日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

高卒の採用試験

2024年09月16日 | 回想

 来春高校卒業予定者についての採用試験が始まる報道を見て思い出す。まず、所定の様式でハローワーク(職安の呼称がなつかしい)で求人票の確認をうける。次いで求人依頼校へ求人票などを送付する。その後、送付の各校を訪問し、進路指導の先生へ諸説明をし、生徒の推薦を依頼する。中国・九州の各校を訪問したことを思い出す。

 試験の前日、遠方からの応募者は前泊とする。各地からの応募者はいづれも初対面、緊張気味だが、テーブルに食事が並ぶと緊張は解け元気な食べっぷりに毎年ホッとした。試験が終わると前泊者は車で最寄りの駅まで送り、各校に終了を連絡する。さて、それからの関係者による選考会議から採用者を内定する。結構な作業になる。

 採否を決定する。不採用となった応募者の学校へその説明のために訪問する。その時の気持ちを退職後書き残している。その一節、「巣立ちの前に、厳しい現実に遭遇させる役目を恨み、新しいチャンスが与えられるように願いながら校門をくぐった。あの時の生徒たちが、いま次のチャンスを活かしていることを信じる」。

 こうした選考で最も注意し気をくばったのは、関係機関からの指導もあったが「公正な選考」だった。そのことが、重い気持ちでの不採用説明の学校訪問でも、自信を持った説明に至ったと思っている。最近は高卒の就職希望者は大幅に減り、人出不足の深刻さは大きなニュースになるほどだ。採用担当者の苦労は大変だろう。

 (今日の575) 面接の握りこぶしが目に浮かぶ
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てっぽう草の音

2024年09月15日 | 回想

 何年か前の川土手法面での話しから。鎌を使って腰くらいに伸びている雑草を刈っている人を見かけた。こうしたところの草刈りは除草機を使うのが当たりまえだろうと思いながら「綺麗になります」と声を掛け、「鎌ですか」と問うた。手を休めて「ヤギの餌にするため刈っております」という答え。聞くとヤギが好んで食べる草を刈っているという。

 その草は、子どものころに遊んでいた草で「てっぽう草」と呼んでいたが、正式な呼称は今も知らない。てっぽうのいわれはこうだ。手の親指と人差し指で輪を作る。そこにてっぽう葉を置き、葉の中央部分を指で軽く押さえ窪みを作る。指の輪を作った反対の手のひらで窪みの上を思いっきり叩く。その時、輪を作って手が下がらない力を入れて支える。

 叩かれた窪みは「パン」という音を発する。叩いた手をのけると、草の葉の真ん中に穴が空いてる。パンという音は押された空気の圧力で穴が空く。空気が逃げ去った跡になる。誰の音が大きいか、そんなことを競い合った。遊びの道具などない朝鮮戦争勃発より前の古い古い話し。

 「ヤギにこの草(てっぽう草)を食べさせると乳がよく出る」と教わった。飼育したことはないが、鎌を使われる姿から幸せなヤギだと思った。散策道のある1カ所に不思議なほどの面積で茂っているてっぽう草を見て思い出した。

 (今日の575) 雑草も遊びのためにゃ工夫する
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アロエの力

2024年07月25日 | 回想

 近所のアロエが元気に色濃く茂っている。もう何十年になるだろうか、アロエが茂ると思い出すことがある。それは知人が「かっちゃん(知人は私のことをこう呼ぶ)、気づかんじゃろうが髪が薄くなりよる、何か手当した方がええでよ」と飲みの席で教えてくれた。それほど気にしないまま時間が過ぎた。

 知人は親からの仕込みで健康と髪を保つための実践として「アロエ」を毎日2~3㌢食べる。一家全員が髪の抜けなどを気にしないでいるという。確かに知人のふさふさで黒々とした髪は素晴らしいと思う。先日も出会ったが、年相応ではあるがふさふさで黒い髪は昔とあまり変わらない。

 「アロエを食べる」、その忠告をその時から実践していれば今の薄い薄い頭頂には至らなかったのではと悔やむことしきりだ。何かしてしまったと後で悔やむことを「後悔先に立たず」というけれど、私のように何もしなかったので今を悔やむのは何と言うだろう。

 当時、我が家の狭庭に鉢植えのアロエは何個かあった。 繁殖力は凄いので毎日口にしても何の支障も起きなかったのに、頭頂が薄くなることをそれほど気に掛けなかったことが今日の姿となった。CMでは効果即効が幾つもあるが、ここまで歳を重ねたので自然に逆らわないで済まそうと思う。1週間で効果、そんな夢はまだ見ていない。

 (今日の575) 薄くても理髪料金変わりなし
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あの時の涙

2024年07月16日 | 回想

 備え付けの新聞を読んでいるとある会話が聞こえてきた。近くの席で話し込んでいた女性連れの一人が涙声で「もらい泣きして涙が止まらんかった」言う。もらい泣きしたその内容は分からないが、優しい人なんだと思いながら自分はどうだろうと考えた。そうした場面に幾度も遭遇したり立ち会ったが、薄情なのかもらい泣きの記憶は浮かんでこない。でも涙に心を痛めたことはある。

 その涙は20代半ばのころの事だが今も記憶に残る。父は、病身な母と長男の私と弟妹3人を残して現役で急逝した。これからどうする、長男としてそればかりが気になった。葬儀を終え家族が落ち着きかけたころ「親が死んでも涙を流さん」という噂が耳に入った。これは世間がくれた試練だ、そう思い新しい生活を模索した。

 四十九日の法要を終えた夜、「安心してくれ、やっていける」、自信を確かめるように床の中で父に伝えた。不意にほうを熱いものが、「自分にも涙がある」そう思うと嬉しくてぬぐうことが出来なかった。泣けなくてつらかった、その思いはこの時に消えた。「泣きたいときには泣けばいい」という。でもそうならないこともある。

 あの涙から間もなく60年。うれしい涙も哀しい涙も何度かあったかもしれないが強く記憶に残っている涙は思い出せない。涙は人間らしい感情の表れという。血も涙もない人だけにはなりたくない。

 (今日の575) 頬つたう熱き涙に涙した
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氷の思い出

2024年07月10日 | 回想

 暑い季節になると冷たい物の購入が増える。スーパーには商品を家まで持ち帰りのための氷が準備されている。その氷ボックスに掲示が出ている。内容は「お買い上げいただいた商品に見合った量の氷をお持ち帰りください」。その昔は見かけなかったように記憶する。レジャーという言葉が一般的になったころから様子が変わってきたように感じる。

 購入商品の持ち帰りとは思えない氷の盗り方を時々見かける。最も驚いたのはレジャー着姿の男性がクーラーボックスに氷を入れている。順番待ちで眺めていると、罰悪そうにクーラー半分ほどで立ち去った。よくない事とは分かってやっているとしか思えない。スーパーの店員から注意されるのも見たことがる。

 私の高校時代、当時もっとも高額なアルバイトの日給は350円だった。仕事は暑い夏休み、1貫目の大きさの氷の塊を自転車に積んで配達する。当時は今のような冷蔵庫ではなく、厚目の木の板で作った箱に銅板を張ったもので、箱の最上段に氷を置いて箱の内側を冷やしていた。今は想像すらしにくいだろうが、氷は昔から夏の生活に欠かせない貴重品だった。

 そんな氷の塊を買いに行ったことがある。父の葬儀の日は残暑の厳しい日だった。家庭葬の時代、お世話いただいた近所の人に飲んでもらおうと風呂に水を張り、氷の塊を2個入れてビールやサイダー、ジュースなどを冷やした。葬儀の手伝いを仕切られた人が「ええ考えじゃった」とひと言発し、グラスに注いだビールを一気に飲まれる喉の動きは今も目に焼き付いている。
 
 (今日の575) 氷塊に頼りしころの懐かしく
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逸品もいつかわ

2024年06月30日 | 回想

 日本で初めて石油化学が生まれたのは昭和30年代の前半。ドイツで生まれで岩国育ちの触媒を使って誕生したのはポリエチレン樹脂(PE)だった。フラフープをご存じの方もあろうが、あのパイプを作った樹脂はPE、遊びの具として広まった。若い時にそんなPEの生産に関わっていた。

 PEは紙や木材に硝子などにとって代わり、生活の隅々まで浸透していた。PE樹脂は品質的に向上を続けコストでも汎用できるように変わった。ある健康飲料メーカーが配達用のガラス瓶をPE容器に切り替わったときは、プラントの皆で喜んだことを記憶している。瓶の回収が不要になった。

 そんないい時代もあったが、今はどうだろう。PE以外にも各種樹脂が世に出回っているが、それらの使用後の始末の悪さが地球上の環境汚染を起こしているとされる。対策としてレジ袋が有料に変わった。樹脂の種類と用途が広がり、レジ袋対策だけでは対策にならない。海浜に流れ着く廃棄樹脂対策が急がれる。

 PE生産で共に働いた一人からの数年前の年賀状にこうあった。「公害の元凶のようにいわれて、PE生産の初期にタッチしたことが孫に話せない」。一人のオペレーターの責任ではないが、機会があれば樹脂使用後の正しい廃棄につて説明しよう、後日こんな返信をした。

 (今日の575) 樹脂製品キチンと処分世のために
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思いだす絵手紙

2024年06月23日 | 回想

 久しぶりに机周りを整理する。処分量の一番は新聞のスクラップ、どれを残すかどれを廃棄処分するかなど判断していては終わりは来ない。これは毎度のことで皆さんもご経験がおありかと思う。さっと見てさっと破棄、明日収集の燃えるごみとして処分する。

 どうして紛れ込んだか記憶にないが、はがきホルダーが箱の底にあった。開いてみるとなんと懐かしいはがき、自分の絵手紙が残っている。10数年前、知人がボランティアで絵手紙教室を開いていた。面白そうなので月1~2回、小学校時代の絵画クラブを思い出しながら何十年ぶりかの絵を描いていた。参加して1年目くらいに教室の作品展があり、展示会の賑いにと出展した。

 写真はその時の作品。縦位置の下が初作品と書き残している。消えそうな薄い字で「暑中見舞」と書いる。鉢植えの植物は何だろうか、朝顔の葉に似ているが茂り方が違う。そのころはミニトマトを作っていたのでそれかもしれない、などと思い出す。淡い緑が涼しそう、先生の評はそんな内容だった、ダメ出しの評の無いことで参加は続いた。

 面白さが増したころ、身辺に多忙なことが舞い込み教室をご無沙汰することになった。今も先生とは交流があり、新聞に投稿が掲載されると内容に見合った絵手紙が届いていたが、それはさすがに遠のいた。記録として残る、恐ろしいようでもあるが思い出すには必要、書いても撮っても描いても、残しておこう。

 (今日の575) 物忘れ残した記録が薄れさせ
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アメンボを見て

2024年06月02日 | 回想

 先日、公園の菖蒲池でアメンボを見た。どのくらいの間見ていなかったろうか。菖蒲の葉陰などではっきりしないがかなりの数が水面にいた。菖蒲鑑賞の人らも珍しそうに眺めたり撮ったりしていた。ふと子どものころの小川のことを思い出した。

 子どものころ住んでいた地域は藩政の時代は下級武士の住んでいたとされるが、そんな大昔のことは知らない。記憶にあるのは第2次世界大戦の終わった昭和20年代の初めから。空襲を心配することなく山や畑を駆けまわり、空き地があればそこにたむろし集団で遊んだ。庭に果実が生れば家の人に断って食べたりした。

 そのころは山裾の道路両側に家が並んでいた。どこも3世代同居で町は賑やかだった。家並みの裏側は大方が水田。今の時期は田植えの終わったころで一面が緑一色だった。そんな稲田の真ん中を水量豊富な小川が流れていた。ここも子どもの遊び場。メダカ、フナ、ごり、ナマズなど追っかけた。蛙も飛び跳ねていた。水すましもいた、アメンボもいた。波紋も経てずにスーィスーィと水面を滑るように進んでいた。

 そんな小川や稲田は一変して商業地域に変わった。それは昭和40年代の中ごろ、近くの山が崩され稲田や小川を埋め、国道のバイバスとなる道路が作られたから。今は幹線道路として重要な役目を担っている。自然を守るか道路を作るか、そんな議論はなかったように思う。何かの折にこうして思い出す子どものころの風景、やっぱり懐かしい。

 (今日の575) 崩したらもう戻せない山と川
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学校の机

2024年05月04日 | 回想

 入学式が終わりひと月あまり、小学新1年生は学校生活に慣れて来ただろうか。社会人1年生の五月病は現役のころ何例か見てきたが、GW明け元気に小学1年生のみんなが登校する、そんなことを思いながら小学時代に学んだ机をながめる。

 岩国教育資料館には懐かしい教材、使いこなされたい民具、今では想像もつかないがかつての生活必需品などが展示されていて、誰もが無料で鑑賞できる。あんな民具が今の電化製品に変わったんだ、そんなことが学べる。いくつも懐かしい物はあるが、炭火のアイロンなどは生活の知恵から生まれた必需品、使ったことがある。

 写真は資料館に展示されている昔の小学校の机と椅子でいづれもの木で作られている。これで6年間学んだ。机は一脚が2人用に出来ている。机の蓋を上に開くと習字用の硯置きがあった。掃除の時はこれを動かして雑巾で床を拭いた。今、地震訓練で机の下にしゃがむ映像を見るが、この机では机の作りから出来ない。ランドセルは椅子に背負わせていた。

 写真前列の小型の杖と椅子は低学年用、それに向き合う高い机は教卓で先生が使う。机に罪はないのだが思い出すことがある。学期ごとに席替えがあり、誰が隣になるか気になった。神ではない担任の思いひとつで学期の面白さが左右される、楽しくもあり憂鬱でもある席替えだった。

 (今日の575)  席替えで誰が隣か息をのむ
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喜寿の出遇い 3

2024年04月22日 | 回想

 今年度の母校の小学校の新入生は103名という。私らのころはひとクラス50名余、それが6クラスあった。児童数は三分の一に減少、少子化というけれど数字を比べるとより実感する。道路を挟んだ校舎の向かいは図書館だが、駐留軍の接収施設となり星条旗がなびき、図書館は疎開していたことを思い出す。

 懐かしい教科書にはもう一つ解説があった。タイトルは「国定6期 戦後の国定教科書の時代(昭和22~昭和23年)」。教育基本法が制定され、昭和22年4月の6・3制の新しい教育制度が発足した。国民学校初等科は、再び小学校に改められた。これまでの修身・公民・地理・歴史などの科目が統一され「社会科」となった。

 さらに続く。昭和22年、文部省から、民主主義の精神が採り入れられた近代的な教科書が発行された。昭和24年には教科書の国定制度が終了し、現在に至るまで検定教科書が使用されている(原文のまま)。つまり、私らは国定教科書最終版というよし悪しは別にして記念となる時代に小学1年生になったことになる。

 国定教科書とは「政府機関(文部省)あるいは政府の指定する機関が執筆・編集し,政府により全国の学校で一律に使用を強制される教科書。1903(明治36)年に小学校教科書の国定制度が確立したという。今の検定制度下の教科書選定ではその内容について各種トラブルが報道される。タブレットやAIで育つこれからの児童らの先々はどういう世界になるのだろう。ただ、民主主義と戦争の無い地球を作って欲しい。そして宇宙のすべてのものとも。

 (今日の575) 教科書の思い出消すかタブレット
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