日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

交差点での一瞬

2014年04月30日 | 社会 政治


 運転していて、信号機のある交差点とそうでない交差点を通過するときは注意力に差がある。設置されていればそれに従うことで一応は安心して通過できる。無い交差点では時には最徐行かつ細心の注意が必要となる。初めてのそうした交差点では周囲への気配りは欠かせない。

 交差点の信号、青の意味は「歩行者は進むことができます。軽車両以外の車や路面電車は直進し、左折し、右折することができます(但し書きは省略)」と教本にある。青は「進むことができる」のであって「進め」ではない。他の交通の状況が良ければ「進むことができる」と注記がある。そして信号機の信号は前方の信号を見るように、と載っている。

 交通量によるのだろうが「青色の灯火の矢印」がある。右折車にはありがたい信号だが、そうだからといって絶対安全かといえばそうではない。通りなれた交差点で信号待ちする。前方の斜面に綺麗に咲いたツツジを撮って信号変わりを待っていた。そこは交通量の多い交差点なので右折の矢印信号がある。矢印が点灯し右折が始まったところへ直進の中型トラックが突入してきた。おそらく数ミリほどの差で事故にならなかったと思う。突入した原因は分からない。

 進行方向は青になったがどの車も発進に一息したようで、急いで発進する車はなかった。ヒヤリとしたのは私だけではなかったようだ。夕方、我が家の前の四つ辻でドンという鈍い音。裏通りなので信号機などはない。道路に一旦停止の白線が引かれているが、双方が徐行と停止を励行しなかったと思う。物損事故だったがルールを守っていたら起きない事故だった。心に言い聞かせておこう。
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ことば

2014年04月29日 | エッセイサロン


 いつだったかTVの短い料理番組。「お米」「お醤油」「お味噌」「お鍋」・・・、と「お」をつけて番組が進む。その進行の人の素性は知らないが、もし台本に「お」が載っているとしたら気の毒な番組の担当になったと同情する。「お」は言葉を丁寧に美しくする働がある。似た接頭語に「ご」がある。「御(おん)」は少し改まって使うのが用途という。何れも使いすぎると聞き苦しい。エッセイ同好会でも書きすぎは合評で指摘される。

 新聞に掲載されていた亡くなった叔母さんのことを綴ったエッセイ。主役の叔母さんが途中で母親になったり叔母さんだったり、叔母さんの子どもを従妹や娘としてして書かれている。文中には作者の実母も親の表現で登場するし作者も登場する。500字ほどの作品だが、登場人物の関係を理解しながら読ませるところは、推理小説の謎解きのようで、肝心の訴えたいことの内容が1度では伝わってこなかった。

 人様さまの作品をとやかくいう力は持っていない。こういう書き方はやめよう、という資料として残しておく。登場人物について同好会の例会でも、よく考えて書くよう教えられる。特に字数の限られた短い作品では、人物関係が明快でないと文章の理解が難しくなる。「多数の登場人物の関係をわかりやすく書ける」ための練習は積んでおこう。

 例会で間違った語句の使いも教わる。「流れに竿さす」で、竿さすは、時流にうまく乗るという意味なのに反発の意として使用している。辞書など手放すなと教わる。国学者の金田一秀穂氏が「いまの学生たちは五十音の順番を忘れている」と話されている。原因は紙の辞書を使わず電子辞書を使うことが原因らしい。自分もよほどのことがない限り電子辞書で済ませている。紙の辞書を神のように思ったころもある。陽の目を見させなければと反省する。
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好きなもの

2014年04月28日 | 生活・ニュース


 ソチ五輪フィギュアスケート金メダリスト羽生選手「好きな食べ物は」と問われて「正直、食には興味が有りません」と答えたという。それを紹介されて戦前戦中派のジジ族が「好き嫌いないんだ」という好意派が多かった。子どものころの食糧難を多少とも経験している年代には、食べ物の好き嫌いやその選別など思いもしないこと、食卓にのせられたものは残さず食べた、と話が続く。羽生選手の興味がないという真の意味は分からないが、ジジ族の感じと同じとしておこう。

 そんなジジ族の1人だが現役中の朝食は米飯だった。完全リタイア後は変わったいうか変えられたというか朝だけはパン食になった。 パンは食パンに限っている。CMではトーストしたそれにいろいろな手を加えたり塗ったりしているが、軽くトーストしたものをそのまま食べている。バターやジャムなど妻は勧めるが、パンそのものの味を楽しんでいる。そんな私が唯一塗っているのは自家製の八朔ジャム。今年も知人から沢山に届き、残していたそれで2回目のジャム作り。

 皮を薄く剥く、その後で果肉を取り出す。食べてはいたが作る手伝いは初めて。皮むきは何とかなるが、果肉の取り出しには苦労した。終わったとき10個あまりの八朔なのに大仕事をした感じになり、目に見えない台所仕事の労働力を感じた。そこまでで手伝い終了。後は家内の範疇、このたびのジャムには私の苦労がわずかだが加わっており格別の味になっていると思う。

 ジジになっても食べることは楽しみの一つ。それでも若いころと大きく変わったのは料理の内容、量より質になった。これは老い先を考えてのことではなく、健康維持のごく自然体なのことだろう。そういっても外食の機会も年々回数が減る。3食欠かすことなく食卓につけるのはありがたいことだと感謝しよう。
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野菜をいただく

2014年04月27日 | 生活・ニュース


 「ジャーン」、携帯にメールが届く。送信者ごとに着信音を変える機能も備わってはいるがそんな設定をしていないので誰からも同じ着信音。電話も同じで設定、だから繋がればいい、届けばいい程度の用途。着信があると必ず携帯を開かないと送信者の確認はできない。 

 そんな「ジャーン」の一つ、直近は「遅くにすみません。門扉のところにタケノコ、タラノメなどおきました」という内容がSMS通信で。急いで玄関を出る。なぜかこの日は門燈を早くに消していた。段ボール箱にタケノコ、タランメ、ホウレンソウ、大根、新玉ねぎ、チシャが詰まっている。タケノコは茹でてあり、葉物は根の部分は綺麗に洗ってある。どれもがすぐに料理できる状態にして届いている。

 情報をもらうのは嬉しい、中でもこうしたメールは格別で家内は大喜び。何はおいても新鮮さを保つための保存や処理をする。消費増税に絡めて増税分以上の値上がりは暗黙の了解のように定着しようとしている。野菜類もしかりだ。健康のためには野菜摂取は欠かせない、スーパーさんには申し訳ないがいただいた野菜で何食分か助かる。

 届けてもらったタケノコは茹でてあるだけでなく、皮を剥がれた形もいいし見た目だけでも味の良さがわかる。若いころの経験がそう言わせる。昔はタケノコの保存方法など知らず、穫れ過ぎると粗末に扱ったこともあった。自前の畑に体育館が建ち収穫できなくなると、旬の物のありがたみがよくわかる。タケノコの季節もそう長くはない。これからは保存しておいたものを折々にいただく。感謝しながら。 
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成心という諺

2014年04月26日 | 生活・ニュース


 ポストインされた小さなチラシに「先入感」と題した短い文を目で追っていた。いい買い物ができます、そんなことが書いてあるが何かすっきりしない。繰り返して読んだが同じ。そこでチラシを横においた。とたん「先入感」でなく「先入観」が正しいことに気付いた。読み初めに「感」と「観」の違いに気付かなかったのが迷いのもとだった。

 「先入観」は三字熟語の一つで「ある事柄に対して、初めから持っている固定観念。自由な発想を妨げる思いみ」とある。類似語には先入見・先入主・ 成心・色眼鏡などが載っている。成心(せいしん)は初めて出合った語句、その意味は「前もってこうだと決めてかかっている心。心中にもくろむところのある心」などとある。「先入観を捨て話を聞いてみたところ、彼の言い分にも一理あることが分かった」という例文がある。

 遠目で「あの花は八重桜」、そう思いこんでいたから写真を撮ろうなど思ったこともなかった。ある日、錦雲閣を背景に八重桜を撮ってみようと思ったので歩を運んだ。そこで花は八重桜でないことに気付いた。立札には「花蘇芳(はなずおう)。 葉が開く前に開花します。 花は紅紫色、葉は桂の葉に似ています。マメ科 中国」とある。

 先入観を捨てて真摯な観察、そんなことを機会あるごとに言ったり書いたりした。今回の遠目からの先入観は人さまに迷惑はかけなかったが、同じことは一歩誤ればどんなことになるか分からないと改めてその怖さを思う。先入観はどうして起きる、あるがままに素直に見ないとこから起きる。先入観を捨てたらもっといいブログの題材が見つかるのかもしれない。すでに色眼鏡をかけ見ている。凡人は先入観を容易に消せそうにない。
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アーク灯とLED

2014年04月25日 | しっちょる岩国


 ここ岩国からも政治・経済・学問・芸術・運動などなど各界にその名を残された人は多く、いづれも郷土の誇れる人として語り継がれている。その中の一人、日本のエジソンといわれる藤岡市助の銅像が、先日、城山ロープウエイ山麓駅のそばに建てられた。藤岡市助とはどういう人か、岩国検定実行委員会発行の「いわくに通になろう」では次のように紹介されている。

 1857(安政4)年錦見に岩国藩士藤岡喜介と妻ウメの長男として生まれた。日本の工学者、実業家。日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。
 1865(慶応元)年、藩校の養老館に入る。1875年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。1881年 工部大学校(東京帝国大学工学部の前身)を首席で卒業。銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。この日は電気記念日となっている。同校教授を経て、1890年、同郷の三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る。
日本電気協会会長、東京電気社長、岩国電気軌道社長などを歴任。27歳の時に10歳年上のエジソンをその研究室に訪ねている。

 市助の学んだ岩国学校校舎は現在、岩国学校教育資料館として吉川藩以降の岩国教育関係の史料が展示されいる。その資料館に「藤岡市助記念資料コーナー」が設けられている。市助の業績を忍ばす展示品が並んでいる。白熱電球の特許証や藤岡式電球の数々など、見学に時間を忘れる。資料館の入館料は無料で錦帯橋から徒歩で10分ほどのとこにあります。

 その市助の銅像は、背に回した両手を腰のあたりに当てた立ち姿であるものを見上げている。それはアーク灯ならぬLDEの照明。白熱電球の製造はすでに終了している。その変遷を偲びながら、後に続く若い技術者にエールを送りながらLDEを見上げておられるのだろう、引き締まった口元に笑みを感じる。
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書道のこころ

2014年04月24日 | 回想

 
 岩国学校教育資料館に小学校時代の懐かしい机が昔のままの姿で展示してある。二人掛けの木製の机で、それぞれの右側に小さな硯入れが一体になっていて、そこで墨を磨っていた。そう、小学校の時は習字の時間があった。その習字で思い出がある。字が下手なのに習字で山口県知事賞をもらったことがある。それは錦帯橋の3文字を書いた小学校3年くらいの時だった。字はへたでも前衛的な文字でなく、まっとうな楷書の記憶は残っているが、賞状が見当たらない。

 東京で書道教室を開ている知人のブログは旬報スタイル。その内容の中心は書道についてであるが、女性の感性に富んだ美しい文章を楽しみにしている。そこには指導するうえでの心得は勿論、書道や文字に対する思いが込められた文章が心を打つ。また、書道を通じての広範な文化活動の紹介もあり、都市文化の一端に触れている。そんな直近のブログから教わったこと。

 「指先にはたくさんの末梢神経があるため、やわらかい毛を集めて作った筆をコントロールする書道は脳に大きな刺激を与える」「書く前に深呼吸をしたり、文字を書く途中で筆を止めるところでは息を止め、はねるところや払うところでは息を吐いたりしているので無意識のうちに腹式呼吸をしており、心肺機能を高めることにも繋がっています」。

 パソコンを使い始めて変わったひとつに「字を書く」ことがゼロに近くなったことだ。端的には自筆の署名が必要な時は書くが、そのほかはすぐには思い出せない。学校のころには「字は下手だが丁寧に書いているからわかりやすい」が私のノート評価だった。字が下手だから丁寧に書いていたのだろう。丁寧に書いていたから知事賞になったのかもしれないと勝手に思う。そうすると、何事にも注意深く心をゆきとどかせる素直な子どもだったのかと懐かしむ。
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消えるの?

2014年04月23日 | 地域


 あるロータリークラブから公園内のバラ園の整備依頼を受けた人は、同志ををつのり見事なバラ園を復活させた。季節には地元はもとより観光の人らにも喜ばれ、写真愛好家の被写体の一つとなり、ブログなどでも広く紹介された。そんな様子は地元紙でも紹介され多くの人が知るところとなった。

 3年前、整備依頼を受けた人は、バラ花壇の周囲に竹垣を作りたいと竹細工グループに相談された。グループの知人から声をかけられその設置の日参加した。竹運びが主な手伝いであったが、作業の最後まで汗を流した。グループのみなさは竹の準備から道具類すべてがボランティアとしての活動で、頭の下がる思いだった。完成した垣は花壇に入る人にご遠慮願うだけでなく、バラの引き立て役にもなった。

 バラの名札を作りたいと相談を受け、慎重にカタカナの名前を打ちラッピングし取り付け、名前が一目でわかるようになった。その後も種類は増えたようだが、整備依頼を受けた人の転居などからだろうか、バラ園の手入れ不足を感じていた。ところが廃園になるらしいということを人づてに聞いた。先日、回り道をして立ち寄ったところ、バラに負けないくらい雑草が伸び茂り、かっての面影はなかった。数輪のバラがそれでもかっての名残を残していた。

 入り口のアーチに取り付けられていたバラ園の看板が外されていたことで、やっぱり廃園になるのかと思った。ロータリーさんの運営も不況からか苦しい、退会した方から聞いた。その後立ち寄った時には雑草の刈りとりが行われていた。公園は公衆のために設けられた公共の場という。今度は公の力で整備し市民の憩いの場に蘇らせて欲しい。

 今日は「サン・ジョルディ」の日でバラと本を贈る日という。初めて知った。
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落ち葉の生涯

2014年04月22日 | 生活・ニュース


 新緑が美しくなると人の目は上を見上げ足元を見なくなる。その足元には新芽に追い落とされた古い木の葉が遠慮そうに道の端で重なり合っている。年々歳々相似たる自然の繰り返しに過ぎないといえばそうだが、人の世もこれに例える言葉があった。濡れ落ち葉、これを紹介したのは評論家・樋口恵子さんという。これは1989年の流行語大賞新語部門・表現賞を受賞した。

 濡れ落ち葉を掃除する、掃き集めるときくっついててなかなか離れないことは経験している。そんなところから、定年退職後の夫がこれといった趣味もないので妻が出かけると「俺も付いて行く」とどこにでもついてくる様子を指すという。定年を待っていましたとばかり出かけることに転身した妻には我慢できない煩わしい、ことだろう。妻が出かけるようになる前の表現は「粗大ごみ」、男性にだけつけられたこららの表現、男女差別とのクレームはなかったのか。

 道の端でたむろしているような落ち葉たち、ここに来るまでは幹を守る光合成や呼吸をつかさどる最先端の役を担い、次世代への橋渡しをした。次世代が芽吹くと代を譲りその勤めを終えて、たむろしている。仕事に追われそれに没頭し、地域行事にも参加しなかった猛烈人生の退職者に似ている。そうした姿に追い打ちをかけるのが「燃え尽き症候群」、意欲を無くし、社会的に機能しなくなってしまった人を指すという。そこに夫の責任は少ない。

 今、城山はいろんな緑色がパッチワークのように織りなしている。それは針葉樹も広葉樹も、落葉樹も常緑樹もそれぞれのが標高300メートルで生きている証だ。吉川広家入国以来斧を入れぬため原始林化しており「自然休養林」に指定されている。城山の落ち葉は朽ちて自然に戻り再び山の養分となる。小さくても何かの養分となれるよう生きていこう。
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垣の昨今

2014年04月21日 | 町かど


 この2年いや3年ほどの間に我が家から四方向1000歩ほどの距離に何軒の家が建ったろうか。その数は両手の指の数をはるかに超える。家の外見から若い人だろうと思える家が多い。本から抜け出たモデルハウスのようなおしゃれな明るい家、そんな家は若さに似合いの車が2台の置かれているが、昼間は見かけないことが多い。

 新築を囲む塀、ブロックは灰色の無粋なものはなく、カラフルな遊び心あふれるもので、それは積み木を楽しむような出来栄えになってる。花壇と庭木、こちらも絵本のように綺麗で季節の花が咲いてる。今月の初めに完成した家は、リビングらしい部屋の外に濡れ縁がついた。新築で見かけることのなかった濡れ縁、モダンな構えに渋さを感じる。

 錦帯橋を城山に向かって渡ると風致地区、超モダンな建物はなく、新しくても大方が和和風作りで統一されている。それは多くの史跡を見て歩く観光の人らにも心地よい風景と思う。そんな地区に道路に面する2方向が長い杉垣の家がある。いつも綺麗に剪定されている。刈り取られた角は直角でその線はいつも直線、道路と向かいあう面は緑の紙を張り付けたように平らに仕上がっている。剪定はこの家の主、何度か作業を拝見している。ひょっとしたら藩政のころからの続いている垣かもしれない。

 垣は屋敷や庭園などの外側の囲いのこと。これから派生したのか、人との関係では高くても低くてもいけない、有ってもいけない無くてもいけない、そんなことわざがいくつもある。ただ健全で正しい垣なら壊されない、侵入されることはない。賢者の心持ちにはなれないが、壊されないように身を守る垣は心に決めておこう。
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