日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

鞭棄小路

2014年11月30日 | しっちょる岩国


 NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」も終わり近くなった。当初は予定になかった吉川広家が11月23日の放送で登場した。広家は官兵衛の墓に分骨しているほどの人物、官兵衛を語るには欠かせない人物なので登場は必然。さて、その最終回は例年にならって時間延長で12月14日に放送予定だったがそれが止めになった。ドラマの出来が悪かったのではなく、国会劇場のふざけ解散による総選挙のあおりという。最終回は1週間遅れとなるようです。その吉川広家にまつわるお話。

 関ヶ原の戦いで敗れ、取りつぶし裁定を受けた宗家毛利家を救った初代藩主吉川広家は、わずか3万石の岩国に移封された。朝鮮の役に勇将とうたわれた広家に対しての冷遇は堪え難きものであった。堪忍袋の緒を引き締め捲土重来を期して隠密を江戸に放ち、乗馬を日課とし天下を動かす機をうかがっていた。ある日、乗馬の帰り道、江戸隠密から将軍家光が着々と幕藩体制を確立させていることを聞かされ、もはや毛利家が天下取りに出ることは難しいことを悟り、嘆息して思わず騎乗したまま鞭を落としたと伝えられている小路は「鞭棄(むちすて)小路(こうじ)」と呼ばれている。この小路はどこにあるでしょうか。

 これは、今日の第3回岩国検定試験の「問12」の問題全文。検定が終わるまでこの記事の掲載を待った。この答えは四者択一の「 旧制岩国中学武道場横」。その小路に面する民家の板壁に小路名を記入した札が掲示してある。経過年月とそれによる風化で掲示にも文字にも気づく人は少ない。「何を撮りよってですか」と公園清掃中の人に声をかけられた。ちょっと知ったかぶりで設問のような話を下。「何年もいるが掲示に気づきもしなかったし、この通りにそんな由来のあることを知らなかった」、その後で「ところで観光ボランティアの方ですか」と問われたので「違います、岩国検定実行委員会といます」として会のPRを少々。

 「いやあ、いい勉強をさせてもらいました」とその人は清掃に戻られた。城下町にはこうした歴史町名の掲示がそれぞれの通りにある。その城下町もその面影を残した建物が少しずつ今風になり面影が消えていく。それは歴史町名の文字が薄く読みづずらくなって行くことと並行しているように感じている。受験いただいた皆さんありがとうございました。
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心配は・・・

2014年11月29日 | しっちょる岩国


 明日は第3回岩国検定試験の日。有志で実行委員会を立ち上げ5年、隔年で検定試験を実施してきた。それはご当地検定がブームのころ、有志、それも素人の集団が行うことに多少の戸惑いを感じたのは発足当初だけ。「岩国の歴史・文化・自然などの魅力を市内外の人によくしってもらい、市民には岩国に愛着と誇りを持ってもらいたい」という気持ちが検定作業へ打ち込ませていった。

 各地のご当地検定は、自治体やそれに類する公共団体が企画し実行されている。悲しいかなその動きは見られず素人の有志で始めたご当地検定だった。発足の主旨は地元各紙で報道され、関東在の新聞にも大きな紙面扱いで載り、在京の地元出身者に喜ばれた。ただ、事情把握不十分で誤解による異論もあったが、結果は多くの人に喜んでもらえた。

 第1回試験の反省としてテキストが必要、受験された多くの方からも要望が届いた。そこは有志の会、稟議書など不要「よっしゃ作ろう」のリーダーのひと声で始まる。着手して1年余、A5版カラー印刷120頁余のテキスト「いわくに通になろう」が完成した。自己評価以上の書評は地元紙の「いわくに紹介の宝石のような1冊。記者として知っているつもりの岩国に多くの発見があった」。

 テキストの再発行は有志の会では困難。そこでテキストのCD版を発行、喜んでもらえた。試験準備は終わった。ひとつ心配なのは天気、週半ばころの予報よりは好転しているが夜が明けてみないと分からない。受験申し込み者は高齢者も多い。雨が降らず暖かいことを願っている。5年目のゴールはそこまで来た。
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紙造り

2014年11月28日 | しっちょる岩国


 和紙がユネスコの無形文化遺産登録に決まった。今回は細川紙と本美濃紙をすでに登録済みの石州半紙に一括登録し、名称を石州半紙から「和紙」となった。「日本の手漉和紙技術」が改めて見直された。喜ばしいことであり伝承されることを願っている。和紙といえば吉川藩の製紙技術のすぐれていたことはよく知られている。

 文献によれば天正年間(1573年~1592年)に当時の小瀬村に導入されたという。原料の楮は海風の当たる土地では成育が悪く、やせ地に適する性質から、小瀬川や錦川奥地の山の斜面を利用して作り、谷川の清流を利用して漉いた。小瀬川のそれは質量ともに他の地域より優れていた。なお紙は半紙が主体でいく種類かの高級紙も漉かれた。

 岩国藩の奨励で楮の作付面積も伸び、製紙技術も向上し盛況となった。紙販売により財政が良くなり、江戸・京・大阪での支出や幕府に対する土木事業費用もまかなう主要産業となる。1640(寛永17)年、藩は紙専売制度を制定し取引の大阪商人を決定する。大阪に蔵屋敷を設けるほどになった。1720(享保5)年、大阪竹本座で初演された近松門左衛門の「心中天網島」に「岩国の紙の仕切銀にしたれども・・・」として出るほど岩国の紙(半紙)は大阪市場で日本を代表する紙として流通していた。

 藩は紙すき人に対しては一定の量を割り当て、それを超えても全部買い上げる。定量に足らない場合は厳罰を課した。一方で、仕入れ銀を前渡ししたり、用具の周旋、楮栽培の助成など生活の保証をした。他領への紙の持ち出しや楮の密売などは禁止、監視所が設けられた。紙すき女の他領転出(嫁入り)も禁止するなど、商品を有利に売るためのいろんな策が設けられた。

 こうしてみると、産業育成策としての規制や助成、支援という内容は、藩政のころと今もなんら変わっていない。飛脚とITの時代なのにその差異はない。原則は一つしか無いということか。 
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校庭の落ち葉

2014年11月27日 | 自然 季節


 昨日の雨は薬雨といって、冬眠する生き物が水分を摂取するための恵みの雨というらしい。古の人の万物に思いをはせた命名の姿がしのばれる。一夜明け冬にこんな日和はそんなにはないだろうと思わせる気持ち良い青空、何もかもが清々しくなる。

 近くの小学校の校庭、子どもイチョウの木の根回りが黄色の葉で飾られている。青い空に伸びた小枝に残っている葉も間もまなく散るだろう。並んでいるスズカケの木も大きな葉を散らし始めた。木々は冬に向かって準備をしている。

 今、世界中が大雪に大雨、竜巻や高潮など地球温暖化が原因といわれる異常気象で、生活の仕方を大きく問われている。変えなければならないかもしれない。このままでは日本特有の四季もいつかは消える感じがする昨今、日本の暦に残された季節の含蓄ある数々の言葉を考えて見たい。

 校庭の黄葉を見ながら、まだ律義に四季を伝えてくれる自然を大切にして守り通さねばとシャッターを押す。
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粘り強さ

2014年11月26日 | 自然 季節

 
 子どものころにはビワの木には自家製の新聞紙袋が掛けられていた。最近は規格品だろうか、黄色の遠目には実が熟れたのかと早とちりしそうな袋が掛けてある。食べるだけで何も知らなかったが「ビワの木は粘り強いのでいい品です」と息子が剣道をしているとき有段者の知人から木刀もらった。使いこまれたのだろう、濃い茶褐色のそれはどっしりした感触だった。息子もそれを中3まで振っていた。杖や印用の材としても優れているらしい。

 ビワのそんな粘り強い性質だからか、毎年、収穫されずにせっかく生った実を落としてもまた蘇ってくる。同じ状態の木は散歩道でも珍しくない。「桃栗3年柿8年」といわれるがビワは9年とも13年ともいわれるほど、実のなるのに時間がかかるという。そんなビワに花がつきはじめた。花は白くて地味なうえに厚くて硬そうな葉に囲まれ気づかれにくい。

 実は鶏卵ほどの大きさ、色は淡いオレンジ色になる。表面にある薄いうぶ毛が淡い色に見せるのかもしれない。果実を割ると茶色で光沢のある種が複数入っている。実はそれなりに厚みがあるが、種に災いされて実の割に物足りなさを感じさせる。しかし、一袋にブドウとまではいかないが、何個も実があり満足感をくれる。子どものころ「おばさん貰うで」そう断って食べていたころが懐かしい。

 柿の木は「さくいので登るな」と教えられたがビワの木についてそれはなかったが、登ったことはない。木の性質、実が食べられる時期と食べ方などいつか誰かに教わりながら遊んで覚えた。今はスーパーの商品棚で食べころ到来を知る。子どもらに外遊びを粘り強く勧め、自然の果実の美味さを知って欲しいものだ。
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遊具の秘密

2014年11月25日 | 生活・ニュース


 今年最後の3連休が終わった。各地で多くの催しがありさすがの公園も人影なし。落葉した桜の木の下で遊具が日向ぼっこをしていた。その影が複雑な幾何学文様となって地面に伸びる。これはアインシュタインでも解析は出来ないだろうと眺める。遊具を設置する時に安全には留意するだろうが、影の文様まで気を配ることはないだろう。

 砂場、ブランコ、滑り台が遊具の基本3種となっていて、これらは人力で動かすもの。動力をもって駆動するものと区別されているそうだ。遊園地でスピードや高さなどが売りものの遊ぶものとは確かに違っている。人力や自力で動かし運動する遊具には、それを使う、主に子どもだろうが、より高くより幅広く楽しむための工夫やその経験の積み重ねがいる。公園の遊具はそんな子どもの発達を促すだろう。

 いつだったか、兄弟がシーソーで遊んでいた。兄は片方の真ん中あたり弟は反対側の先端にまたがっている。眺めていると、上がったり下がったりするたびに喜ぶ弟に合わせ兄はシーソーを上下させていた。兄は人を喜ばせる術を遊びの中から自然に会得しているし、弟はいつかこのことを思い出し、同じ経験をするだろう。兄弟仲が良い、それ以上のことを無意識に体験している、そう思いながら見ていたことを思い出した。

 遊具の事故も報道されることがある。自然にさらされた設備なので管理者による厳重な点検補修は欠かせない。子どもの、人としての素養を育む設備への十分な配慮を願いたい。缶けりにパッチン、コマ回しやチャンバラなどは昭和前半の時代の懐かしい思い出だ。
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虎の巻

2014年11月24日 | 生活・ニュース


 昔は「虎の巻」というものがあった。教科書で学習する内容の要点が記されていて、調べたリ考たりする必要のない参考書。存在を知ってはいたが欲しがらなかった。英語の授業、教科書の英文和訳の時を思い出す。指名されると教科書を直立させ、教師から見えないように虎の巻を重ね該当箇所の訳を読み上げる。時には読み過ぎたりすることもあった。「一字一句違わない訳を他のクラスでも聞いた。何かに書いてあるのか」真面目に問い返す教師は教科書に指導要領を挟んでいた。

 何もかもスマホやタブレットだというこの頃、隠し持つようなものはないだろう。90歳の女性が疑問を抱いたらすぐにスマホで問い合わせると、待つ間もなく答えが送られてくるので、スマホは手放せない。あの雲は何というのだろう、いい終わらぬうちに知人はスマホで撮って送る。その答えはすぐに返ってきた。「豆単」を繰る、なんてことは遠い過去になった。

 与党の幹部が自身のブログで「霞が関文学など」のタイトルで国会の本会議や委員会での答弁について書いている。「『何が言いたいのかよくわからないように』委曲を尽くして書いてある。委員会質疑を充実せるに資するとは言い難い。本会議となると、時間の制約もあって書かれたものをそのまま読むという誠につまらないことになってしまいます」と官僚の書いた答弁を評している。答弁に味のないのは、いわれていた通りこうした虎の巻の朗読だからと分かる。

 辻踊りを復活させる、そんな活動が近くで始まった。多くの人がその成功を心待ちしている。その踊りの甚句は「七・七・七・五調」の歌詞になっている。100近くもあるという歌詞を「よく覚えておいでで」と聞いたら、扇子の両面に墨で歌詞が書かれていた。歌い手さんの名誉のためにも言い添えるが、勿論、扇子を持たずに歌われる人ある。
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復活へ向けて

2014年11月23日 | 地域


 ゑびす祭りで、いつもの何倍もの人出、賑わうということは何か華やぎ活気を感じる。歳の差の少ない知り合いとそんなことを話しながら歩く。子どものころは雪の降ることもあった、二百数十間ある通りの両側には屋台がびっしり並んでいたことなどは忘れないで記憶に残っている。城下町といいながら様相は大きく変わった。変わらないのは真っ白な御幣が軒下で揺れていることくらい。

 今年は屋台が1店もない。町おこしやグループとそれに協賛される人らが地元産の食材や加工品などをフリーマーケット風に出店され祭り気分を盛りあげている。こぢんまりした祭りに変わったのも、祭りのあるメイン通り商店街のシャッターと空き地を見れば一目瞭然だ。富くじの景品もだんだん小物になっていく。

 そんな中で、最近活動を開始した小糠踊りが通りで披露された。小糠踊りは城下町で400年続く盆のおどり。踊の継承か困難になることを心配し保存会を中心に継承と町の賑わいを図り、来年夏には昔ながらの辻踊りを復活させようと応援隊が結成された。太鼓と三味線の音に合わせ保存会委員の優雅な踊りが始まる。見物の人らも踊りに加わり輪が広がる。

 見物の人らの「懐かしい」という声が聞こえる。終わるたびに大きな拍手が贈られる。「神か仏か 岩国さまは 扇子一つで 槍の中」「こぬかこぬかと 磯に出てみれば 磯は松風 波の音」「ソロバン橋じゃと 駆け引きしても 通りゃせぬぞえ 横車」、最新の「ここは岩国 城下の街よ 今じゃ東京へ ANAが飛ぶ」といったように、そのときどきの世情をうたったことが分かる。こんな歌詞が100を超えるという。いつか並べてみたい。
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彼岸花の葉

2014年11月22日 | 自然 季節


 彼岸花、といわれても今は11月下旬、暦で今日は「小雪」というのになんでいま頃、おかしなやつと思われえても仕方ない花の名前。秋の彼岸のころに「突如咲き」彼岸が過ぎると急に「消え失せる」様子を、人の見ぬまに造花を置いたり退けたりしたのかと思うと感想を漏らした人がいた。

 丁度2カ月前、彼岸花の咲き誇るころ「白い彼岸花の咲く球根」を3個もらった。どうなるものかとわからぬまま、ブロック塀のそばに埋めた。彼岸花の話も写真も話題から遠ざかるころ、球根を埋めたところから細い芽がのぞき始め、今は一株に30センチ余りの細長い数枚の葉が育っている。見るのは初めてだが、彼岸花の球根を埋めたところから生えたので彼岸花の葉に間違いない。

 花の枯れたあとで葉が伸びてくるが冬と春を通り越して夏近くなると葉は消えてしまう、そんな彼岸花の生涯は聞いている。花が咲くとき葉はない、花と葉を一緒に見ることはなかった。こんな様子から「花は葉を思い葉は花を思う」相思の花と親しむ風習もある。この花は別称で曼珠沙華と呼ばれ、句や歌に詠まれることが多い。

 スーと伸び、鮮やかな緑の細長い葉の中央を白い筋が走っている。10カ月先の開花までこの葉を観察してみよう。小雪はわずかながら雪が降り始めるころというが、植えている場所は雪を心配しなくてもよい。どんな生い立ちを見せてくれるのやら楽しみだ。
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そろそろ

2014年11月21日 | 生活・ニュース


 「そろそろ考えるか」「まだ早いよ」、これは歳暮用品が並んだ棚のそばで偶然聞こえた夫婦の会話。主人の目は今ブームの地元日本酒の棚に向いている。1万円買えば千円分のポイントがつく、そんな幟が何本も誘っているが客はまばら、まだ早いが共通した感覚なのだろう。早いと思うが、お節の予約も始まっている。食品価格の上げが続くのではこちらは早い方が望ましいのか。

 師走の総選挙が決まった。国民には理解できない政治の裏舞台の駆け引きがこうした結論だろうが、その費用700億円は痛い。時は師も走る、というこの時期だから先生と呼ばれる議員先生も走るのだろう。気の毒なのは1年生議員、任期の半ばで無職、午後からは前議員に変わった。再び赤絨毯を踏めるという確約はない。そこへ戻るためひたすら走って走って走って票を集めるしかない。まだ早い、は命取りになる。

 「足もとに気をつけて、そろそろお帰りませえ」、これは人を見送るとき祖母の口癖だった。「蝸牛 そろそろのぼれ 富士の山」という一茶の句がある。二つのそろそろは、時間をかけてゆっくり行動しなさいよと言っている。昔の田舎道は石ころがあり凹凸の状況、祖母の見送りは誠に親切だった、今にして思う。

 間近に迫っていることも「そろそろ」と表現する。前議員が駅頭でのインタビューへの答えもそこそこに、東京駅のホームへ向けて駆け出す姿は真剣な顔をしている。自分のために一刻も時間をおろそかに出来ない姿だ。選挙は国会で日頃どちらを向いているかが問われる。この選挙、歳末商戦にどんな影響を与えるのだろうか。
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