日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

新たな想いへ

2018年12月31日 | 生活・ニュース

 注目した今年の1字は「災」、多くの人が頷く文字だった。「さい」と読んでも「わざわい」と読んでも「災害・事故・病気・難儀など人に不幸をもたらす出来事」になる。来年の1字が「福」に連なることを願い、被災された人から災の遠ざかることを願っている。

 紅白歌合戦は越年行事のシンボル、観ながら1年を省みたこともあったが、チャンネルを回さなくなって幾年月だろう。そんな合戦のCMを見ていて、「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌が語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます」。これは20年前に亡くなった中西 龍さんが「日本のメドレー」で聴者に語り掛けた言葉をふと思い出した。休むことなく流れる歳月に流されないように、そんなナレーションなのだと思う。

 「3時間待って診断加齢です」という川柳に、高齢者の言うに言われぬ一端を感じたのは今年初めだった。苦笑しながら、いや、加齢症ということは、年相応の健康状態で病は無い、ということになる。そう思うと名医なのか迷医なのか分からないが明医ではないかと思いなおした。そんなことから今年は嫌なことも我が身を見直す糧と心掛けた1年にした、と自分では思っている。

 思い返せばこの1年、厳しいことも嬉しいこともあったが除夜になった。明日の迎春に新たな想いを語り掛けれるように、これから平成最後の除夜会に臨み、鐘楼の鐘を打ち鳴らす。
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帰省待つ

2018年12月30日 | 生活・ニュース

 TV各局のニューストップは帰省、国民大移動という表現は聞こえなくなったが、映像を見る限りでは大移動に思える。この師走は大寒波襲来で、雪国と呼ばれる故郷への道中は難儀を伴う帰省になっているようだ。故郷へ帰る帰省するという経験が一度もない私だが、孫を待つ気持ちの対が故郷へ向かう力ではなかろうか、出迎える父母らの映像から思う。

 孫が低学年のころ列車到着に合わせて駅前で待つ。両親に挟まれて歩いてくる。待っている私らの姿が見えると「ばあちゃ~ん」「じいちゃ~ん」と走り寄ってくる。「転ぶなよ」と思いながら久しぶりの駆けてくる足取りの成長を喜んだ。学齢が進むと専用のキャリーバックを引いて帰る。さらに学齢が進むと学校主体にかわり、その回数は激減、帰省の様子も成長に合わせ変わった。

 リハビリを続ける妹の様子を見に病室へ、リハビリの効果ありにほっとする。病室の窓から広い駐車場を見下ろす。病院は年末年始体制で診療は無く、遠くの職員駐車場の駐車スペースを区切る白線が手持ちぶたさで退屈そうに見える。帰省を楽しみにしていた若い看護師さんも多かろう。どんな孝行をするのだろう。

 30代半ばまで三交替勤務でプラント運転に従事した。だから帰省が話題になる盆も正月も休みは無かった。しかし、それを愚痴る同僚は思い出せない。いろんな交替勤務者、警察官や消防士、警備員に企業の生産現場、救急関係者、除雪作業する人、交通機関関係者などなど多く人が働いている。そうした人のお陰で帰省も可能になる。帰省する人それを待つ人も働いている人をちょっと思い浮かべてみよう。
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2018年の投稿

2018年12月29日 | エッセイサロン

 購読紙には読者文芸欄として「歌壇、詩壇、俳壇、柳壇」の四つがあり、週1回掲載される。詩壇は1編だが他は10編余載る。そんな詩壇に「父 もう一つの戦争体験」として初投稿したものが8月に掲載された。今日の朝刊、年末になり「2018年『読者文芸』を振り返って」という各選者の講評が載っている。その詩壇の講評に何人かの投稿者の氏名の一人に私の名前が載っていて「戦争で苦しんださまざまな人の苦しみを教わった」とあり大驚きしたが、いい締めくくりになったと大喜びした。 

 新聞への投稿を始めたのは岩国エッセイサロン」という同好会へ入会したことが契機だった。それは定年から数年経過した2006年の秋だった。12年の月日が過ぎたが、楽しく学んでいるので「そんなになるの」というのが実感だ。12歳といえば小学校を卒業する学齢、創作エッセイのレベルが小学校卒業に値するか否かは通知表のみが知る。

 投稿は「はがき随筆(毎日)と広場(中国)」へはここ何年も月1編強は投稿している。採用掲載の有無は別にして、この継続だけは自己啓発の意味も含め頑張っている。今年はほかに初投稿で文藝春秋の「三人の卓子」に採用され、詩壇と合わせ初が思わぬ結果になった。

 詩壇選者は「作品は落ち着いて完成へ導く。一定期間寝かせ、突き放した他人の目で読み返したら、言葉が再び動いてくれるはず」とし、「創作は人生を深めてくれる」と結んである。エッセイ例会でも講評類似の創作姿勢を教わる。岩国エッセイサロンは「創作エッセイを新聞や雑誌へ投稿することにより、自己啓発を図りひとりひとりが輝いて生きることを目指す」、来る年も努力しよう。
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鯖とクジラ

2018年12月28日 | 回想

 子どもころにはリイヤカーに魚箱を積んでおばさんが行商に回っていた。売れた魚は魚箱の上で処理していた。現代のスーパーでも頼むと注文通り処理してくれるから、この部分については変わっていない。我が家の注文はたいてい青魚で、鯖か鰯か鯵、タコかイカくらいだった。母が留守の時は言われたものを処理してもらっていた。

 鯛やカレーなどは記憶にないが、新聞に包まれた赤黒い塊がクジラ肉を知ったのは高学年になってから、最近の国際捕鯨委員会(IWC)脱退のニュースを聞きながら思い出した。学校給食が給食らしくなったのは高学年になってから。給食は大家族の我が家では作れない献立が多く、そんな中でもクジラ肉の日は楽しみだった。

 鯖は骨が除きやすく、身もしっかりしていて贅沢な一品だった様に思う。今でも鯖は好きだ。青臭いからと嫌われる魚のひとつと聞いていたが、このところ鯖ブームという。そんな中、鯖缶の人気急騰で店頭の鯖が品薄という現象が起きている。鯖缶が美容と健康にいいという女性の需要増がブームを呼んでいる。鯖は貧乏人の食べる魚と行商のおばさんは話していたが、庶民の食卓を潤わせたいい魚ということになる。

 クジラ肉は何年いや何十年も食べていない。IWC脱退で商業捕鯨が開始されクジラ肉がどのように市場へ出回るのだろう。30年もの間調査捕鯨のクジラ肉で賄ってきた台所、どう変わるのだろう。日本の貴重な蛋白源としての歴史をどう復活するのだろうか。若い人らにどの程度指示が得られるのだろう。IWC脱退に伴い「関係国への裏切り。味方の国に丁寧に説明していく」という外務省の重い口調、鯨はどう思うだろうか。
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生姜の効用

2018年12月27日 | 生活・ニュース

 何となく眺めていた本に「生姜は仲秋の季語(植物)」とあり、読み込んだ句が載っていた。季語に生姜があるのか驚きながら物知りになった気がした。思い付きで繰って見ると大根も蕪(かぶ)も季語にある。ならばと繰ったがニンジンは季語になかった。身近なところではキュウリ、ナスも季語になる。桃やスイカの句には出会っている。考えてみれば野菜も立派な季節物だ。

 そんなたわいのないことから数日して「一番大きなのを持ってきた」と遠くに住んでいる弟が生姜を袋から出して見せた。最近始めた菜園で出来たという。聞けば高知産を買って植えたが、素人のせいか三分の一は育たなかったという。弟は一番大きい、というが知識の無い私にはその値打ちが分らない。家内は大きさに驚いている。そこで量ってみると約700㌘あった。

 生姜といえば辛みと香気があり食用・香辛料としてよく使用する。寒い時期、三交替勤務の夜勤で出勤する前、風邪予防もかねて砂糖を効かせた生姜湯をよく飲んだ。湯でなく酒がいいのは知っているが、運転して出勤なので酒は厳禁だ。もしも私がパイロットだったとしても湯にした。

 生姜の文字の後に使いみちを示したいくつかがある。「酒、砂糖漬、酢、茶、糖、味噌、湯」など。その説明を読むと身体を温め発汗作用を促す、食欲増進、菓子、調味などいいことずくめである。天平時代というからおよそ1300年以前の古文書に生姜は載っているというから早くから知られていた食べ物になる。今夜は、おろし生姜と砂糖を加えた酒で大寒波襲来に備えよう。
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ICU

2018年12月26日 | 生活・ニュース

 「お母さんがICUに入った」、妹の長女からの電話を受け入院先へ急いだ。急ぎながら、知人の話を思い出し、注意しながらハンドルを握っていた。知人が旅先で発症、搬送された病院で脳梗塞と診断されICUで治療を受けた、無事に退院したのは数年も前になるだろうか。大きな街の病院で完璧な治療を受け命拾いをした、リハビリしながら話してくれた。

 映像や話しなどから知っている「ICU(intensive care unit)」の意味は何となく解っているような気がするが辞書を引いてみた。「自動的・継続的に血圧・呼吸・心電図などの観察ができ、酸素吸入・人工呼吸などの救命・生命維持装置を完備した特別な病室。常時看護が可能で、重症患者を収容する。集中治療室」(広辞苑)とある。

 患者との関係などを問われて入室。妹の子どもらは全員が駆け付けていた。意識もあり会話もできる容態にほっとするもまだ安心はできない。甥や姪と連絡をとりながら病室に見舞う。容態は安定してるようだが症状は一進一退と言う状況だが、4日目にICUから一般病棟へ移り、リハビリが始まった。何本もの管や線が供をしている。いい方向に向かってくれると有難い。

 病棟の廊下には私と同じ見舞いの人多い。それだけ入院の人も多いことになる。大きな掲示で「インフルエンザ流行、マスク着用」が呼びかけられている。最近のこと患者、看護師など40人以上がインフルエンザに罹った報道がある。見舞う方も体調管理が重要、病棟を出てマスクを外しながら思った。 
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大根煮しめ

2018年12月25日 | エッセイサロン
2018年12月25日 毎日新聞「はがき随筆」掲載


 太く長い大根をもらった。2人なので何度かに分け料理する。そんな妻の仕分けを見ながら思い出す。
 子供の頃は3世代同居の多人数家族、母の作るおかずの量は半端じゃなかった。野菜は自家製、大根の時期には大盛りで食卓に載る。子供は「大根ニンジン大嫌い」と言いながら、それは遊び言葉、戦後の食糧難時代でしっかり食べた。
 旬を食べるのは、ぜいたくという。当時は腹いっぱい食べることだけで、ぜいたくという気はなかった。
 ただ、厚く切った大根と油揚げを、濃い口しょうゆで炊いた煮しめの味は覚えている。
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祖母の声

2018年12月24日 | エッセイサロン
2018年12月24日 中国新聞「明窓」掲載

 夕食後、虫の知らせにせかされ病院へ急いだ。到着後、退院予定だった父の病状が急変し、私が見守る中で命を閉じた。病室から出てしばらく待つように看護師に促される。
 父は50代半ばだった。病身で伏せている母、私、高校生の妹を含む3人の弟妹を残しての急逝。長男とはいえ私は20代半ば。突然、家族を守る重い責任を背負う。どうするか、暗い廊下の長椅子で考え込む。
  「大きくひと息して」。ピシリとしているが、優しく言い聞かせる声がした。驚き見回したが廊下に人影はない。誰、と思った時、祖母の声と気付いた。
 私が人の最期に初めて接したのは祖母の時で小学6年。祖母は生前、何かといえば「長男は」と話していたが、深い意味など感じることはなかった。
 こうした機に備える心構えを教えたかったのでは。そう思い、大きく深呼吸。スーと何かが体から抜け、続いて何かがみなぎった。看護師に呼ばれ、父のそばへ。最期の時と違う自分に気付く。伏せている母へ、父の姿を伝える心構えができた。
 あの時から50年以上過ぎた。それでも父の命日が来ると、信じ難いと言われるかもしれないが、祖母の声を聞いた不思議なことを思い出す。
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リコリスの葉

2018年12月23日 | 生活・ニュース

 秋のある時期になると忽然と花が咲き彼岸の近いことを教えてくれるのは彼岸花。真っ赤で放射状に反り返り群生している様子は赤絨毯を敷いた感じもする。その彼岸花、花のある時葉なく、葉のある時花はないことでよく知られている。赤い花と書いたが、散歩で見かける家の庭には黄色や白色のそれが庭の一角を占めている家も有る。そこには忌避された言われを有する花とは思えない繁殖ぶりだ。

 この秋まで、彼岸花の一種と思い込み「彼岸花が咲きました」と載せていたが、一種ではあるが園芸種名の「リコリス」と教わった。SNSのお陰である。リコリスは咲く時期も葉や花の育ち方は彼岸花と変わらない。今は葉が茂っているが、その茂り方だけでは花の連想は難しい。そこに花があったからその葉でしょうというくらい地味である。

 花が散って茎が枯れ落ちしばらくすると葉が伸びてくる。リコリスの葉は彼岸花のそれより少し巾細い感じだ。茎は1本だが同じ球根から葉は多数で、頭髪の薄い我が身からすればうらやましい気がする。葉は冬と春を越えて夏近くなると再び葉を落とす。葉はその期間、開花へ必要なエネルギーを球根に送り続けるという。

 そんなことを思いながら庭のリコリスの葉を見ていると、細いだけに開花のエネルギーを蓄えるためには何枚もの葉が必要になる、物言わぬその姿勢に自然界の仕組みの不思議を感じる。韓国では相思華(サンチョ)と呼ぶそうだ、人は人種を越えて思いあうことを彼岸花から改めて学びなおしたい、そんなことを反省する日だった。
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車の旅

2018年12月22日 | エッセイサロン
2018年12月22日 中国新聞セレクト「ひといき」掲載

 弟は自宅から50㎞離れた会社に通っていた。その会社から「会社と独身寮の見学会」の案内が届いた。両親が「見に行きたい」と強く希望するので、私は車を借りて連れて行った。

 見学会に満足して帰る途中、父は初のドライブに上機嫌だった。「退職したら車を買う」と言った。母は大きくうなずいた。翌春の退職が決まっており、家族皆、納車の日を楽しみにした。しかし3カ月後、父は急逝。車は幻となった。

 それから3年が過ぎた。ローンを組んだ中古車が、我が家初の車としてやって来た。入園前の息子ははしゃぎ、母も喜んだ。

 初めてのドライブは母、妻、息子を乗せ1泊2日で山陰へ旅した。地図が唯一の頼りの時代。ルートを丸暗記して、ポイントはメモしていた。

 その時、母は父の写真を懐にしのばせていた。「車を買う」と言った父に家族でドライブする楽しさを味わわせたかったのだ。母と写真との旅は、母が亡くなるまで20年余り続いた。

 そこに父と母の強い絆を感じていた。母と旅した父の写真は、ひつぎの母の胸に納めた。

 三十数年が過ぎた。免許証を持たない両親だったが、なぜか車の旅に出る二人を想像してしまう。

 私はマイカー歴50年になった。最近は遠出せず、買い物や通院など身近な運転が多い。そうした中、70代最後の免許更新を終えた。免許取得以来、安全運転を続けるからこそ、いい思い出が残っていると思った。
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