじゃった」とひと言発し、グラスに注いだビールを一気に飲まれる喉の動きは今も目に焼き付いている。
 
 (今日の575) 氷塊に頼りしころの懐かしく
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逸品もいつかわ

2024年06月30日 | 回想

 日本で初めて石油化学が生まれたのは昭和30年代の前半。ドイツで生まれで岩国育ちの触媒を使って誕生したのはポリエチレン樹脂(PE)だった。フラフープをご存じの方もあろうが、あのパイプを作った樹脂はPE、遊びの具として広まった。若い時にそんなPEの生産に関わっていた。

 PEは紙や木材に硝子などにとって代わり、生活の隅々まで浸透していた。PE樹脂は品質的に向上を続けコストでも汎用できるように変わった。ある健康飲料メーカーが配達用のガラス瓶をPE容器に切り替わったときは、プラントの皆で喜んだことを記憶している。瓶の回収が不要になった。

 そんないい時代もあったが、今はどうだろう。PE以外にも各種樹脂が世に出回っているが、それらの使用後の始末の悪さが地球上の環境汚染を起こしているとされる。対策としてレジ袋が有料に変わった。樹脂の種類と用途が広がり、レジ袋対策だけでは対策にならない。海浜に流れ着く廃棄樹脂対策が急がれる。

 PE生産で共に働いた一人からの数年前の年賀状にこうあった。「公害の元凶のようにいわれて、PE生産の初期にタッチしたことが孫に話せない」。一人のオペレーターの責任ではないが、機会があれば樹脂使用後の正しい廃棄につて説明しよう、後日こんな返信をした。

 (今日の575) 樹脂製品キチンと処分世のために
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思いだす絵手紙

2024年06月23日 | 回想

 久しぶりに机周りを整理する。処分量の一番は新聞のスクラップ、どれを残すかどれを廃棄処分するかなど判断していては終わりは来ない。これは毎度のことで皆さんもご経験がおありかと思う。さっと見てさっと破棄、明日収集の燃えるごみとして処分する。

 どうして紛れ込んだか記憶にないが、はがきホルダーが箱の底にあった。開いてみるとなんと懐かしいはがき、自分の絵手紙が残っている。10数年前、知人がボランティアで絵手紙教室を開いていた。面白そうなので月1~2回、小学校時代の絵画クラブを思い出しながら何十年ぶりかの絵を描いていた。参加して1年目くらいに教室の作品展があり、展示会の賑いにと出展した。

 写真はその時の作品。縦位置の下が初作品と書き残している。消えそうな薄い字で「暑中見舞」と書いる。鉢植えの植物は何だろうか、朝顔の葉に似ているが茂り方が違う。そのころはミニトマトを作っていたのでそれかもしれない、などと思い出す。淡い緑が涼しそう、先生の評はそんな内容だった、ダメ出しの評の無いことで参加は続いた。

 面白さが増したころ、身辺に多忙なことが舞い込み教室をご無沙汰することになった。今も先生とは交流があり、新聞に投稿が掲載されると内容に見合った絵手紙が届いていたが、それはさすがに遠のいた。記録として残る、恐ろしいようでもあるが思い出すには必要、書いても撮っても描いても、残しておこう。

 (今日の575) 物忘れ残した記録が薄れさせ
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アメンボを見て

2024年06月02日 | 回想

 先日、公園の菖蒲池でアメンボを見た。どのくらいの間見ていなかったろうか。菖蒲の葉陰などではっきりしないがかなりの数が水面にいた。菖蒲鑑賞の人らも珍しそうに眺めたり撮ったりしていた。ふと子どものころの小川のことを思い出した。

 子どものころ住んでいた地域は藩政の時代は下級武士の住んでいたとされるが、そんな大昔のことは知らない。記憶にあるのは第2次世界大戦の終わった昭和20年代の初めから。空襲を心配することなく山や畑を駆けまわり、空き地があればそこにたむろし集団で遊んだ。庭に果実が生れば家の人に断って食べたりした。

 そのころは山裾の道路両側に家が並んでいた。どこも3世代同居で町は賑やかだった。家並みの裏側は大方が水田。今の時期は田植えの終わったころで一面が緑一色だった。そんな稲田の真ん中を水量豊富な小川が流れていた。ここも子どもの遊び場。メダカ、フナ、ごり、ナマズなど追っかけた。蛙も飛び跳ねていた。水すましもいた、アメンボもいた。波紋も経てずにスーィスーィと水面を滑るように進んでいた。

 そんな小川や稲田は一変して商業地域に変わった。それは昭和40年代の中ごろ、近くの山が崩され稲田や小川を埋め、国道のバイバスとなる道路が作られたから。今は幹線道路として重要な役目を担っている。自然を守るか道路を作るか、そんな議論はなかったように思う。何かの折にこうして思い出す子どものころの風景、やっぱり懐かしい。

 (今日の575) 崩したらもう戻せない山と川
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学校の机

2024年05月04日 | 回想

 入学式が終わりひと月あまり、小学新1年生は学校生活に慣れて来ただろうか。社会人1年生の五月病は現役のころ何例か見てきたが、GW明け元気に小学1年生のみんなが登校する、そんなことを思いながら小学時代に学んだ机をながめる。

 岩国教育資料館には懐かしい教材、使いこなされたい民具、今では想像もつかないがかつての生活必需品などが展示されていて、誰もが無料で鑑賞できる。あんな民具が今の電化製品に変わったんだ、そんなことが学べる。いくつも懐かしい物はあるが、炭火のアイロンなどは生活の知恵から生まれた必需品、使ったことがある。

 写真は資料館に展示されている昔の小学校の机と椅子でいづれもの木で作られている。これで6年間学んだ。机は一脚が2人用に出来ている。机の蓋を上に開くと習字用の硯置きがあった。掃除の時はこれを動かして雑巾で床を拭いた。今、地震訓練で机の下にしゃがむ映像を見るが、この机では机の作りから出来ない。ランドセルは椅子に背負わせていた。

 写真前列の小型の杖と椅子は低学年用、それに向き合う高い机は教卓で先生が使う。机に罪はないのだが思い出すことがある。学期ごとに席替えがあり、誰が隣になるか気になった。神ではない担任の思いひとつで学期の面白さが左右される、楽しくもあり憂鬱でもある席替えだった。

 (今日の575)  席替えで誰が隣か息をのむ
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喜寿の出遇い 3

2024年04月22日 | 回想

 今年度の母校の小学校の新入生は103名という。私らのころはひとクラス50名余、それが6クラスあった。児童数は三分の一に減少、少子化というけれど数字を比べるとより実感する。道路を挟んだ校舎の向かいは図書館だが、駐留軍の接収施設となり星条旗がなびき、図書館は疎開していたことを思い出す。

 懐かしい教科書にはもう一つ解説があった。タイトルは「国定6期 戦後の国定教科書の時代(昭和22~昭和23年)」。教育基本法が制定され、昭和22年4月の6・3制の新しい教育制度が発足した。国民学校初等科は、再び小学校に改められた。これまでの修身・公民・地理・歴史などの科目が統一され「社会科」となった。

 さらに続く。昭和22年、文部省から、民主主義の精神が採り入れられた近代的な教科書が発行された。昭和24年には教科書の国定制度が終了し、現在に至るまで検定教科書が使用されている(原文のまま)。つまり、私らは国定教科書最終版というよし悪しは別にして記念となる時代に小学1年生になったことになる。

 国定教科書とは「政府機関(文部省)あるいは政府の指定する機関が執筆・編集し,政府により全国の学校で一律に使用を強制される教科書。1903(明治36)年に小学校教科書の国定制度が確立したという。今の検定制度下の教科書選定ではその内容について各種トラブルが報道される。タブレットやAIで育つこれからの児童らの先々はどういう世界になるのだろう。ただ、民主主義と戦争の無い地球を作って欲しい。そして宇宙のすべてのものとも。

 (今日の575) 教科書の思い出消すかタブレット
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喜寿の出遇い 2

2024年04月21日 | 回想

 母校はコロナ禍の中で創立150周年を迎えた。ある日、児童が風船を放つ瞬間に偶然遭遇した、後で聞くと記念行事のひとつだったという。在校のころ校歌に「栄えある歴史は八十余年」という一節があった。校歌は変わっているが、歴史の一節を今はどう織り込まれて歌われているのだろ。

 国定6期 こくご 一(いち)  「みんないいこ」というひらがなの詩で始まっており、戦後の新しい日本が目指した平和と民主主義の教育が読み取れる。また、これには曲がついていて、新入児童は歌いながら学習を開始した。明治19年の読書入門以来、カタカナを最初に習ったが、この教科書から、ひらがなを最初に習うことになった。

 これは、なつかしい展示教科書に添えられている解説(原文のまま)。展示教科書の姿を眺めると、過ぎ去った77年の歳月が如実に表れている。どこかの誰かが実際に使用し大切に残しておられた1冊のように思える。実際に出会えるとは思っていなかった。曲の記憶は薄い。

 手に取って次の頁を繰ってみたいが、ガラスケースの中の展示では叶わぬことだ。一人一人がタブレットを所持し授業をうけ、スマホをはじめとする機器を使いこなす児童らに、こうした感情を生む環境にはないだろう。簡単に保存できる装備を備えているから。

 (今日の575)  カタカナがひらに変わって喜寿となり
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喜寿の出遇い 1

2024年04月20日 | 回想

 母校でもある近くの小学校の入学式から10日、上級生にサポートされるように登校していく1年生、黄色の交通安全ランドセルカバーが光って見える。時にはお父さんやお母さん、おじいちゃんと登校も見かける。みんな楽しそうな登校に見える。自分の1年の登校風景は全く記憶に残っていない。

 私の小学校入学は終戦直後の昭和22(1947)年。赤紙の召集令状が届いたときのために、父が手縫いで準備したというランドセルを背負っての入学だった。そんなランドセルに入れた教科書などはわずかとおもうが、その中の国語の教科書の最初のページを今もはっきり記憶している。自分でも不思議でならない。

 見開きの最初のページにはレンゲの花の輪飾りのような周りで子どもが遊んでいる。そこに書かれていたのは、今だから詩だとわかる短い文章だった。
   みんないいこ 
 おはなをかざる みんないいこ
 なかよしこよし みんないいこ
 きれいなことば みんないいこ

 入学までに自分の名前は書けるように、覚えた字は「カタカナ」だった。それが「ひらかな」に変わり親は心配したそうだが、記憶の中には苦労が浮かんでこない。その懐かしい教科書に出会った。ガラスケースに収められたその教科書は77年の歳月で茶色に変わり、何カ所もテープで補修されていた。

 (今日の575) 記憶する頁に出会い言葉なく 
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30年目に入る

2024年03月20日 | 回想
                 (見学会のパンフ写真)
 いろいろな思いなど夫婦で考え終の棲み処を建てようと土地探しから初めた。卒業した小学校校区内に建てたいという地域限定から抜け出せず、空き地探しに時間を費やしてしまった。バブル崩壊の影響でなかなか手を出せる物件に出会えなかったことも原因のひとつだった。不動産屋の知人から助けが入った。

 棟上げを済ませてすぐに阪神淡路大震災、この地も大揺れしたが事なきを得た。順調に建設は進み引越しの日、オム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。手伝いに帰省していた息子は同僚の安否確認で大変だった。終の棲み処に何か災いがあるのだろうか、神事はきちんと済ませたのになどと思った。

 入居前、ハウスメーカーから見学会場にさせて欲しいという相談。我が家も建築中の様子を何軒か見せてもらっており了承した。その後で引き渡しを受けて今日から30年目に入った。三日三月三年という。三日我慢出来れば三カ月は耐えられる。 三カ月耐えられれば三年は頑張れる。 三年頑張れれば一生耐えられる、芸事の修業から生まれたというが、終の棲み処になるかこれからが本番か。

 近所の様子もすっかり変わった。我が家の周りだけでもこの間に10軒あまりの新築があり、初夏になれば隣で新築が始まる。我が家も古家になりつつあるが、このまま風雪に耐え、当初の思い通り終の棲み処となってくれればと、過ぎた今日までを振り返りながら思っている。

 (今日の575) 返済の計算しつつ融資受け
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