日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

新しい傘

2008年06月30日 | 生活・ニュース
               

家内から「そろそろ買ったら」そんな話があってからどのくらい経ったろうか。何十年ぶりかに傘を買った。

30年余り車通勤だった。傘は常備品として積んでいるが傘への特別な記憶は残っていない。いつも車のトランクで横になっていた。出張では折りたたみ傘を忍ばせていたので、この傘は外の世界を知らない。その傘に暇を出した。

暇を出した傘はチョット自慢だった。価格も大きさも落着いた色合いも気に入っていた。大事に扱ったがよる年波に少しずつほころびが進み我が手ではどうにもならなくなった。

近所の古い商店街に傘屋さんが2軒あった。その2軒目も最近店仕舞いされたことも暇を出すきっかけのひとつでもある。

この時期、スーパーの売り場には日傘と並んで雨傘も数多く並んでいる。価格を第一に色と大きさ、勿論メイドインも一応確認した。長いあいだ開くとき少しもたついたが、これからは解消される。暇を出した傘は非常用に仕舞っておく。

この日のスーパーのサービスポイントは10倍。金額にすれば食パン1斤ほどのプラスにしかならいと思うか、1斤にもなると思うか、思い違いは面白い。小麦粉高騰、粉製品値上げ続き、年金額据え置きとならば1斤にもなると思うことにしよう。

明日は梅雨の中休みの予報。新しい傘のお披露目はいつだろう。

(写真:新しい傘の撥水を思わせる雨上がりの水滴)
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視界の向こう

2008年06月29日 | 生活・ニュース
               

雨が止み少しむし暑いが日差しがうれしい日。海べからそそり立つような山頂にある建物の窓、背丈の3倍ほどもあるガラスの向こうに少しかすんだ日本画風な瀬戸内海が見下ろせる。

晴れた日は遠く四国連山も見えるという。そんな話を聞き見続けると連山がおぼろげに浮んでくる。平家の落人の言い伝も残るこの山、彼らは眼下の静かな瀬戸の海に何を見つめたのだろうか。

その裏手には広くはないが幾種類かの木が植樹された一隅があり、遊歩道はきれいに掃除されている。歩道沿いのオレンジ色のマリーゴールドが雨上がりの陽に映えている。

ここからは一転してしっとりとした山々の眺めに変わる。海ほどの広い視界はない。その代わり五つ六つと奥深く続く山肌の色合に味わいを覚える。雲は山波のように連なりゆっくりと流れる。

奥行きのある山波を眺めていて「大所高所から判断する」という言葉が思い浮んだ。細事に拘らず判断する、それは「本当の高い知見が培われた信頼のおける人」のなせることだ。

加齢とともに視力の低下を意識初めたこのごろ。見えにくくても視野と視界だけは広く保ちたい。

最近の報道から。出張の旅費は税金、そこで貯めたマイレージで家族旅行するという公務員がいる。こんな公務員に大所高所からの判断は決して出来ない。上空1万㍍、無限に近い視界の中で我欲に浸る優雅な出張はご法度願いたい。

(写真:山肌の色の違いに奥行きを感じる)
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どうして

2008年06月28日 | 生活・ニュース


2週間あまり前に「せんてい」というタイトルで、近くの供用会館の花水木が丸裸にされたことを書いた。それから数日過ぎたころ新聞の地方面にその丸裸の花水木が掲載された。

この花水木は周囲に街路樹のないことから近所の方が寄贈されたと聞いていた。新聞もその様に報じ、丸裸にした市の担当者の「交通の邪魔」になるという理由が載っていた。

近所の方が草取りや水やりなど大切にされ、春には美しい花を楽しませていた。このブログにも花の姿などを2、3度使った。近所の方も知らない間に枝葉が切取られたという。

毎日のようにそばを通るが、葉が茂り花の咲くころでも「交通の邪魔」と思ったことは1度もない。ましてや今は来春へ向けての待機中の花水木、その姿のどこが交通の邪魔なのだろう。

どなたが「邪魔」と言い出したか分からないが、せめて草取りなどの手入れをされていた近所の方の話くらい聞いてもおかしくはない。と思うがこのやり方が行政の一端だろうか。

その日「来年咲くのでしょうか」と気づかうコメントがあった。花水木はなんと思っているだろうか。

ほてい草の花が咲いた。夜明けにあわせ咲き始めその見ごろは1日で終わる。植物は自分の力を知っている。手助けはしても無用なそれは控えよう。

(写真:咲き初めのほてい草)
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梅雨の晴間

2008年06月27日 | 生活・ニュース
               

「県内は週末にかけかなりの雨量があるでしょう」の気象情報が出ている。
金曜日の今日は朝から洗濯日和。パソコン講座への道すがら、満艦飾とはいえないがどの家もそれなりの飾り付けがされている。貴重な梅雨の晴間を如実に表す。

鮎釣の道具を自転車に積んで橋の上から増水した川の様子を眺めている人を見た。川面を眺めるようには見えないので聞いた。

「この橋の上から見た流れの様子で今日の釣り場を決める」という。では何処かと聞いたら「あまり釣れそうにないな」と言いながら上流へ向かってペタルを踏まれた。何10年もの経験が背中から伝わる。

梅雨の風景によく似合う鮎釣。その中でも川霧と錦帯橋と釣人の3つの組合わせ、水墨画を抜け出たような柔らかい風景は心なごむ。撮ってみたいが難しい。

川柳を投稿出来るブログがある。いつも楽しく面白く観賞している。毎回出される課題はひとつ、投句は1人何句でもいいということで雑句をいくつか送っている。今回は「梅雨」。今日は梅雨の晴間、作句?は休み。

明日は1日パソコンの出張講座。こんな日は晴れを望みたいのだが、どうだろうか。

(写真:ひと時の晴間に見た川霧)
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夜明けの錯覚

2008年06月26日 | 生活・ニュース
               

梅雨の曇りの夜明け、人も車も犬猫も見えない通りはチョット不気味、カラスの鳴き交わすだみ声がその情景をます。

その時、神社の石段を駆け下りてきた1人の男は川の方へ向かって死に物狂いで走り去った。その手には丸い形の物が握られていた。その丸いものが後で大きな意味を持つなどその男は知る由もなかった・・・。

カラスのだみ声に目覚めた男は窓を開け「また雨になるか、予定変更だ」こうひとり言をいいながら寝起きの一服に火をつけた。「朝から忙しい人がいることよのう」閉めようとした窓の向こうに走り去る男を見た。この目撃がある男のアリバイ証言になるなど夢にも思わなかった・・・。

昨夜の味わいのある刑事ドラマの余韻が残るままに朝ウオークに出た。今にも雨を呼びそうな黒い雲の流れは何かの犯罪を呼び起こしそうだ、と推理作家の気分で筋立てを描こうとしている。

ドラマのプロローグとしては上手く出来ている、交番のパトカーを見ながら悦にいる。よしこのドラマの中心はこの交番にしよう、と角を曲がる。

いつも足早に歩くご婦人と出合い交わした挨拶が合図かのように雨が降り始めた。推理作家の夢は無残にもこの雨に流され迷宮入りとなる。

(写真:推理作家の夢を見た夜明け前の道)
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にわか雨

2008年06月25日 | エッセイサロン
               

予報通りだが激しい雨音に窓を開けた。傘を持たない子が走っている。小学校の下校時間。急いで数本の傘を持ち外へ。

1本の傘を持ち合っている仲良し。通りがかりのご婦人の傘でしのぐ子。半泣きだった低学年の女の子は、広げた傘を渡すとこっくりと頭を下げた。ありがとうと、男の子は受け取らずに駆けていく。

手持ちの傘がなくなったころ、雨雲は通り過ぎ、ひと時の慌しさが終わった。

大粒の雨の中、元気で明るい子どもたちがうれしかった。

日の暮れるころ、丁寧なお礼の言葉と一緒に傘たちは帰ってきた。

2008年6月25日 「毎日新聞 はがき随筆掲載」

(写真:雨の日のひとこま))
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サッパリ

2008年06月24日 | 生活・ニュース
               

ほかの仲間と一緒に小型トラックへ乗せられて着いたのは新築間もない家の庭だった。そこに根付いてから10数年が過ぎる。毎年この時期になると雨の合間をぬって主人が鋏と脚立を持ち出す。

庭の東側から並んだ順に、主人の言う「この1年の間に伸びた枝葉を切り落とす」作業が始まる。世に言われる剪定ではない、主人はそう口にしているが思いは違うように見える。

私は毎年最後の順番になる。最後になるがほかの仲間に自慢がある。それは1番長く時間をかけてもらうことだ。

頭頂部から始まる。思い切り短く刈られる。主人の頭髪が濃くないからといって、似せることはないだろうと思うくらい、人に例えれば地肌が見えるくらいに刈られる。

続いて45度に傾けた鋏が側頭部を刈り下げにかかる。刈る下げという表現は無いが刈り上げの逆、こちらも遠慮なく主人は切り落ちす、失礼、刈り込んでくる。同じ要領で同じ手つきで10数段あまりを楽しそうに切りまくってくれる。

主人の作業でひとつ感心する仕草がある。それは脚立の安定を確認しながら上っている。いつだったか会社員時代に身についた安全対策、と話していた。

奥さんは時どき作業の進行を確認しながら、刈り落とされた枝葉を集め「生ゴミ」として出すため規定のポリ袋へ要領よく入れる。切り・集めるコンビネーションはいい。

今年もこうしてサッパリした。そういえば頭髪の減少か主人の理髪店へ行く回数が少なくなった。が気にせずこれから1年、しっかりと頑張って伸長枝葉、いや、しよう。今日はつげの木がお話ししました。

(写真:サッパリしたと言っている「つげの木」)
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粘土と格闘中

2008年06月23日 | 陶芸
               

月2回の焼物教室へ通い始めて半年が過ぎた。参加者みんなのいう「世界で1つの作品」数点が手元にある。形を作るというには遠く、こねているうちにこんな形になった、というのが正直な作品ばかりだ。

仲間は30人ほど、退職者が多いこともあるが毎回の参加者は世話する人も驚くほど高く、意気込みの高さがわかる。課題の日・自由に制作の日などメリハリのある指導の方法は、なにかと難しい高齢者集団も和やかに粘土と格闘する。

若い講師団がいい。笑顔で褒めながらちょこっと口で指導する。たまにはろくろを廻し実技で指導する。教卓で製作の過程を話すときは若いが「先生」という態度に変わる。

薄くなりすぎてやり直し、厚くし過ぎて削りとりと格闘のさなか。思いどうりの形ちを作れるにはまだまだ時間がかかる。ノコもツチもいらないがそれなりに難しい。

ある方が「陶器など見向きもしなかった主人がそうでなくなった」と話された。新しい共通した話題がそのご夫婦には生まれたようだ。そんな感覚を早く掴みたい。

陶芸にはほど遠い粘土工作のスタート、やればのめりこめるものが見つかるかも知れない。家内から「こんなのが出来る」とオーダーが出た。

(写真:教室の入口にかかる味わいのあるお出迎え)
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月のいり

2008年06月22日 | エッセイサロン
               

第2回エッセイ教室の講演。「エッセイは文学で日記ではない。そこには普遍性があり・読者へ共感を与え・へぇ~という驚きを与える」そんな創作がいいという一説があった。

例えば、日の出入り、月の出入りは海や山からの様子がいろいろと描写される。考えてみればこのことに何の珍しさはない当たり前のことだ。ところが大家と評されるひとの手によって描写されると高い価値が産まれる。

太陽や月の出入りは何びとにも等しくおとずれる。しかし、その瞬間をいかに撮り、描き、文字にするかで、多くの人に感動を与える力が備わる。ときには人の進み方をも変える力がある。これが本当の芸術や文化の姿と思う。

これと並列にして話すことはおこがましいが、ブログの題材と感じたものを「どんなに書こうか」と悩む。題材を生かしきったかどうかは別の話になる。講演では「肩に力を入れるな」とも話された。

早朝のウオーキングでは四季の移り変わりにまつわる多くのことに出合う。書ける題材はそこここにある。粗末にしないで書き留め、いつか文字にしてみよう。

(写真:何度も見ている山の端に隠れる月)

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ほんまもん

2008年06月21日 | 生活・ニュース
               

食品だけでなく多くのことで「偽装」の文字が踊った、いや、まだ踊っている。税金についても不明瞭な使途が次々と表に出る。国会のねじれ現象の評価していいとこだろう。

最近では社名を見れば安心して買い求めるだろう有名企業のミネラルウオーターが、景品表示法違反で排除命令が出された。その商品は2年10ヵ月間で約366億円近くの売上げがあり、同法違反では過去最高額という。

天然水・自然水などを求める消費者の選択基準は成分や産地とあわせメーカー名も大切な要素という。先の商品は表示した成分が含まれていないだけでなく、取水地も違っていたようだ。

錦帯橋の上流に日本三大竹林の一つとも言われる竹林街道がある。その道沿い、雑草に覆われたその奥の様子は見れないが山水が流れ落ちている。その落ち口に誰がいつころ設けられたのかパイプが取り付けられ汲みやすくしてある。

数個のポリ缶にその水を持ち帰るところを見たこともある。ペットボトルに注ぐハイカーも見た。味も成分も知らないが正真正銘の天然水だ。いつか試飲してみよう。

この水は誰に問われても「ほんまもん」だ。事実を目にしないと信用できないとは寂しい世の中だが、自分の「ほんまもん」はどんなのだろう。

(写真:流れ落ちる本物の天然水)
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