日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

年月経てば

2024年04月12日 | しっちょる岩国
               (岩国七町一帯)
 何度も書いている岩国七町の話し。錦帯橋正面に当たる通りは「大明小路」。城下の大手通りで、昔は中級武士の屋敷が並ぶ代表的な侍町だった。その西側に「玖珂町」「柳井町」「米屋町」「塩町」「材木町」「魚町」「豆腐町」など町人が住まいする街を「岩国七町」と呼ぶ。山陽道の宿場町「玖珂」、港町「柳井津」の商人が移住した。

 その後に「曲尺町」「鍛冶屋町」「寺町」など商いの名称をつけた町名もでき、庶民の生活感の息が感じられる町が整っていった。小学校への登校はこれらの町の中を通っていた。どの町も狭い道幅、隙間なく軒をつられた各種の商店の数々、町の匂いとその姿が鮮明に思い出せるのが不思議だ。

 およそ20年前に、この界隈を特集した一冊がある。当時の各町の1行見出しは「玖珂町 江戸の商家そのまま」、「柳井町 にぎわい響いた高天井」、「鍛冶屋町 丹精込めて鉄を打つ」、「塩町 往来の主 時代で変遷」、「材木町 遺品が語る振興の願い」、「魚町 地域に届ける伝統の味」、「豆腐(登富)町 ふれあい生きる台所」、最後に「大明小路 メーン通り新風そよぐ」。

 今の姿は見出しより大きく変わった。一番の鍵は車社会へ世の中が転換したことだと思う。記すと差しさわりがあるのでひかえるが、町全体がほかに比べて少し遅れていた車社会に対応しようと変化を続けている。まちの姿が変わり錦帯橋界隈が城下町呼称の返上などということが起きないか心配している。

 (今日の575) 町の名で話が弾む高齢者
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景観重要建造物の門・塀

2024年01月08日 | しっちょる岩国

 地域の魅力向上と個性ある景観づくりの核となっている建造物が、時間の経過とともに形を変え、失われることを防ぎ、周辺の景観が大きく損なわれることがないように、ということで歴史的に由緒ある建造物が指定されていることは知っていた。

 市民ならだれもが知っている岩国城を始め、吉香神社、徴古館、昌明館(吉川史料館)、吉川家長屋門、錦帯橋を渡って白為旅館、国安家住宅(岩国市観光交流館)、椎尾八幡宮、細田写真館、など全部で28の建造物が指定されている。建造物というからには家構えだけと思い込んでいたら、門・塀も指定を受けていることに気づかなかった。

 門・塀、確かに歴史的建造物にはそれに見合った出入り口がある。これまでもそんな思いで眺めていたが、そんな門・塀5件が指定されている。いづれも錦帯橋から続く大明小路にある。錦帯橋よりから双葉タクシー営業所左斜め前、岩国幼稚園前2カ所、半月庵の並びに2カ所。いづれも薬医門構えと説明がある。
 
 大明小路は、七町やほかの藩政時代の通りに比べれば変化は少ないが、それでも今風の建物が見られるようになっている。景観重要建造物はいづれも個人の所有となっている。そのどれもが木造建築のため、維持・管理を続けるにはそれなりの強固な計画性が必要に思う。錦帯橋から数分もあればみられる建造物、観光資源としても大事にして欲しい。

 (今日の575) 歴史的おもむき秘めし薬医門
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世界唯一の美しさ

2023年10月29日 | しっちょる岩国

 昨日ほど横見もせずにテレビ番組を見たのは超久しぶりだと思う。「ブラタモリ」「池の水ぜんぶ抜く」の二番組。ブラタモリのTV番組欄「錦帯橋美の極みアーチ橋の謎 世界唯一奇跡の構造 瀬戸内海一望の絶景城 タモリ江戸職人技体験」、これは全文。自治体からも繰り返しPRの公報があった。

 最後は猛烈な風雨の中での映像だったが、そこまでは綺麗な映像とカメラワークの良さが錦帯橋をより美しく映し出した。タモリさんの短いが発するひと言ひと言が的を得ていたと思う。それは、岩国の歴史知識の深さを誰もが知る案内役の方の説明の分かりやすさと、タモリさんの勘の良さだと思った。イントロで中学の修学旅行で来たけど興味はなかったということから予習されていたのかもしれない。

 旅番組、観光地紹介番組では見慣れた錦帯橋も、こうして概略ではあるが橋にまつわる各種の歴史的な背景が含まれていると、たんに5連の木造アーチ型の橋とは見方や感じ方が変わるのではと思う。由緒ある地を訪ねることがあれば、これからはそうしたいと思った。タイトルは字幕より拝借。

 「池の水ぜんぶ抜く」、この池は錦帯橋近くにある吉川家の居館跡の吉香公園を囲む堀。堀の周囲は散歩では常道、大きな錦鯉、亀の甲羅干しは観光で来た人に喜ばれている。見つかった亀の外来種の多さに驚いた。応援の高校生らがこれから守ってくれると嬉しいが、多くが進学で地元を離れていくのでは、しっかり後輩に託して欲しい。

 (今日の575) 清流に錦の帯が橋となり
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二代目槍こかし松

2022年08月24日 | しっちょる岩国

 錦帯橋が国の名勝に指定されて今年100年目にあたる。記念行事もコロナ禍では目立ったことは無かった。その錦帯橋を岩国側から右斜め上の岩国城を眺めながら渡り終えるとそこは横山側になる。橋の袂の下流側の石段を下りると右側に立派な姿の大きな松の木が植わっている。

 いま植わっている松は3代目の「槍こかし松」。槍こかし松にはこんな由縁がある。諸国の大名が他藩の城下を通るときは、行列の槍を倒すのが礼儀となっていたが、大藩が小藩である岩国の城下を通るときは礼儀を守らず、槍を立てたたまま堂々と通った。岩国藩の武士はこれを見て憤慨し、大きな松の木をわざと橋の頭に植え、槍を倒さないと通れなくしたのがこの松と伝えられる(いわくに通になろう 参照)。

 300年の歴史を有する松は岩国市民にも観光客にも親しまれていたが1952(昭和27)年9月枯死した。その前年、1950年のキジア台風で流失した錦帯橋再建中に同松の枯れ死症状を早大・青木楠男工学部教授が診断。そのとき、枯れ死寸前の樹の一部に種から生えた小枝を発見、「これぞ二代目である」とし、苦心丹精された甲斐あって成長した松(写真)で、1956(昭和31)年岩国市に寄贈された。

 由来は知らないが、初代の槍こかし松と錦川をはさんで向かい合うように、錦帯橋岩国側下流の石段にも、大きさでは引けを取らない松が植わっていた。周辺整備で姿を消したがいったがあの松はどこに消えたのだろう。故えなければあれほどの松が植えられることは無かろう、そんなことを追想する。

 (今日の575) 槍倒す枝の太さを思い出す
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一城一食

2021年06月15日 | しっちょる岩国

 月刊誌「文芸春秋」に「一城一食」という企画シリーズがある。それにはその地に残る名城と食と酒をテーマにして掲載される。これまで掲載された城の中で、訪れたのは高知城と松江城の2カ所、それ以外は訪れたことのない。そんなこともあり毎号、写真と記事を楽しみにしている。

 七月特別号のそれは第二十二回としてわが街の「岩国城」。城の写真は天守閣全景、名勝・錦帯橋から見上げた山頂の天守閣、香川家長屋門、復元された天守台。食の写真は錦帯橋畔に店舗がある平清の「岩国寿司」、「大平」、レンコンの「三杯酢」。酒は錦川下流沿いにある老舗の蔵元八百新酒造の「雁木」。どれも、歴史やいわれを折り込みながら詳しく5頁にわたっていい内容が紹介されている。

 食で紹介の「岩国寿司、大平、三杯酢」、この三種は家の祝い事、盆や正月の来客の接待、地域の祭り、こういった時には各家庭で作り、来る人をもてなしていた。ちなみに我が家の寿司作りは、木枠の寿司桶に、5升の飯を5段重ねにした押し寿司で、一回で150個の寿司が客を迎えた。三杯酢には特産の岩国レンコンが欠かせなかった。もちろん、スーパー等夢にも思わないころの話。

 雁木は、錦帯橋の架かる錦川下流の一つである今津川沿いにあった。かつては吉川藩の港湾施設の一つで人の往来、物流で賑わっていた。水害に備えるという大義名分の護岸工事で今はその姿はないが、雁木そばにある蔵元が、酒の銘柄として歴史を伝えている。文春7月号を手にコロナ禍ではありますが、機会がありましたらご来訪ください。
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うどん自販機半世紀

2021年05月09日 | しっちょる岩国

 市内には通称「欽明路道路」とか「欽明路バイパス」いう県道15号線がある。下りを起点にすると錦見3丁目交差点から国道2号線と分かれ玖珂町野口で再び国道2号線と合流するまでの16.6㌔。。カーブの多い廿木峠をバイバスする主要地方道に指定されている。開通は1972(昭和47)年の4月だからまもなく半世紀になる。

 当初は有料100円、値上げで200円になったが開通直後からよく利用した。信号も少なく、カーブの多く交通の難所であった峠道がカットされ便利なことから交通量が多く、予定より早く償還が済み15年目に無料になった。この道路と開通と同時に開店した自販機コーナー「欽明館」がある。今もネットではここの情報が発信されている。

 開店から変わることなく今も働き続けているのは「うどん そば」自販機。子どもが小さい時には我が家から歩いての距離なのでよく利用した。これと同じ自販機についてTV番組で「点検修理出来る人がいなくなったので、次に故障したらおしまいです」と残念そうに話す店主の顔に寂しさを感じた。

 この自販機、開店直後に、一晩中作動して機外にうどんの山ができたことがある、知り合いの店主が笑いながら話してくれたことを記憶している。白と赤と黄を背景に「うどん そば」の文字、今朝、これを背景にして記念写真を撮る大型自動二輪車のカップルがいた。多くの人に親しまれていることが伺える。それにしても半世紀、よく働くものだ。
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甦れるか岩国七町

2021年03月16日 | しっちょる岩国

岩国七町、いわくに通になろう(岩国検定テキスト)より抜粋。岩国は藩の発展に伴い、城下町も整備されていった。家臣は横山、千石原、川西に屋敷割、錦川対岸の錦見地域には町割りが決められた。中心は錦帯橋の正面に当たる「大明小路」で昔は中級武士の屋敷ばかりで代表的な侍町であった。その西側には「玖珂町」「柳井町」「米屋町(鍛治屋町)」「塩町」「材木町」「魚町」「豆腐町」など、町人が居住する「岩国七町」と呼ばれる町を作った。2007(平成19)年2月16日、財団法人古都保存財団により「美しい日本の歴史的風100選」に選定された。

 岩国市は今年初め、錦帯橋とそんな岩国七町を中心とする城下町を「国重要文化的景観」への選定依頼を文化庁に申し入れたという。指定依頼にあたって報道では、江戸期の風情が残る城下町、風土と人々の営みによって育まれてきた町並みや景観と紹介している。町人が居住する七町も車社会となって何十年、大きく様変わりした。

 写真は玖珂町・柳井町・米屋町・塩町の4つの通りの昼下がり、約1キロが見通せるのだが人も車もその姿はない。これは偶然ではなく、いつの間にか閑散とした通りになってしまった。原因はいろいろだが、通りの両側に軒を連ねていた商店が次々と閉まり、現代風の家屋や駐車場へと様変わりしている。

 子どもの頃の通りの賑わいを知っている身からすれば言葉が出ない。年末には有名なアメ横ほどの混雑ぶりだった。そんな賑わいの一つだった豆腐町に昭和27年にオープンした市小売り市場の廃止が決まった。食料品は何でも揃う地域の台所だった。老朽化と出店のないことから決まった。廃止後の姿は未定、七町の姿がまた変化する。
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原生林の薄化粧

2021年02月20日 | しっちょる岩国

 先日、今冬2度めの雪の朝、澄み渡る真っ青な空を背景にして岩国城が朝日に輝いている。城は我が家から直線で1.5㌔くらい離れているがいつ眺めても飽きることのない光景、この眺めを求めて家を建てたわけではないが贅沢している。特にこの季節の雪景色には感動する。岩国城は初代藩主の吉川広家が、錦川が山裾を取り巻く山の頂に1608年築城、現在の城は1962年に復元された。

 築城されたのは城山、標高300㍍で城のある場所は同200㍍。この城山は広家入国以来約400年斧を入れぬため原生林となっており、林野庁から「自然休養林」として指定を受けている。全山がシイなどの常緑広葉樹に包まれ、春の緑褐色の若葉は美しい。成長すると樹冠がドーム型になりブロッコリーが集まったように見える。樹木の種類は約2,000種。草木類は350種。シダ類約100種を数え、暖地性の植物も多く、学術的に注目される植物も多くある(「いわくに通になろう」参照)。

 吉川公園に連なる紅葉谷公園から登山道を歩いて上る。我が家から城まで急ぎ足でおよそ1時間、最近はゆっくりで時間を測らないことにしているが、上る頻度は大幅減となっている。途中は森林浴をしながら城下を眺めながら町の変化をうかがっている。

 この原生林の中を磁石と地図を使って指示された地点を見つけ、通過して目的地に達する時間を競うオリエンテーリングのパーマネントコースがあった。2度ばかり挑戦したが麓から急斜面を上り城一帯を歩き、尾根を上り護館神、さらに尾根を歩き急斜面を下るコースだった。今はどうなっているのだろう。
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開通から60年

2020年11月14日 | しっちょる岩国

 錦川清流線の前身である岩日線の川西駅ー河山駅間が開通して今月で60年と知った。開通の日、上りの一番列車を見に川西駅の急な階段を上った。一番列車は亜鉛や硫化鉄、銅の鉱石を積んだ無蓋車が数両連結していたように思う。それを引くのは蒸気機関車、黒ずんだイメージだが、祝開通のためかピカピカに輝いていたことが印象に残っている。

 岩日線は岩国市から島根県日原駅までの計画で岩と日を合わせた路線名だった。工事着工から6年過ぎて川西ー河山間27.9㌔、それから3年経過して河山ー錦町間16.6㌔が開通した。さらに北へ延伸のため着工されたが、1980年国鉄再建法により岩日線は廃止の対象となった。しかし、存続運動が功を奏し1986年分割民営化され第三セクター鉄道として決定、発足した。
 
 これには1971年、河山にあった日本鉱業の河山鉱山閉山が大きな路線廃止の原因ではないかとは素人の思い。1987年に今の錦川清流線として開業に至った。閉山とともに周辺の人口減が進み、離別の挨拶、引っ越し手伝い、見送りと寂しさを感じるときはなかった、しばらくして寂しくなった町にがくぜんとした、当時を知る美川町の人から聞いたことがある。

 現在は沿線の見どころや産物をラッピングしたジーゼル車が、清流・錦川に沿って走る。四季折々のイベントなど経営への工夫はされているが、経営は厳しい状態と報道される。車社会、高齢化、過疎化なども影響し利用者はふえない。各地で似たような路線が大幅な減便や廃止路線になっている。地方創成が声だけになっていないか、もう一度見直すべきではなかろうか。
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地雷火

2020年10月31日 | しっちょる岩国

 先日、「岩国領の四境戦争」展が徴古館で開かれた。徴古館は1945(昭和20)年に旧岩国藩主吉川家によって建てられ、その後岩国市に移管された市の博物館。同館には岩国にまつわる資料が保存されていて、随時テーマを設けて展示されるが入館無料でもありよく出かけている。

 慶応2(1866)年の四境戦争における岩国領の動向について、岩国領に残る文書や絵図などの記録を中心に、四境戦争前後の岩国領の様子が紹介されていた。岩国領がどのように戦ったかがわかる展示と説明され、多数の文書や絵図が展示紹介されていた。毎回ではあるが、墨で書き残された文字は悲しいかな判読できず、短い解説文に頼るしかない。ところが岩国検定で学んだことの説明もあり、そうか、と年甲斐もなく嬉しい思いをした。

 こうした文書や絵図はガラス張りのケースに展示されており近づくことは出来ない。四境戦争展では一カ所「地雷火(写真)」がガラスを挟まずに展示されていた。触らないでの表示はあるが、150年前の戦に使用された実物に接する、何か高ぶるものを感じる。地雷といえば近代の武器のように思うが、それに似た武器が当時にもあったことに驚く。

 火薬が湿らないように内部に油紙を敷きそこに火薬を詰めたという。起爆方法について諸説あるようで断定はされていない。遊撃隊の記録に「敵兵は地雷火に恐怖の様子」とあることから、武器として威力のあったことが伺える。戦争は慶応3(1867)年1月、前月の孝明天皇崩御による国喪で征長軍開兵布告で終結した。
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